1996年06月29日

洗谷八千年史(縄文から近世まで・福山市水呑町)

山城志:第13集」より

小林 定市

地名について

洗谷は福山市水呑町字洗谷にあり、R福山駅の南方三km余りの所に位置し、戸数は約四〇〇戸である。福山と鞆・沼隈山南線の交通路の分岐点に当り、要衝になっていることから、朝夕は多くの車で混雑し、近年は東西南北何れの路線も交通渋滞が慢性化する場所として知られている。洗谷の古代は不明であるが、沼隈郡諌山郷に属していたものと推定され、平安時代になると庄園地となったようで、仁平元年(一一五一)に、藤原惟方の一族によって長和庄は立庄し、京都の興善院に寄進されたのである。

長和庄の成立について、「水呑町史」に長和庄は、

永治元年(一一四二)に、歓喜光院に寄進された庄園

と、昭和三一年に発表されると、その後、水呑町説は地元歴史家によって支持されてきたのであるが、長和庄の寄進を記した古記録『竹内文平氏文書』は、非常に難解な古資料であることから、現在まで、文書の内容についての詳細な研究論文は発表されていない。

室町時代になると、熊野町の一乗山城主であった渡辺越中守兼の父、三代目渡辺信濃守家が、文明八年(一四六七)の頃戦いに破れ、小水呑(現在の水呑町小水呑から草戸の半坂一帯)に住んでいる。

江戸時代になると、「荒尾谷」または「洗谷」と地名を記した資料が多く見受けられ、初見は『宗休様(水野勝成)御出語』の一節に

岩瀬市郎兵衛と申す、三河以来の御譜代の徒士、荒尾谷といふ所に在宅

と、水野勝成の時代に家臣の岩瀬氏が洗谷に住まいをしていた。現在の水呑八幡宮は、戦国時代末期以後洗谷にあったが、水呑の中心地から遠隔地にあったため、慶安四年(一六五一)に現在地に遷宮されるのであるが、その時の棟札に

先年は、洗谷一本本にこれあり、遠所に依り破損故中興す

と、洗谷八幡宮跡の地名を記している。

福山に京都俳諧文化を伝えた野々口立圃の『福山近在名所記』の一節に

洗谷と云所に、かねのつるを見付たりといふをききて、かな山や、さかりあらたに ゆりの花 鉛の出なんといふを、かな山や しらする蝉の なまり聲

と、洗谷奥の金山谷のことを記している。金山谷には鉱石を掘り出した伝承がある縦坑穴跡が現在も二ヶ所にあって、暗い穴底には水が溜まっている。

芦田川下流域で多くの新開が開発されていた時期には、洗谷でも干拓による新開が完成していた。寛文十一年(一六七二)の『備後国沼隈郡水呑村新開坪地詰帳』には、

宮之下洗谷新開、三一石九斗五升

と、小規模の新開地が造成されていた。

江戸時代中期になると史料は増加し、

①福山領の地誌『備後郷村誌』水呑村・山運上銀日記
②『備陽六郡志』水呑村
③天明六年五月二〇日の三谷家文書『御用書書留帳』
④『福山志料』水呑村

等に荒尾谷が一三例、洗谷が二例と記載した箇所が認められる。

洗谷貝塚

福山湾岸最古の縄文人が定住していたことで知られている、洗谷貝塚(通称白浜)は、昭和八年(一九三三)、水呑尋常高等学校に赴任された橘高武夫訓導によって発見され、沼限郡教育会の協力のもと同年七月三〇・三一日の両日発掘調査が行なわれた。

その後、昭和一〇年と一六年に府中中学校の豊元国教授によって発掘がなされ、出土した土器類を分類すると、縄文時代後期・後期に続く晩期・弥生・古墳時代のもので、縄文後期は現在より約四〇〇〇年以前に用いられたものと判明した。

