1996年02月17日

「法成寺」の地名について(福山市駅家町・勅旨田と京都法成寺)

備陽史探訪:69号」より

出内 博都

地名アラカルト

福山市駅家町法成寺は、中世村落以来のれっきとした地名であるが、この地名は十一世紀に、位人臣を極めて「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」と詠じた藤原道長が、寛仁三年(一〇二二)京都に建てた法成寺に関係ある地名として伝承されている。

この法成寺は藤原氏極盛期のモニュメントとして金堂、阿弥陀堂、五大堂、三昧堂、十斎堂など荘厳善美をつくし、地上の極楽世界とうたわれた寺で、その造営にあたっては諸国に令して、地子官物は怠ってもこの造営は懈怠してはならないと国司に命じて建立した寺である。

これほど有名な寺であるので、同じ地名をもつこの地区は、当然この法成寺に関係するという発想は古くからあったようであり、『福山志料』にも

岡ノ堂此所ヨリ大ナル古瓦出ルコトアリ法成寺卜云う大刹コゝニアリシニアラスヤ

とあり、これらをまとめて『広島県の地名』(日本歴史地名大系=平凡社刊)には

法成寺の地名は藤原道長の建立した法成寺に関係することが考えられ、当地が藤原氏の荘園となっていたとする説もあるが分明でない。しかし直接的関係は確かでないが、現に岡の堂とよばれ、江戸時代に庄屋を務めた門田家の敷地内から多数の布目瓦が出土し、蓮華文丸瓦当と唐草文の軒平瓦にみえる文様は相当便化しており、平安時代の建築と目され、ここに寺院が存在したことを物語っている

と記されている。さて、荘園ということになると、『九条家文書』所載の「摂籙渡庄目録(以下「渡庄目録」と略)」(嘉元三年=一三〇五)」によれば、法成寺領として山城国以下一六カ国に二九ケ所の荘園、牧が設定されている。その中で、備後国には「備後三条勅旨田四十町年貢米二百石」とあり、その後、暦応五年(一三四三)の「渡庄目録」では、預所(管理者)として「細工所料所行秀、但辞退之、大外記師利」という注がついている。他の大部分の荘園が「○○庄」という地名がついているのに、備後・但馬二国だけが勅旨田とのみしか記してない。その後の文書にも「備後勅旨」とか「備後国皇后宮勅旨田」とかの記述のみで、地名を示す記述はなく、この面から場所を特定することは困難である。

法成寺の荘園として中四国では、出雲・宇賀庄(田一八〇町、米六〇石、筵布二〇〇枚=安来市)、隠岐重栖庄(田三〇町、鉄六〇〇廷)、讃岐・三崎庄塩浜(田三〇町、油五斗)などがある。

勅旨田というのは、主として九世紀に律令体制が緩んで租庸調の税収が破綻してくるなかで、朝廷の財政を確保するために全国的に設置した天皇家の私有地で、開発・耕作の経費は国費で賄い、収益は全額朝廷にいれる特定の土地である。

勅旨田は一応空閑荒廃の地を開墾するのが建前ではあるが、実際には国衙に近い良田を接収したため、人民の産業の便を奪うものとして延喜二年(九〇二)の荘園整理令によって禁止された。これ以後、国費で開墾し全額収納する体制は崩れ、地方の有力田堵(地主)の開墾した土地を中央の権門寺社に名義を寄進し、自分は現地の庄官として土地を確保する寄進地系荘園の時代にはいり、その荘園が藤原氏に集まり、摂関政治の全盛期を迎えるのである。

こうした勅旨田は、天長五年(八二五)から仁和二年(八八六)までに東は下野から西は肥前まで二一ヵ所で四二〇〇町歩におよんでおり、中国地方では備前一五〇町歩、出雲四〇町歩のみである。

