備後杉原氏の盛衰

備陽史探訪:65号」より

田口 義之

杉原氏の登場

杉原氏は、系図によると平氏の出で、鎌倉時代の建仁二年(一二〇二)伯耆守光平が備後守護職に任ぜられ、府中八尾城に来住したのが起こりと伝える。

杉原氏が本格的に歴史の舞台に登場するのは、南北朝時代である。『光明寺残篇』によると杉原氏は当初幕府方に味方したようで、元弘元年(一三三一)九月二十八日、備中の陶山・小宮山氏と共に笠置山に夜討ちをかけ、これを攻め落としたという。

光平の裔である杉原氏の惣領家は、歴代府中市街地の北に聳える八尾山城を居城とし、主に国衙を拠点に勢力を伸ばした。『浄土寺文書』によると、八代光房は当時の備後守護と肩を並べて足利幕府の使節として活躍しているが、その理由は杉原氏惣領家の勢力基盤が国衙にあったためと考えられる。

南北朝の内乱の一つの特色は、足利幕府の内部分裂にある。特に尊氏・直義兄弟が幕府の掌握を巡って争った「観応の擾乱」は全国に深刻な影響を与えた。杉原氏もこの擾乱では二つに分裂し、互いに覇を競っている。惣領家の光房は直義・直冬の側にあったのに対し、終始尊氏方にたって勢力を大いに伸ばしたのは、庶流の信平・為平兄弟であった。

信平兄弟は、光平の子員平の四男真観の子孫にあたり、建武三年(一三三六)の尊氏の西走に従軍し、有名な筑前多々良浜の合戦で大功を立て、同年五月二十日、本梨庄地頭職を与えられ、庄内に鷲尾山城を築いて木梨流(木梨・高須・山手)の祖となった人物である。

室町期の杉原氏

後に戦国大名として雄飛する小早川氏が室町時代、幕府奉公衆として京都で活躍したことはよく知られているが、杉原氏もまた多くの奉公衆を出した家である。

杉原氏一族が中央で活躍するのは意外に早く、康永三年(一三四四)三月には、惣領の光房は、幕府五番引付衆として名を連ね、また同年に設置されたと推定される「三方制内談」の一員となっている。

この杉原氏惣領家が後の幕府奉公衆にあたる将軍近習として史上に現れるのは、応安八年(一三七五)三月のことで、『花営三代記』同月二十九日の条に将軍義満の近習として光房の子直光の名がある。以後、惣領家の満平・光親(満平の子)・親宗の名が将軍近習、或いは奉公衆の一員として見え、明応初年(一四九二頃)の将軍義種の時代に及んでいる(東山時代大名外様付等)。

この時期の杉原一族の全貌を示す史料は見当たらないが、奉公衆となった家については幸い康正二年(一四五六)の段銭京済者の名簿が残っており、その概要を知ることができる。

『康正二年造内裏段銭并国役引付』
参貫文(略)    杉原新蔵人殿
  備後国草原村段銭
九貫六百文(略)  杉原美濃守殿
  備後国父木野四ヵ所分段銭
六貫五七九文(略) 杉原因幡守殿
  備後国信敷名立職段銭
十二貫三七五文(略)杉原彦四郎殿
  備後国木梨庄段銭
八貫二八五文(略)杉原千代松丸殿
  備後国三原浦并高須□分
五貫文(略)    杉原左京亮殿
  備後国杉原本庄段銭

杉原一族の興亡

備後国人衆の雄として名を馳せた杉原一族であるが、戦国の荒波は厳しく、近世まで生き延び得た者はごく僅かであり、ましてや大名の座を獲得し得た者は一人もいない。

杉原氏一門の中で一番浮沈の激しかったのは、木梨杉原氏である。同氏は、明応から永正初年の争乱で、前将軍義種の京都復帰に協力し、一時その所領を開所にされたこともあったが、この事件は義種の将軍復職で一応収まったかにみえる。しかし、木梨杉原氏は永正末年から大永年間にかけて出雲の尼子氏の勢力が伸びて来ると同氏に応じ、尼子氏のライバル周防の大内氏の攻撃を受け、一時その居城を占拠されてしまう。すなわち、大永六年(一五二五)末、尼子氏に応じた本梨杉原氏は東隣高須の高須杉原氏を攻め、大内方諸氏の反撃を受け、本拠の鷲尾山城を大内勢力によって攻め落とされているのである(『閥閲録』四一)。

まもなく、本梨杉原氏はその居城を回復したようであるが、その後も同氏の受難は続く。『木梨先祖由来書』によると、その後大内方となった木梨杉原氏は今度は尼子氏の攻撃を受け落城の非運に見舞われる。天文十二年(一五四三)六月のことである。また、同書によると、木梨杉原氏は近隣の国人衆の攻撃にもさらされていたようで、年代は伝わっていないが、木梨庄の西、三原市深町医王山城主石原氏は木梨杉原氏と不和に及び、不意打ちによって鷲尾山城を奪い、本梨杉原氏は五年にわたって逼塞を余儀なくされたという。なお、ここに言う石原氏は、証如上人の『天文日記』によると「武衛一の仁」とあり、三原市八幡町の渋川氏家中の最有力者であった。おそらく渋川氏の衰退と共に独立性を高めこの挙に及んだのであろう。

一方その庶流に当たる高須杉原氏は、戦国初期以来八幡の渋川氏の旗下に属していたが、天文年間渋川氏が毛利氏の保護下に入ると共に同氏も毛利氏の支配下に入り、次第にその家臣としての性格を強めて行く。木梨杉原氏もこうした周辺諸族の動向に屈したのであろう、天文末年には元就の三男で小早川家を継いだ隆景と義兄弟の契約を結び、その傘下に入っている(『閥閲録』五二・六七)。しかし、高須杉原氏と違い強大な力をもっていた木梨杉原氏は、権力を確立しつつあった毛利氏の忌むところとなり、天正十九年(一五九一)の「惣国検地」を機会に本領を没収され、他国に移されてしまう(『閥閲録」など)。

杉原氏一族の中で、最も勇名を馳せたのは理興と盛重であろう。

理興は、惣領家の八尾杉原氏の出身と推定され、天文七年(一五三八)七月、大内氏の支援を受けて神辺城主となり、一時は備南の覇者として勢力を振るった。しかし、天文十二年(一五四三)には尼子氏に応じ、これが彼の運命を狂わせた。理興は同年小早川氏領内の椋梨にまで侵入するが、やがて大内毛利方の反撃を受け、天文一八年(一五四九)九月には城を捨てて出雲に走った。この戦いが小早川氏を継いだ隆景の初陣となったことはよく知られている。

理興はその後許されて神辺城に復帰するが、まもなく死去し、その跡を相続したのが盛重である。盛重は為平の裔である山手杉原氏の出身で、直良という兄があったが、吉川元春にその武勇を愛され、理興亡き後その跡を継いで神辺城主となったものである。そのため盛重は元春の配下として主に山陰方面で活躍し、後には伯耆尾高城主として同方面の毛利方最高司令官の役目を担っている。

理興・盛重あるいは木梨・高須の杉原氏については、まだまだ語るべきことが多い。しかし、それはまた別の機会に譲るとして、今回はこの辺で筆を置くこととする。

杉原盛重居城 伯耆尾高城
伯耆尾高城跡(2016年撮影)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1995/06/32e1bd1645837366a9e4a245867a04e9.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1995/06/32e1bd1645837366a9e4a245867a04e9-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:65号」より 田口 義之 杉原氏の登場 杉原氏は、系図によると平氏の出で、鎌倉時代の建仁二年(一二〇二)伯耆守光平が備後守護職に任ぜられ、府中八尾城に来住したのが起こりと伝える。 杉原氏が本格的に歴史の舞台に登場するのは、南北朝時代である。『光明寺残篇』によると杉原氏は当初幕府方に味方したようで、元弘元年(一三三一)九月二十八日、備中の陶山・小宮山氏と共に笠置山に夜討ちをかけ、これを攻め落としたという。 光平の裔である杉原氏の惣領家は、歴代府中市街地の北に聳える八尾山城を居城とし、主に国衙を拠点に勢力を伸ばした。『浄土寺文書』によると、八代光房は当時の備後守護と肩を並べて足利幕府の使節として活躍しているが、その理由は杉原氏惣領家の勢力基盤が国衙にあったためと考えられる。 南北朝の内乱の一つの特色は、足利幕府の内部分裂にある。特に尊氏・直義兄弟が幕府の掌握を巡って争った「観応の擾乱」は全国に深刻な影響を与えた。杉原氏もこの擾乱では二つに分裂し、互いに覇を競っている。惣領家の光房は直義・直冬の側にあったのに対し、終始尊氏方にたって勢力を大いに伸ばしたのは、庶流の信平・為平兄弟であった。 信平兄弟は、光平の子員平の四男真観の子孫にあたり、建武三年(一三三六)の尊氏の西走に従軍し、有名な筑前多々良浜の合戦で大功を立て、同年五月二十日、本梨庄地頭職を与えられ、庄内に鷲尾山城を築いて木梨流(木梨・高須・山手)の祖となった人物である。 室町期の杉原氏 後に戦国大名として雄飛する小早川氏が室町時代、幕府奉公衆として京都で活躍したことはよく知られているが、杉原氏もまた多くの奉公衆を出した家である。 杉原氏一族が中央で活躍するのは意外に早く、康永三年(一三四四)三月には、惣領の光房は、幕府五番引付衆として名を連ね、また同年に設置されたと推定される「三方制内談」の一員となっている。 この杉原氏惣領家が後の幕府奉公衆にあたる将軍近習として史上に現れるのは、応安八年(一三七五)三月のことで、『花営三代記』同月二十九日の条に将軍義満の近習として光房の子直光の名がある。以後、惣領家の満平・光親(満平の子)・親宗の名が将軍近習、或いは奉公衆の一員として見え、明応初年(一四九二頃)の将軍義種の時代に及んでいる(東山時代大名外様付等)。 この時期の杉原一族の全貌を示す史料は見当たらないが、奉公衆となった家については幸い康正二年(一四五六)の段銭京済者の名簿が残っており、その概要を知ることができる。 『康正二年造内裏段銭并国役引付』 参貫文(略)    杉原新蔵人殿   備後国草原村段銭 九貫六百文(略)  杉原美濃守殿   備後国父木野四ヵ所分段銭 六貫五七九文(略) 杉原因幡守殿   備後国信敷名立職段銭 十二貫三七五文(略)杉原彦四郎殿   備後国木梨庄段銭 八貫二八五文(略)杉原千代松丸殿   備後国三原浦并高須□分 五貫文(略)    杉原左京亮殿   備後国杉原本庄段銭 杉原一族の興亡 備後国人衆の雄として名を馳せた杉原一族であるが、戦国の荒波は厳しく、近世まで生き延び得た者はごく僅かであり、ましてや大名の座を獲得し得た者は一人もいない。 杉原氏一門の中で一番浮沈の激しかったのは、木梨杉原氏である。同氏は、明応から永正初年の争乱で、前将軍義種の京都復帰に協力し、一時その所領を開所にされたこともあったが、この事件は義種の将軍復職で一応収まったかにみえる。しかし、木梨杉原氏は永正末年から大永年間にかけて出雲の尼子氏の勢力が伸びて来ると同氏に応じ、尼子氏のライバル周防の大内氏の攻撃を受け、一時その居城を占拠されてしまう。すなわち、大永六年(一五二五)末、尼子氏に応じた本梨杉原氏は東隣高須の高須杉原氏を攻め、大内方諸氏の反撃を受け、本拠の鷲尾山城を大内勢力によって攻め落とされているのである(『閥閲録』四一)。 まもなく、本梨杉原氏はその居城を回復したようであるが、その後も同氏の受難は続く。『木梨先祖由来書』によると、その後大内方となった木梨杉原氏は今度は尼子氏の攻撃を受け落城の非運に見舞われる。天文十二年(一五四三)六月のことである。また、同書によると、木梨杉原氏は近隣の国人衆の攻撃にもさらされていたようで、年代は伝わっていないが、木梨庄の西、三原市深町医王山城主石原氏は木梨杉原氏と不和に及び、不意打ちによって鷲尾山城を奪い、本梨杉原氏は五年にわたって逼塞を余儀なくされたという。なお、ここに言う石原氏は、証如上人の『天文日記』によると「武衛一の仁」とあり、三原市八幡町の渋川氏家中の最有力者であった。おそらく渋川氏の衰退と共に独立性を高めこの挙に及んだのであろう。 一方その庶流に当たる高須杉原氏は、戦国初期以来八幡の渋川氏の旗下に属していたが、天文年間渋川氏が毛利氏の保護下に入ると共に同氏も毛利氏の支配下に入り、次第にその家臣としての性格を強めて行く。木梨杉原氏もこうした周辺諸族の動向に屈したのであろう、天文末年には元就の三男で小早川家を継いだ隆景と義兄弟の契約を結び、その傘下に入っている(『閥閲録』五二・六七)。しかし、高須杉原氏と違い強大な力をもっていた木梨杉原氏は、権力を確立しつつあった毛利氏の忌むところとなり、天正十九年(一五九一)の「惣国検地」を機会に本領を没収され、他国に移されてしまう(『閥閲録」など)。 杉原氏一族の中で、最も勇名を馳せたのは理興と盛重であろう。 理興は、惣領家の八尾杉原氏の出身と推定され、天文七年(一五三八)七月、大内氏の支援を受けて神辺城主となり、一時は備南の覇者として勢力を振るった。しかし、天文十二年(一五四三)には尼子氏に応じ、これが彼の運命を狂わせた。理興は同年小早川氏領内の椋梨にまで侵入するが、やがて大内毛利方の反撃を受け、天文一八年(一五四九)九月には城を捨てて出雲に走った。この戦いが小早川氏を継いだ隆景の初陣となったことはよく知られている。 理興はその後許されて神辺城に復帰するが、まもなく死去し、その跡を相続したのが盛重である。盛重は為平の裔である山手杉原氏の出身で、直良という兄があったが、吉川元春にその武勇を愛され、理興亡き後その跡を継いで神辺城主となったものである。そのため盛重は元春の配下として主に山陰方面で活躍し、後には伯耆尾高城主として同方面の毛利方最高司令官の役目を担っている。 理興・盛重あるいは木梨・高須の杉原氏については、まだまだ語るべきことが多い。しかし、それはまた別の機会に譲るとして、今回はこの辺で筆を置くこととする。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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