土器以外の出土品に、安山岩原石二・石錘・石斧・敲石・石匙・石鎗・石鏃・多量の安山岩石器類・骨族・骨鎗・貝輪・魚骨・獣骨・人骨・海産の貝殻約十種等が見られた。

昭和四六年洗谷で宅地造成がなされていた、その造成地に貝塚の一部が含まれていたことから、埋立てを済ましていた貝塚を緊急発掘調査することになり、洗谷土地区画整理組合が発掘費として四〇万円を負担し、福山市と広島県が各二〇万円を負担して五〇平方メートル(約一五坪)を試掘したところ、従来縄文後期以降の貝塚であると評価されてきた洗谷貝塚から、福山湾岸から発見されていなかった縄文時代早期の無文厚手上器と押型文土器が出土したのである。

縄文早期土器は、今から約八〇〇〇年前に縄文人が使用した土器で、豊富な遺物の中には、縄文前期と縄文中期の土器も含まれていたことから、同地が快適な居住環境のため、数千年にわたり定住が続いたものと想定される。

従来、貝塚発掘報告書は、人骨・土器等学術成果のみが強調され、経済的な側面について発表が見られなかったので、ここで触れておく。

洗谷貝塚の総面積は約三五〇〇平方メートル程度と推定され、その七〇分の一に当たる五〇平方メートルの調査で素晴らしい発掘成果を挙げたから、更に新たな成果に期待して、続いて発掘区域を拡張すると、発掘費用の半分を負担した土地区画整理組合に、再度の負担を強いることから、続いての発掘は見送られた。

洗谷の組合員が負担した四〇万円の価値についてであるが、区画整理完了後に予定した土地の販売価格は、一坪当たり四万円であった。組合員が負担した四〇万円は一〇坪に相当したのである。

笠岡市の国指定史跡の津雲貝塚では、発掘の際における作物の損料として、坪当たり二円五〇銭が地主に支払われている。当時の人件費は七〇銭で、清酒一升の価格は四〇銭程度であった。また、昭和八年第一回発掘の際、洗谷貝塚での作物の損料は四円程度で、発掘に協力した遺跡の地主は金銭上の迷惑を被ることはなかったのである。

次に、洗谷貝塚の優れている点を列挙すると、次の特徴が見られる。

①良好な遺物層が存在することから、遺跡の保存について国の史跡に指定してもよい程の貴重な貝塚と評価される。
②県内で現存する貝塚では、最大規模のものである。
③福山湾内の代表的な貝塚で、早期以降の複合貝塚である。
④貝塚の貝層下から、安山岩原石の集石遺構が検出された。

県内の貝塚では、未だ集石遺構(四国坂出市の城山(きやま)または金山(かなやま)産の安山岩石材が三四枚出土)の確認された貝塚は報告されておらず、安山岩(多石基質ガラス質古銅輝石安山岩)は、供給地の坂出市から、中継地の洗谷を介して、周辺部の消費地である縄文貝塚に運送されたようで、当時は海上を結ぶ輸送ルートがあったものと考えられる。

金属の存在が知られていない当時、縄文人が道具として用いた安山岩は、切れ味は鋭く、他の素材の道具を作る道具となるもので、彼らは舟による海上交通によってこれを入手していたものである。現在まで貝塚から舟が発見されていなくても、洗谷の縄文人は舟に乗り、魚網に石錘―(一八個出土)を付けて魚扮をしていたものと考えられ、洗谷縄文人は、狩猟を行なうと同時に魚介類や海藻を採取し、豊富な海の資源を生活に利用していたのである。

文献として残っていないが、地元に伝えられた伝承では、現在は埋め立てられたために見ることができない田の畦や民家の庭に安山岩の原石が転用されていた、という。また、豊教授が貝塚での高い位置を調査中、貝塚の下層から多数の柱穴らしきものが発見されるも、当時は注目されなかった。

洗谷新開と芦田川河口の新開開発

近代の税金徴収の基礎資料として、広島国税庁で用いられた後、時代の変遷に伴わない不用となったことから、広島大学文学部国史研究室に払い下げられた『福山藩寛文検地坪地詰帳』には、草戸千軒中洲が流失する以前に芦田川河口付近で、新田開発が行なわれたことを示す当時の記録が見られ、洗谷貝塚の東南部に新開が完成し、その新開東方の海中干渇でも新開が造成されていた。

備後沼隈郡水呑村新開坪地詰帳
  寛文十一年辛亥六月 日   大谷・洗谷新田
一、百壹石三斗五升   大谷新田
一、三拾八石七斗九升  宮之下洗谷新開
  内六石八斗四升  三ヶ所新田之内

