山城志:第8集」より

瀬戸 洋子

(シリーズ)生活の歴史を探る

日本独特の生活様式の中に畳の上に坐るということがある。「畳」という語は古く「古事記」に見る事が出きる。今の筵(むしろ)や菰(こも)のような物であろう。平安時代は一室に二畳ないし四畳ぐらい、板の間に置かれて、今日のように敷き詰められたのは、室町時代以降のようで、町家に敷かれるようになったのが十六世紀後半、農家はもっと後になるようである。

室内での身分の差を端的に現わすため、縁の色や柄に関して制限令が出されて一般化されたのであるが、戦後漸くして廃止された。備後表が最高級であるという事は、ご存知だと思うが、十八世紀初頭に刊行された「和漢三才図絵」という百科辞典に「畳表のうちでは備後のものが最上で、備中、備前のものがその次である」と記述されてある。

昨今は、栽培農家が少なく、沼隈一円だけとなり、九州・四国の藺草が備後に来て織られているという有様である。

戦後は現金収入になる為、沼隈、熊野をはじめとし福山周辺には沢山栽培されており、例にもれず我家も二反程、植えていた。

十二月頃、夜なべをしてこしらえた苗を昼間植えるのであるが、寒い日には薄氷が張り、畦で火を焚き暖まりながら植えた。

藺草の事を、この地方では「ユ」と言う。だから「イ刈」とはいわず「ユ刈」と言う。梅雨が上がり、天気が固まるのを待つ、それがだいたい七月初旬になる。日差しが強いと萎えるから、夕方陽の落ちるのを待って、夜はガス灯をつけて刈る。よく研いだ鎌で一気に刈れば、手応えは十分、それをそぐり落として丈をそろえるのであるが、青々しいにおいがたまらない。

トタン屋根の小屋を作り、その前に0.8m×2mに深さ0.7mくらいの穴を掘る。色付用の華泥を解して夜のうちに染めて、立て掛けて寝る。早朝から干し初めて、二、三日干す。藺草天気予報を農協は町内放送してくれる程、雨を気にしながらの作業である。

蛍が飛ぶ季節になると、親達が仕事をしているので、トタン屋根のおだれの下にバンコという台を置いてもらい、眠たくなるとミニ蚊張の中で寝て、作業が終る十時過ぎ頃、父の背中に負われて帰った感触を思い出す。

表織(おもてばた)には経糸(たていと)が必要である。経糸は百四十六本、一日に二本かける(本間間(ほんけんま)191cm×95.5cm)。

かつて糸も自家製であった。「あらそ」という植物を植えて梅雨の頃刈り、蒸して皮をはぎ、乾燥して割り、撚と「フメ」という物が出来る。

祖母がよって、母が手織で一日中織っていた後姿が目に浮んで来る。一生懸命織っても一日三枚が限度であった。栽培から織り上げまでしていたのは昭和23~40年頃まで、母は今でも織っているが、機械で間屋の商品を1枚いくらで織っている。

能登原に、自宅で栽培し、手織りをしている方おられるとの事であるが、後継者はなくかく言う私も母の後を継ぐ気はなく、昭和の代で、畳表の匂いが薄くなるのは目に見えている。残念な事である。

管理人近世近代史「山城志:第8集」より 瀬戸 洋子 (シリーズ)生活の歴史を探る 日本独特の生活様式の中に畳の上に坐るということがある。「畳」という語は古く「古事記」に見る事が出きる。今の筵(むしろ)や菰(こも)のような物であろう。平安時代は一室に二畳ないし四畳ぐらい、板の間に置かれて、今日のように敷き詰められたのは、室町時代以降のようで、町家に敷かれるようになったのが十六世紀後半、農家はもっと後になるようである。 室内での身分の差を端的に現わすため、縁の色や柄に関して制限令が出されて一般化されたのであるが、戦後漸くして廃止された。備後表が最高級であるという事は、ご存知だと思うが、十八世紀初頭に刊行された「和漢三才図絵」という百科辞典に「畳表のうちでは備後のものが最上で、備中、備前のものがその次である」と記述されてある。 昨今は、栽培農家が少なく、沼隈一円だけとなり、九州・四国の藺草が備後に来て織られているという有様である。 戦後は現金収入になる為、沼隈、熊野をはじめとし福山周辺には沢山栽培されており、例にもれず我家も二反程、植えていた。 十二月頃、夜なべをしてこしらえた苗を昼間植えるのであるが、寒い日には薄氷が張り、畦で火を焚き暖まりながら植えた。 藺草の事を、この地方では「ユ」と言う。だから「イ刈」とはいわず「ユ刈」と言う。梅雨が上がり、天気が固まるのを待つ、それがだいたい七月初旬になる。日差しが強いと萎えるから、夕方陽の落ちるのを待って、夜はガス灯をつけて刈る。よく研いだ鎌で一気に刈れば、手応えは十分、それをそぐり落として丈をそろえるのであるが、青々しいにおいがたまらない。 トタン屋根の小屋を作り、その前に0.8m×2mに深さ0.7mくらいの穴を掘る。色付用の華泥を解して夜のうちに染めて、立て掛けて寝る。早朝から干し初めて、二、三日干す。藺草天気予報を農協は町内放送してくれる程、雨を気にしながらの作業である。 蛍が飛ぶ季節になると、親達が仕事をしているので、トタン屋根のおだれの下にバンコという台を置いてもらい、眠たくなるとミニ蚊張の中で寝て、作業が終る十時過ぎ頃、父の背中に負われて帰った感触を思い出す。 表織(おもてばた)には経糸(たていと)が必要である。経糸は百四十六本、一日に二本かける(本間間(ほんけんま)191cm×95.5cm)。 かつて糸も自家製であった。「あらそ」という植物を植えて梅雨の頃刈り、蒸して皮をはぎ、乾燥して割り、撚と「フメ」という物が出来る。 祖母がよって、母が手織で一日中織っていた後姿が目に浮んで来る。一生懸命織っても一日三枚が限度であった。栽培から織り上げまでしていたのは昭和23~40年頃まで、母は今でも織っているが、機械で間屋の商品を1枚いくらで織っている。 能登原に、自宅で栽培し、手織りをしている方おられるとの事であるが、後継者はなくかく言う私も母の後を継ぐ気はなく、昭和の代で、畳表の匂いが薄くなるのは目に見えている。残念な事である。備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです