1995年10月14日

一部地頭葉山氏の執念―朝廷にかけた一五〇年、本領回復の夢―

備陽史探訪:67号」より

出内 博都

南北朝異聞

後醍醐天皇の元弘回天の挙兵は、その後に続く数十年の南北朝動乱の起点として、日本歴史の転換点である。特に、船上山における天皇の再挙は、中国路の武士の野望への契機となった。

備後国恵蘇郡湯木村(比婆郡口和町)一部地頭葉山城雅楽助源頼連は、この戦乱をお家再興の好機として、一族をあげて各地に転戦している。「城頼連申状案」(『毛利家文書』)によると、
(以下史料は現代語に訳して示す。ただし用語については、できるだけ原文に忠実に訳したので、当て字・誤用が多いことをご理解願いたい)

早く奏聞を経て、兵部卿親王家(護良親王)并に中務親王家(尊良親王)の令旨によって、都部度々の合戦に忠節を致しましたので、本領等返し賜れば、いよいよ向後忠勤を抽(ぬき)んでます

として、副進状四通(両親王家令旨案・殿法印御坊外題案・宣下状案・系図)を副えて願いでている。

この申状には、

頼連は安芸国葉山次郎頼宗五代の後胤で、去る承久合戦のとき先祖義職が御所方に参り、合戦の忠を致しましたので、世帯悉く関東に没倒され、子孫皆牢籠せしめられ、愁吟のうちに年序を送りました。そうしているうち、二月廿三日(建武元年)御方に馳せ参り、播磨国苔縄城城下(赤松則村の本拠)において令旨を賜り、一身の大慶として苔縄城槨に参りました。その後高田城に責寄せ、南角(大手)箭倉を破却し、城中に攻入り、不惜身命の攻戦を致しました。その刻、郎等片岡二郎が打死し、五郎太郎平七以下が数ヶ所疵を負い、深手の者は後日死亡しました。此条について河北四郎五郎并船引太郎兵衛等が存知ております。軍忠神妙の由が御感に預かり四月晦日(廿九日)雅楽助を拝任いたしました。その後又、自国他国の戦いに参り、令旨によって備後国に馳せ下り、三吉下村(三次市)入君保(君田村)を責随え、群勢を率いて御坐船上山に馳せ参り、御着到の後に付して上洛の企てに参加し、殿法印御坊の手に属し度々忠節を致しましたので、御感令旨に預かりました。五月七日鳥羽造道井六波羅巳下の合戦等に忠を致しましたことについて、筑後左衛門五郎、備中住人難波六郎等が見知っております。これは大将軍(殿の法院)御外題によって明らかです。先祖承久の労功と云い、今度の軍忠と云い、本領返し賜る等勲功の賞に預かれば、向後勇士の面目と致します。恐々言上如件

とあり、建武五年に申請している。

この申状によれば、葉山頼連は安芸国大族、葉山頼宗の五代の後胤といっている。葉山氏は鎌倉南北朝期に安芸国内部庄(吉田町)備後国踊喜村(比婆郡口和町)の一部地頭職をもつ一族で、「踊喜」「早山立城」「城」「三月」「葉山」「源」等様々な苗字を名乗っているが、本姓は「源」である(『広島県史』)。

葉山頼宗については、『吾妻鏡』文治五年(一一八九)十月二十八日の条に

安芸国大名葉山介宗頼(頼宗)は奥州下向(藤原氏討伐戦)の途中、駿河国藁科河辺りで(中略)帰国してしまった。(中略)ここで処罰しなければ傍輩に一不しがつかない、と梶原景時が進言した。そこで、宗頼の所領を没収することが決定された

とある。

この時の所領は不明であるが、彼が在庁官人の最高職(在庁兄部)として、それに付随した所領・所職を持っており、源平合戦で源氏方について地頭になった経緯からみて、在庁得分(久武名以下の名田)の他に、原郷・内部荘・世熊荒山荘・能美荘並びに佐東郡・安南郡の地頭職等のうち、主要部分を持っていたと思える(『広島県史』中世編)。これは、源平交替の中で現地土豪が外様御家人として編成されたものであろう。しかし、『吾妻鏡』のとおり、関東御家人の西遷政策のなかで、葉山氏は外様御家人の追放政策の犠牲になり、その後、内部荘の一部が返還されたのであろう。