宮之下洗谷新開とは、永禄一三年(一五七〇)長和庄福井八幡宮での夏祭りの際、御神体を巡って争いが発生し、御神体を奪った者が、長和志田原を経て、洗谷の宮之下まで持ち帰り、以後同地(社地壹畝一八歩)に人幡宮を入一年間も祀ったところから付けられた地名である。しかし、水呑村が成立した慶長検地で従来の地域割が変わったようで、洗谷は水呑村の外れに位置したことから、現在地に遷宮があり、以後同所は八幡宮の御旅所となった旧跡地名である。

次に、三ヶ所新田小(規模の千拓新開が固まって出来たため付けられた地名)とは、現在三ヶ所の旧地は、いずれも水呑町域外の地となっていて、場所は市営競馬場の南方に当たる千代田町(旧地名番神、その南西に五郎八・序助)と、水呑町地先(現在は芦田川)の中間に点在した新開で、多治米村と川口村の築堤が完工する以前に、福山湾の海中で農業が行なわれていた土地であった。

戦国時代の終わり頃になると、中国地方では毛利輝元が西国最大の大名に成長していた。輝元は豊臣秀吉に招かれて上京した際、壮大な大坂城を観て刺激を受け、瀬戸内海の支配権を更に強固にするため、本拠を郡山から大田川河口に移し、広島城を完成させると、続いて沼田川河口の三原城も大改修を加え、備中高梁川以西で唯一の弱点となっていた芦田川河口に拠点を構築するため準備を進めていた。

天正検地を機に、叔父毛利元康(元就の七男)の領地を備後南部に集中させると同時に、備南の国人の領地を遠隔地に配置替えを行ない、元康の領地を確保すると、元康は福山湾の深安郡深津庄王子山に、新城の建設を推進していたのであるが、関ヶ原の合戦で毛利氏は防長に転封となり、築城工事は休止され、廃城の運命を辿ったようである。

毛利氏に代わって福島正則が入部すると、早速領内総検地を実施して、近世の村々を誕生させたのであるが、この検地で、吉津川と芦田川の分流道三川(現在の道三川より北方の霞町一帯)の三角洲内にまたがる常興寺山を中心とした一郭に誕生したのが、村高八〇〇石の野上村であった。近世の村を誕生させた福島正則も広島城修築の件で、元和五年に転封となり、譜代大名として備後南部に入部したのが水野勝成である。勝成は幕府の裁可を得て、野上村の常興寺山に福山城を築城したことから、野上村は城下町に充てられ、八〇〇石の野上村は城下町に発展し、消滅してしまったのである。

築城が終わり、城下町が次第に発展整備されてくると、城下町は拡大する必要に迫られ、城下周辺千渇の新開造成工事が進められ、正保四年(一六四八)頃になると、福山沖新田の新堤防(住吉町東南部から地吹町荒神社まで、約一六〇〇m)が完成すると、一番最初に付けられた村名は、築城と同時に消滅した旧野上村名を新たに復活させたのである。

新開の完成により、旧村名を回復した新生野上村は、福山城の進か南方約一四〇〇m南に創出され、村域は狭小となり、元禄一〇年(一六九七)の村高は、四八七石で旧野上村より三一三石減少していた。

引き続いて野上村の南方海岸沖に、野上村新涯(現在の沖野上町・松浜町等)の堤防が築堤されていくのであるが、寛文一一年(一六七一)には配水不良であったためか、地詰を実施できない見取場であった。

その後も築堤は続行され、野上村新涯の東南に多治米村堤防が寛文九年(一六六九)に完成し、更に二年後には川口村の堤防が完成するのである。

また対岸の沼隈郡側でも、芦田川中洲の草戸村では、草戸千軒新開の堤防が完成し、下流では洗谷新開・三ヶ所新開が時期を同じゅうして完工していたのである。

特に、『山鹿素行日記』に見られ

る幾内洪水、中国地方備前・備中・備後・芸州・因幡・出雲・播州七十年来の洪水、去月(五月)より当月晦日に至り、陰雨やまず冷気秋のごとし

と記された、延宝二年(一六七四)の大洪水で、草戸千軒は行き過ぎた新開開発で流失するのである。

従来、草戸千軒の流失説は、『備陽六郡志』の寛文一三年(一六七三)説が正史として日本国中に喧伝流布されてきたのであるが、水野家の目付役・吉田彦兵衛秀元(一六五三~一七三三)が記した『水野記』(一三・草戸村)には、次の草戸千軒流失の一節がある。すなわち