このあと九〇二年に禁止令が出され、勅旨田の役割は一応終わるとすれば、法成寺の荘園としての勅旨田の役割はどう考えたらよいだろうか。名称のとおり三条天皇女御(道長の二女妍子)の勅旨、道長の権勢を背景とした三条天皇の後院領としての勅旨田であり、寛仁元年(一〇一七)三条法皇没、万寿四年(一〇二七)妍子没、治安二年(一〇二二)の法成寺金堂供養等から考えると、法成寺の完成時に施入されたものであろう。いずれにしても、多くの荘園のなかで、勅旨田という名称だけで登録されているのは三庄(備後、但馬、近江愛智)のみである。普通の寄進地系荘園とは異なり、現地勢力の弱い、殆ど直営に近い荘園とみることができるのではないだろうか。

地域の自然村落的まとまりもなく、上からの政治的圧力でまとめた荘園であるだけに、在地固有の地名がなじまず「備後勅旨」という通称が用いられ、勅旨田の性格が薄れて後、「法成寺分」という通称が一般化したのではないだろうか。したがって、固有地名を使うのではないから、四〇町歩が一カ所にまとまったものでなく、二ヵ所に分かれていてもよいことになる。

全国に「ホウジョウジ」という地名をもつ地域はかなりあるが、この寺と同じ文字の地名は、愛知県西春町のみであった。地名辞典によれば

現在の徳円寺が昔天台宗法成寺とよばれたものによるか

とあり、法成寺村は近世に数ヶ村が合併してできている。「渡庄目録」にある荘園のうち現在地が分かる一四市町村に、法成寺との関連をしめす伝承・地名・風習・行事などを照会したが、数ヶ市町村から返信があったものの、内容的には参考になることは見いだせなかった。しかし、法成寺という地名が「備後勅旨」という特殊な荘園名と関連することはおそらくいえるのではなかろうか。ただし、この地名がいつ頃できたか、岩成庄との関係はどうかということも考慮にいれなければならない。

この点では、古代郷名の「石茂郷(いわなしごう)」は「石成」の誤りとし、品治郡江良広徳院の山号の「石成山」や『西備名区』の「岩成原」など氾濫原としての土地形成期の自然地名からくる広域の「イワナル」は備南平野一帯の通称であった。

こうしたなかから「岩成荘」がいつ成立するか、立荘過程、領主など不明であるが、貞和五年(一三四九)の「長井聖重譲状」には「石成下村地頭職」とあり、室町初期には上村下村に分かれている。上村については至徳三年(一三八七)「天竜寺土貢注文」などにもみえ、鎌倉末期には成立していたと思える。

ちょうどその頃、法成寺を訪れた兼好法師は、滅びゆく御堂の末路が

かばかりあせ果てんとはおぼしてんや

と語っている。この頃勅旨田が岩成庄の一部に組み入れられたと思える。

法成寺という地名は

①「油木八幡神社大般若経巻四一〇奥書」に、寄進・筆者を示すものに

備後岩成庄於法成寺仏摂寺住侶□□法師応安七季甲大被十三日採筆良盛

とあり、これは一三七四年で、南北朝末期には、法成寺の地名が成立している。

②文明三年(一四七一)の「尾道西国寺不断経修行勧進并上銭帳」には法成寺衆として

三百文仏性寺宥等古文西林坊慶海

がみえる。

仏摂寺・仏性寺はどこにあったか分からないが、西林坊は地名として残っている。この後、備後の国人宮氏の一族が土着して法成寺を名乗っている。

寺というと『福山志料』に岡の堂の出土古瓦と、「渡庄目録」にある、「一、同末寺」の二面から追究せねばならない。備後における法成寺の末寺には「観音寺、正住(法)寺」の二寺がみられ、古瓦の出土した門田屋敷は南側に数十mに及ぶ土塁があり(一部破壊)、北側には切岸・掘切も想定されるので、近世(一七世紀)門田正豊がここに屋敷を移す以前にしかるべき土豪が居館をかまえていたことがうかがえる。