さて、頼宗の没落から三十年、承久の乱に再起をかけたが不調に終わり、それからさらに百十余年、時節到来と再度立ち上がったのが元弘の乱であった。頼連の申状にみられる「本領返賜」が文治年間の頼宗時代への復活と考えれば、実に百五十年になんなんとする葉山氏の悲願である。それだけに、頼連だけでなく一族の動きも活発であった。

翻って、正応三年(一二九〇)五月三日の「源景頼着到状」(『毛利家文書』)によると、

備後国泉庄踊喜村地頭尼詣阿子息六郎景頼、依朝原八郎為頼事参上仕候以此旨有洩御披露候、恐慢謹言

という書状を奉行所へ提出して、探題北条兼時の証判をもらっている。これは朝原為時が伏見天皇を狙って御所に侵入し、清涼殿で自殺した事件で、たまたま大番役で在京していた時の事である。朝原は武田系小笠原の一族で、剛力であったが、悪事をはたらき追放をうけていた。

この正応三年三月九日夜の御所侵入事件は、両統迭立による皇位継承問題がからんでおり、多くの貴族が関与していた。

一方、この事件は、十三世紀末までは御家人体制が健在で、山間部の小御家人まできちんと上番役を勤めていた事をも示している。

十四世紀になると、長井氏が備後の守護となり、この地方に勢力をもってくるが、元徳二年(一三三〇)長井貞宗が踊喜六郎次郎入道に

備後国踊喜村内池酒并田所職、神社仏寺以下田畠事、故長井又二郎長貞の宛文の旨に任せて、相違なく知行しなさい

という御教書をだして所領を与えている。踊喜村で所領を拡大している六郎次郎入道の名前や、頼連との具体的な関系は不明であるが、一族で村を分有していたと思われる。また、この時点で安芸国内部庄の一部も支配していたと考えられる。

すなわち「城清源着到状」に

備後国泉庄内踊喜村一分地頭兼安芸国内部庄一分地頭太輔一房清源、御方に馳せ参りました。向後は軍忠を抽(ぬき)んでおりますので、この旨御披露下さい

とあるからである。この書状が何年のものかは不明であるが、同じ清源の元弘三年(一三三三)の軍忠状があるので、この二つから判断して村を二分していたことが分かる。

その清源の軍忠状には

安芸国内部庄一方地頭城大輔房僧清源申し上げます。今月七日合戦之時、竹田河原高倉縄手より、六波羅未申角箭倉之際において、合戦忠勤を抽んでいた条について、土屋美濃房、中嶋次郎左衛門尉等が見知していることは、其の隠れもありません。然者、早かに先祖本領等返給下され、かつ恩賞に預かれば、いよいよ合戦忠節を致すべく存じます。此旨を以って御披露くださるよう、恐れながら申しあげます

とあり、最初にみた頼連のものと内容はほぼ同一で、ここでも先祖の本領返還を願っている。四十年前には忠実に幕府の大番役を果たしていた御家人が、時勢の動きを敏感に察し、百五十年来の夢を実現する為、一族をあげて動いた。まさに西国外様御家人の執念を示したのである。

この後、延元二年(一三三七)七月十二日に早山立城六郎次郎入道西圓(踊喜六郎次郎入道と同じか)に対して

親類を率い、安芸国東西条凶徒を退治して、そうそうに参洛すべし。天気如此、悉之

という後醍醐天皇の綸旨が、新田義貞によって伝達されており、さらに正平六年(一三五一)八月七日には、城又次郎に対し

御方に参り、軍忠いたすべし。殊功有れば、褒賞せらるべし。常陸親王の令旨此の如し。悉之、以状

という常陸親王の令旨が右兵衛佐によって伝えられているが、この綸旨と令旨についての結果は不明である。

しかし、こうした数十年にわたる本領回復の夢も南朝の没落ともに漬えさり、名族葉山氏は草深い山村の土豪領主「踊喜氏」としてかろうじて生き残ったが、戦国時代には尼子・毛利のはざまで歴史に苛まれ、ついには埋没していったのである。