昔ハ草戸ら千家なり、今に草戸センけんと云伝へり、其後、又延宝二年の洪水にて、いよいよ民家もながれ地形も崩る也

とあり、地元で発生した水害を記録していた。延宝二年は、吉田彦兵衛が二一歳の時の出来事で、『備陽六郡志』の著者、宮原直倁(一七〇二~一七七六)が誕生するのは、草戸千軒水害の二八年後である。両書は共に草戸千軒の流失を記しているのであるが、水害年に一年の相違が見られ、史料を比較して何れが優るか判定すると、『水野記』は筆者が存命中の出来事であることから数段優るのである。

洗谷新開と芦田川河口の新開

洗谷新開と芦田川河口の新開

宝山と鬼の俎(まないた)

新開が完成して新村が誕生し、入植した農民に農地が与えられても、水と肥料が安定して補給される保証がなければ、農民は生産高を上げ、安心して農耕を続けていくことはできない。

近世中期において、農民の頼れる肥料の給源は、人糞尿と草木灰に苅草であった。

野上新涯村の沖、三方を海に囲まれた多治米村と川口村は、人糞尿をもちいるとしても城下町から遠く離れ、天秤棒での運搬では効果も上がらず、当時乾鰯(ほしか)はあっても高額で入手が難しく、一般的に無料で多量に供給されたのは苅草であった。苅草は牛馬の飼料となった後、肥料として用いられたり、直接田畠に投入して肥料としていた。

採草地に恵まれない新開村では、提防・用水路・村道などの草だけでは、村の必要量を満たすことはできなかった。川口村での草苅山のことを記した『宝永指出帳』には

一、肥草札 九拾貳枚 水呑村御立山の内にて前々より御渡り山に御座候。境、西は長和(長村村)境切。東は大道(福山鞆往来)切。北は草戸(草戸水呑村境の山田村行の道)境切。東は荒谷川切。

とある。

四囲の地名から推定すると、洗谷の宝山(別称半坂山・金鶏山・妙見山)が川口村の草苅山となっていた。その後の水呑村関係史料に

御林 半坂山御林十八町歩。六丁・二丁三十問。此分川口村え渡り山にて御座候

とあり、山名と面積が判明する。

隣接の多治米村にも同様の草苅山が存在し、

一、肥草山壼ヶ所。水呑村の内、大人足形(おとなあしがた)山、当時川口村え渡り山無運上にて下し置かれ候

と多治米村の史料に記載があり、水呑村の史料には

荒尾谷御林二十一丁六反。六丁・三丁・此分多治米村え渡り山にて御座候

と記され、関係村の史料は一致する。千拓新開村が完成すると、領主は近村で肥料が採取できる草苅山を手当していた。

洗谷奥の水呑村と長和村の村境を、彦山山系荒尾谷の清流が流れ、グリーンライン進入回の下方谷脇に、鬼の俎と称し「鬼が歩いた時岩面が凹み足跡となった」という鬼伝承がある大岩があった。

表面は平らで、広さは約三〇平方メートル程度あり、傾斜角は一五度程度で露頭し、岩面に大人の足形より少し小さめな凹みが数ヶ所連なる奇岩であった。この鬼の俎のある山を多治米村の人は、大人足形山と称していたようで、洗谷では同山を左兵衛山(旧称洗尾谷・洗谷山)と呼称してきた。

福山阿部家の賄役、宮原与五右衛門直重の長子、宮原八郎左衛門直倁雅号何有(一七〇二~一七七六)は、亨保九年(一七二四)に藩の勘定役として出仕するのであるが、出仕数年前、不眠症となり、病の治療に茶・湯薬を用いても効果が顕れなかったことから、心を安静にして、運動をして身体を疲れさせる以外に方法はないものと考え、深津村や手城村方向に出歩き、草戸山や萱野山に登り、将来は学者として大成したいものと立身出身を夢見ていた。

