1995年06月17日

近世村落財政こぼれ話―村人にとって一両とは… ―

備陽史探訪:65号」より

出内 博都

福山市千田町にある惣氏八幡社の改築記録「千田惣氏八幡社建立目録」の末尾、正徳六年(一七一六、六月享保に改元)の条に次のような記載がある。

一、八幡平殿建立
但舞殿茂壱間○引退其節修覆仕候

ここでいう平殿は、拝殿と神殿との間にある幣殿のことで、字義通り幣帛(みてぐら)を奉具するところである。

この後の記録内容を要約すると、

右は古宮の古木を以て建立した。釘、かすがい、瓦、大工等の諸入用の銀子は、江戸長久庵より小判一両寄進されたので、入用の算用もせず、足利不足の儀もなく、そのため、村中氏子宛の世話もしなかった

というものである。

小さな建物で、しかも、古材を使ったので一両ですんだ、というだけのことだが、たった一両で少なくとも一つの建物ができたことは事実である。米遣いの経済といわれる現物貢納体制の時代、お金(貨幣)の魔力は大きかったことを知らされる。

落語の講談で、五文、十文のやりくりに四苦八苦する長屋の八つぁん・熊さんの話も聞く。小物成や山薮年貢で一匁や二匁の銀にあくせくする庶民のことを思うと、やっぱり一両の御利益は大きかったと言えよう。

更にこの一両が、江戸から来たことに驚かされる。名もなき備後の一農村の神社へ江戸から寄進ということになると、そう、ざらにある話ではないだろう。都会へ出て成功した人が郷里へ寄付するという出世物語は近代のこと、この時代にもあったのだろうか。

ただ、この時の藩主阿部正福が大坂城代、次の正右が大坂城代から西丸老中になり幕閣に連なるなど、一年交替の参動交替をしていなかった。江戸詰が多い藩主なので、藩士・上級領民などの江戸との結び付きは、一年交替で江戸と国許を往復する外様大名領よりは強かったと思える。正福は寺社奉行もしていたことがある。江戸詰の幕閣大名ともなると、江戸の寺とも関係があり、大名の国許へ寄進ということになったのかもしれない。

長久庵という寺は何処にあり、どんないわくのある寺かわからないが、とにかく、あの時代に一両小判が江戸からこの草深い千田の地に来たという事実には驚かされる。