この地方に古くから勢力を張った桑原氏については、現在の服部大池の中に桑原迫の地名を残している。ここから東の山に通じる道があり、その坂を桑原坂といい、峠を五輪峠(ごりんだわ)と呼んで、そこに法成寺城という山城址がある。こうした伝承からみると、後に門田屋敷なる地に居館を構えたのは、桑原氏の一族と見ることもできる。

また、この屋敷から西北三〇〇mの尾根の先端に数段の郭をもつ山城址があり、付近に「前城」の地名を残している。この地名は当然北の法成寺城の前城であり、桑原氏が南に進出する過程には当然考えられることである。この時、末寺観音寺(当時はすでに荒廃していたかもしれない)の跡地も居館屋敷に組み込まれたものだろう。

図① 廃法成寺址出土軒瓦

図① 廃法成寺址出土軒瓦

図② 草田4号窯出土の軒丸瓦

図② 草田4号窯出土の軒丸瓦

図①②とも『福山市史』上巻より

岡の堂から出土した古瓦は次ページ図①に見る如く、極めて簡便化されている。殊に六弁の蓮花は特殊である。国分寺、駅家、官衙に関するものは殆ど、八弁または一六弁であるが、ここの瓦は二種類とも六弁で、極めて便化されている。六弁であることはこの地方の私寺(旦那寺)の一つの特殊性ともいえるのではないだろうか。六弁瓦は熊野の草田第四号窯跡からも出土している(図②)。また、蔵王の廃海蔵寺址からは七弁、九弁のものなども出ており、ローカルカラーがあったのではなかろうか。『福山市史』(上巻)によれば、

軒丸瓦も唐草文軒平瓦も極めて便化されたもので、備後国分寺、その他の備後南部奈良期廃寺跡出土の均正唐草文軒平瓦に比較していちじるしい便化が目立っている。いずれも平安期に下るものではなかろうか

とあり、さらに

類似の瓦を求めれば、福山市六本堂廃寺、同町大富瓦窯、津之郷町和光寺址などに比することのできる瓦である

と記されている。

したがって『福山志料」に

法成寺卜云大刹コゝニアリシニアラズヤ

とあるのは、末寺「観音寺」と読み替えることができるのではないだろうか。

浄雲山観音寺は現在、駅家町法成寺大字三七四番地にささやかな俗家形式の観音堂(本尊)と庫裏があるのみである。この寺の昭和四九年九月五日付の宗教法人「高野山真言宗」代表役員亀山弘応師の文書、宗教法人観音寺が宗教団体であることの証明書に

由緒沿革 観音寺は 年藤原時代によって創設されてより、現在に至るまで約 年に亘って教義をひめ、儀式、行事を行い、檀徒および信徒教化育成しておる元は檀徒寺であって一時栄えたものという」

とあり、二十余年前に現住職西一樹尼によって法人申請がなされたものである。それまではただ「観音さん」といって地区の人々の信仰をあつめて講中を作って運営されていた。

縁日の護摩供養には、尾道、笠岡あたりからも信者が詣でて賑わったといわれている。一番新しい法印の墓石(高さ一mの自然石)に

昭和三十五年四月十五日没 龍海法印不生位香川県大川郡志度町出身 山下秋二郎 行年五十九

とあり、三十余年前まで宗教活動が行なわれていた。この寺がいつ頃どんな形で存在したか『福山志料』に

観音寺 浄雲寺トモ云堂ハ頽レテ鐘堂ノミノコル銘ニ浄運教寺トアリ」

とあり、さらに『西備名区」には

浄運廃寺跡今、観音堂のみあり

とある。宗教法人申請の時、現住職が確認した「浄雲山観音寺」とい古い幔幕を総合すると、「観音寺」という寺の存在を認めることができるのではないか。そしてその場所は『福山志料』に