ある年の夏、洗谷の谷筋を登って鬼の俎の所に来てみると、自然の景色は人工の築山のようで、清測な谷水は小瀧となって流れ、深山幽谷の景観はいくら眺めても飽きさせることがなかった。この風景が直倁の心をうったようで、鬼の俎に特別の想いがあってか、晩年の『備陽六郡志』に、直倁は若年時代の病と詩を載せている。

夏日遊荒尾谷作并序(序文は略す)
谿辺道滑一條通
茀鬱山間雨後濃
怪石巌々兮鬼俎
激流㵓々兮鏐礱
詵臨水欣洗腸胃
李嗜醝娯健酔容
日薄西崗哺色靜
松杉聳影起涼風

秋になり、宝山や長和村の志田原に行き、月を詠め、鹿猪を探し求め、兎を追うなどして気力を養い、心の負担を除き、病を克服している。

宝山の地名の由来は、宝山から志田原に至る峰の山道の傍に宝岩(小判または宝玉形)があったことから付いた地名で、同所一帯で戦後多くの石を切り出したことがあり、現在宝岩の存否は不明となっている。

宝山は一〇〇m前後の低い山であるが、周辺部の山が低いため眺望が優れた山で、前方には芦田川を隔てて福山市街が広がり、南方は芦田川河口湖とNKKの大工場群、瀬戸内の島々と四国の連山、北は明王台、山手銀山城、本庄・木之庄の山越しに吾北連峰が一望できる絶佳の景勝地で、山頂附近には大砲岩・烏帽子岩等の岩が峨々と聳えている。

宮原直倁が、川口村の庄屋文右衛門と特に親しい間柄であったことは周知のことであるが、川口村の草苅山一帯を自由に歩き廻ることが出来たことは、庄屋文右衛門が直倁の病に配慮し、側面から直倁を援助したものと考えられる。

草戸稲荷社最大の石鳥居は、宝山に在った岩を切り出し、銀百貫で宝暦四年(一七三四)四月に建立したもので、鳥居の石柱には篆(てん)書で、

鎮護伽藍 稲荷秘宮 華表石 斯磨斯礱
福資国家 徳蓋蒼穹 檀信快楽 功傳無窮

と稲荷社を管理していた、明王院の二四世権僧正三剛は誌している。石柱の三二文字の篆書は、浅く刻まれているため見落とされやすいが、注意して見ると、現在でも読み取ることが出来る。

妙見社の石でできた草戸稲荷の鳥居

妙見社の石でできた草戸稲荷の鳥居

妙顕寺の末寺扱い宝山妙見社

現在、夜間福山市の中心部から四方の山を見ると、諸方の山々に煌々妙と輝く幾多の灯が見られるが、山に多くの明かりを見られるようになったのは近年になってからのことで、戦後の頃まで山頂に燈火が見られたのは、洗谷の妙見社のみであった。

新涯村の一文字堤防が築かれる以前、尾道の漁船が川口村の沖で、夜暴風雨に遭い、暗闇のなか妙見社の燈火を目標として、力の限り櫓を漕ぎ助かった人の子孫は、今も妙見の功徳を信じて参詣される。

昔、福山に所用で出た人が、夜帰宅する途中道に迷うことがあった。そんな時、沼隈郡南部の人は妙見社の燈火を目標として歩き、別の方角に帰る人も燈火を見て自宅の方角の目安としていた。

以上のことから、陸路の灯台としての役割も兼ねていて、近隣の村人の多くから信仰されていた。

幕末をむかえると、妙見社に三基の石鳥居が寄進される。東南の参道には鞆の二人の商人、出来屋六郎兵衛・油屋甚右衛門。西の参道にも山田村の人。北参道には草戸村の数名によって、三方の参道に各々一基と、信者は各地から参詣していた。

最勢時の祭日には、大勢の信者が参詣したことから露天も多く立ち並び、一時は草戸稲荷社の祭日の人手を凌駕するほどの賑わいであったと伝えられる。明治二八年には、「金鶏山奉納略誹一千句集」が奉納され、その内の秀逸五十集が額に記され、六句程記す。

阿(あ)り明能(あけの)有ふ一聲時鳥(ほととぎす)
桜木に残る忠義も世に薫る
忠臣は名を世に流す湊川
五静もかなひ揃うて宮巡り
影清し三笠の山に昇る月
鳥飛んで伏兵あると知るいくさ

妙見社は、日蓮宗水呑妙顕寺によって管理運営され、末寺と同等に扱われてきたようで、檀家はなかったが、福山近辺の信者によって、多大の浄財が寄進され、労力の提供もあって、江戸時代後期以降、多くの石造文化財が造られている。

東南参道の石段は、四五〇m余段と多く、北参道の石段も多く見られたが、宅地造成の際参道の位置が変更され、音の段数は不明となる。

本堂束の鐘撞堂広場は、堅い地山を削り取って出来た平地で、縦横とも約三〇mあり、広場南の下方には、未完成の大石垣が見られ、規模は谷底よりの高さが一六m、横幅は四六mにも及んでいる。

妙見社には、古文書の初期史料が見られないことから、信仰の始源を詳(つまび)らかにすることが出来ないが、住職と石造りの文化財から推理すると、次のような関係が判明する。

天保一二年(一八四一)丹後国天橋立に程近い妙圓寺から、英園院日英(一七九三~一人五六)が、妙顕寺三五世主職として来住する。

日英は当時の日蓮宗を代表する学者の一人で、祖書・祖伝研究の第一人者であった。知られている著書に、『安国論新註』三巻、『四宗要文纂補』三巻、『祖書肝要集』三巻、『合壁口論採照』一巻、『龍華年譜刪修』一巻、『龍女成仏分極論』一巻、水呑妙顕寺時代の著書に、『摧邪弁正録』二巻、『本化高祖年譜校訂』『本化高祖年譜攷異校訂』三巻がある。

妙見社に現存する最古の石造文化財は、弘化五年(一八四人)銘の石鳥居と手水鉢で、日英が来住して七年後に建立されていることから、妙見社は日英によって勧請された可能性が高い。

以後、清正公・最上稲荷・鬼子母神・三〇蕃神と次々と諸神が勧請され、常夜燈・鳥居・玉垣等も増加していく。

日英が安政三年(一八五六)に没すると、主職は四年間空席となったが、川口村出身の三村心妙院日修(一人二九~一人九一)が帰国し、三六世住職に就く、日修は当代において、最も優れた学僧に就いて勉学に励み、小僧時代に妙圓寺で日英に学び、その後、優陀那院日輝の私塾充洽園に学ぶ。充洽園教学は明治以降日蓮教団の中枢となっていく。

師の跡を継ぎ、郷里の住職となった日修であったが、明治維新に動揺する宗門は、日修の力を必要としたことから上京し、充洽園の門下生新居日薩・吉川日鑑と共に教団の保持に当り、日蓮宗第八代管長に就任、身延久遠寺第七五世法主にも就任し、身延中心体制の確立をめざし、日蓮宗の護持復興を図り、日薩・日鑑と共に宗門祖山を中興した。

妙顕寺住職の事蹟を挙げたのは、妙見社が誕生し発展した時期と、直接の資料は不明であるが、妙見寺の三五世・三六世を継承して活躍した偉大な住職の年代が丁度一致するからである。名僧に指導された信者は、国土を守り、災害を鎮め、福寿の増進をはかる、妙見大菩薩の偉大な功徳を信じて、強い信仰心に結ばれていたのであろう。

水呑寄

福山藩では元治元年(一八六四)、武士だけでなく庶民の武装化を図る目的で、郷兵御奉行所が新設され、村役人百姓の師弟が六郡の各寺院に集められ剣術の稽古が始められた。沼隈郡では松永の承天寺、分郡では草戸村の妙王院で訓練が行なわれた。

慶応二年(一八六六)七月、第二次長州出兵において、石州口の戦いで福山藩兵が敗れ帰国すると、藩主阿部正方は、「防長人は決して一歩も御領内に踏み込まさせ申すまじく」と強い決意を示し、福山防衛のため福山を中心として四方の守りを固める街道の要所四ヵ所に郷兵を八〇〇人配備し、領国警衛の実務に当らせた。