古城明細書ニ後ニ浄雲寺と云寺トナリシ由トアリ

という記録があるので「前城」という古地名をもつ城山である現在地ということができる。現在境内に残る古墓碑をみると、高さ一六〇cmの五輪塔(写真①)の方八〇cmの地輪に

元禄五年法印□猛 位導 七月廿日

とあり、近世になって城跡へ寺ができたという『福山志料』の記録を裏付けることができる。さらに残る二基の墓石(自然石、一m二〇cm~一m五〇cm)に

元治元年 新圓寂月山開明禅師芸州加茂郡川尻人也

昭和十一年十二月十四日 自證院律師法橋實言上人 芦品郡服部村字助元産也 俗姓院三實言 行年五十九

とあり、他に自然石の供養塔(高さ一三五cm、巾七〇cm)にも

宝永七寅年十月吉辰 三界萬霊平等利益」

とあることなどから考えて、近世以降、紆余曲折を経ながらも宗教施設として存続したことをうかがうことができる。備後における他の観音寺については、縁起・寺歴があきらかで、末寺としての観音寺には該当しないと思える。

写真① 観音寺に残る五輪塔

写真① 観音寺に残る五輪塔

京都の法成寺が没落してからの末寺観音寺はどうであったか、直接わかる資料はない。門田居館が築成されるとき吸収されたことは古瓦などの出土でうかがえるが、その他のことは不明である。しかし、中世にも「観音」という地名(または施設)があったことは、「元禄検地帳」の小字のなかに

……とだ 東山田 池口 六反田もろ田 岡かいち おき谷ガ坪 くわんおん 新そう……

とあり、いずれも現在地比定は難しいが、六反田、岡かいち(岡の堂)、続いている山崎、山神(山の神古墳)などから推定して「くわんおん」が現在地の城山でなく、もうすこし南の地にあったことが分かる。最初の寺地が居館になり、その付近にささやかな観音霊場をもち活動を続け、地名を残したと思える。このことは現在の本尊「十一面観音像」(写真②)のなかに秘められているよう思える。

写真② 十一面観音像

写真② 十一面観音像

観音信仰のなかで最も早く一般的なのが十一面観音である。浄土に往生を願う阿弥陀信仰が普及する以前の人々の救いは観音様であった。この仏像は像高七五cm、台座三五cmの小像である。法人認証後、修理し金箔を貼ったので細かい細工の跡はわからないが、頭上の化仏、頂上仏面、変化面の十二面が精巧につくられ、環光背、自毫(瑪瑙か)天衣瓔珞も一部修理はしてあるが、完全な観音像である。

修理した仏師の言によれば、当時地方ではとてもこれだけの像はできないとのことである。方形で男性的な仏顔が特異で、弘仁仏に近い雰囲気をうかがわせ、衣紋にある襞も翻波式にちかい手法がみえる。ただ宝冠を後補したので仏像の素朴なイメージはくずれ、金箔の輝きとともに時代を新しくみせるおそれがある。

しかし、これだけの仏像が長年月にわたって田舎の荒れ寺に存在したことに、いい知れぬ伝統と歴史の重みを感ぜずにはいられない。こうした状況を総合すると、現在の観音寺が法成寺の末寺としての「観音寺」に連なるものとみてよいのではなかろうか。

結論として、状況的には法成寺村は京都法成寺の荘園であったとみてよいのではないか。ただ、しかるべき開発領主のいる寄進地系の荘園でなく、既存の公田を勅旨によって設定しただけに、まとまった一地域にかぎらず固有地名のつけにくい事情があったのではなかろうか。

末寺が二ヶ寺あることは、少なくとも二ヶ所に別れていたともみることができる。福山市木之庄町の「元禄検地帳」の小字に法成(城)谷という地名があり、そこに正成寺(しょうじょうじ=清浄寺)という寺があったという伝承のあることは、末寺の一つが正住(法)寺であったという『九条家文書』にも関連する課題であろう。