山陽道を守るため、東方に神辺寄、西方は今津寄と宿場に配置し、北は出雲街道の府中市寄、南方は鞆からの陸路進攻軍に備え、水呑寄(別称水呑口御固メ、洗谷の旧鞆軽便鉄道妙見駅付近一帯)が定められる。同所は、福山から地吹・鷹取・鳥越・半坂・山田道の分岐点を経て、水呑村に入り鞆に至る要所で、水呑寄近くの妙見社の東南参道登り口に、嘉永二年鞆商人が石鳥居を寄進している。

水呑寄の東方、芦田川と草戸村中洲に約九三mの木橋が架かり、橋を渡り草戸村中洲の農道を北上すると鷹取に至る近道があり、また橋を東進すると野上村番所に至り、番所からは福山町内に至る道があったが、今は芦田川大改修で、旧道の昔の面影を偲ぶことはできない。

慶応三年一二月の『郷兵駆付人数割』によると、水呑村の人数は、郷兵五二人・鼓手五人・猟師一二三人、合計一八〇人で編成されていた。郷兵は、村内有力者階級の金持の師弟が多かったことから、金遣いも荒くよく散財したことと鞆往来であったことから、同所近くに、お菊の茶屋と称した茶店があった。

福山の一番長い日

慶応二年一二月、孝明天皇が崩御し、明治天皇が一五歳で践祚すると、薩長の倒幕運動はにわかに活発となり、慶応三年一〇月十五日徳川慶喜が大政奉還すると、同年一二月九日西郷隆盛の軍が京都御所を包囲し、明治天皇を擁して、新政府樹立を宣言した。

この決起は従来「天皇の聖断を経た義挙である」と説明されてきたが、この説は後年改竄されようで、最近の研究では、王政復古は岩倉倶視が偽勅(偽勅の罰則終身刑)を出したようで、新政府は発足するが、諸藩は新政府を、倒幕派の薩長政府と見なしていた。

翌一〇日には、慶喜の内大臣の官位剥奪と、八〇〇万石の領地返納の勅読が伝達される事態となった。

この措置は、薩長などの武力倒幕派を中心とする人達により、天皇親政の名目に人事が進められた結果で、薩長と公家等の無道を憤った旧幕府軍は、慶応四年(一八六八)一月三日、徳川慶喜を擁して、大坂の幕臣と京都守護を解任された会津桑名の藩兵・新撰組等、一万五千の兵が君側の奸臣薩長を討たんとして、京都攻撃に向った。

京を守る薩長軍五千の兵は、鳥羽伏見で旧幕府軍を迎撃し会戦となった。兵力では旧幕軍は三倍を擁していたが、装備は旧式であった。

薩長軍は最新式の小銃と大砲で戦った結果、二日間の戦で旧幕府軍は敗れ、慶喜は大坂城から軍艦で江戸城に逃げ帰った。

鳥羽伏見の戦いが勃発すると、尾道に駐留していた広島藩兵と長州軍に対し、急遽登京が命ぜられ、広島藩兵は即刻海路を取り上京、残った長州軍は福山藩の向背を決めた後、陸路を上京することになる。

福山藩では長州軍の攻撃を予測していたが、幕府譜代藩として西国防備の軍備を保持した状態で戦禍を避け、時局の成行きを静観しようと図るが、福山藩の願望は長州藩に味方しない限り容認される筈もなく、今津村付近迄東進していた長州軍は一月九日午前二時に今津村を出発する。

兵員は整武・鋭武の二隊と四中隊の約一〇八〇人と、別に第三砲隊から成り、山陽道を元福山住まいの医師を道案内として進み、午前五時には神島村の番所に達し、番人に番所の通過を要求するも、番人が承知しなかったことから、番人を切り殺して一部の部隊は城下に進攻する。

長州軍は神島村で部隊を二手に分け、一隊は声田川沿いに南下し、草戸村から鞆往来を通り、鷹取・地吹から城下に至る。更に南下した部隊は水呑寄から野上番所を通過して城下に向かった。

猶、山陽道以外の脇道、今津から五里ある山田道と、九里もある鞆道からの福山進撃説もあるが、当時は現在の道と異なり急峻な難路で、霜柱の立つ時期の夜間山路迂回説は疑間である。

長州軍の進攻に一日遅れて、薩摩の援軍が鞆に上陸し、城攻めに参戦する作戦が立てられており、長州軍と薩摩軍の合流地で福山城防備の要であった水呑寄が長州軍の本営適地に選ばれたようで、水呑寄を長州軍は本営としていた。

福山藩では大部分の家臣は籠城し、水呑寄と福山八幡宮に各々百人程度立て籠っていたようであるが、長州軍が進攻した後、大きな衝突も伝えられておらず、郷兵の行動は不明である。

福山城防禦の弱点は、外濠が欠けた形となっている城北部の搦手門であった。長州砲兵隊は最大の弱点である城北を攻撃目標に定め、福山城の西方千余m離れた高台となっている、本庄村うそが端の背後にある小丘、真言宗圓照寺参道一帯に砲兵陣地を構築し、準備が完了すると、天守閣に狙いを定め砲撃を開始すると、砲弾は天守閣の初層西側の窓格子に命中した。幸い不発で大事に至らなかったが、正確な射撃に城中の者は肝を冷やした。福山藩の旧式兵器では、長州軍の最新兵器には遠く及ばなかったのである。

本庄圓照寺か福山城を望む

本庄圓照寺か福山城を望む


次の着弾が、天守閣他の建物が命中炸裂すると、天守閣を始めとして櫓・御殿等城内は大火災といった不測の事態に立ち至るのである。

戦国以来、城の攻防戦において、天守閣が炎上すると籠城方の敗北と決まっていた。攻防の手立てを見言い出せない城内では、寸刻を移さず休戦を成立させる以外選択の途はなくなり、城中での緊急会議で、吉田助左衛門水山が追手門に至り、矢止め(一時休戦)を要求、長州側が聞き入れたことから、軍使を洗谷の本営に派遣することになる。

会談に臨んだ軍使と長州軍の総督と参謀の略歴は次の通り。

福山藩正使、三浦吉左衛門義建隣雄、三浦仁右衛門義訓の次男。安政五年、三浦吉次郎栄連の養子となる。家禄六〇〇石、当時二五歳。
福山藩副使、関藤藤陰滋蔵和助文兵衛、関藤政信の四男、石川姓を称した。備中国小田郡吉浜村生まれ、福山藩儒者。当時六一歳。

長州軍山陽道出兵総督、堅田大和少輔親正、高洲平七元忠の五男で、実兄に国司(くにし)信濃がいる。堅田安房謹格の養子。当時十八歳。
参謀、杉孫七郎徳助、植木五郎右衛門の二男。杉は養家の姓。幕府遣欧使節団に随う。石州口の戦いで福山藩兵と戦う。当時三三歳。

福山藩軍使の身仕度は、麻裃・無刀・藁草履(一説に降伏使の姿)だったようで、追手門を出て長州本営に到着、早速場所をお菊の茶屋に移して、軍使と総督・参謀の会談は大筋で合意に達したことから、更に場所を福山城の大書院に移し、最後の交渉をした結果、次の誓約書を入れて戦いを終結させた。

此度朝命を奉られ、御兵馬御差向成され候処、王政御復古の御折柄、一藩の持論全く大義減親の儀に一決朝命を一途に遵奉仕候趣意申述御人数御引揚に相成候、然上は己後朝命奉戴之義は弥相励申可事
 慶応四年戊辰正月九日                         吉田水山
                                   (以下八名)
杉孫七郎殿

内容は、従来福山藩は譜代藩として使命を果たして来たが、今後は朝廷の命を謹んで戴き勤皇を尽くすと、徳川氏を見限り、一八〇度の方針変更を決定したのである。

斯くして、福山城の最初にして最後の攻防戦は終結し、福山の一番長い日は終わったのである。

左、水呑寄中、水呑大橋右、洗谷員塚-81-

襦山撃福島野上”長”「洗谷新開と芦田川河口の新開」―-83-―

“一一妙見社の石でできた草戸稲荷の鳥居―-87-―

本庄円正寺か哺山城を望む一-90-―