常城、茨城雑考(備後国の古代山城について)

備陽史探訪:59号」より

七森 義人

脇阪光彦説・豊元国説の常城比定地、府中市本山町の亀ヶ岳の山頂付近から、東の尾根へ下って新市町の常までの一帯

二月六日に鬼ノ城例会を担当することもあるので、備後の古代山城・常城茨城(うまらき)について、少々書いてみたい。

まず、常城の比定地についてだが、脇阪光彦氏(広島県埋蔵文化財センター)の学説でほぼ確定と思われる。しかし、茨城についてはまだ不確定である。

常城の比定地説を最初に提起したのは、豊元国氏(故人、元府中高校教諭)であった。氏は『府高学報』に掲載された論文「奈良時代の山城の研究」の中で、府中市本山町の亀ヶ岳の山頂付近から、東の尾根へ下って新市町の常までの一帯を常城の城域とした(図参照)。

これに対し、脇阪氏は『芸備地方史研究』で亀ヶ岳の山頂の尾根から西尾根(七ツ池)を取り囲む地域を常城とする説を提唱した。先に記したように、現在は脇阪氏の学説が有力視されていれが、決めてとなる遺構は発見されていない。

次に茨城については、豊氏が前記の論文の中で、福山市の蔵王山説を掲げ、山麓を城壁としている。

これに対して高垣不敏氏(故人、元神辺在住の郷土史家)は『備後国府考』の中で、深安郡神辺町湯田の山王山から茶臼山(五ヶ手島)の一帯をその比定地としている。

また、古代の郷(さと)に抜原(ぬばらの)郷があり、この地を茨城とする学説もある。そして、この抜原を加茂町北山とする説、岡山県井原とする説、神辺町川北・川南とする説、神辺町湯田とする説などがある。

さらに最近になって、広島市在住の郷土史家・川上雅治氏が『古代困難時代の瀬戸内水軍史』の中で、あらためて蔵王山説を提出しており、まさに諸説紛紛、百花繚乱といったところである。

さて、ここで原点にかえり、古代山城について簡単に復習をしておく。

古代山城は、朝鮮式山城と神籠石(こうごいし)式山城に大別できる。しかし、これ以外にも文献には「戌(まもり)」「関(せき)」「烽(とぶひ)」「軍団」などの語句が登場し、広い意味での山城に入るかと思われる。

また、古代東北の国府とされる多賀城、桃生(ももう)城、秋田城等は小丘陵上にあり、防御的な役割が極めて強い。これから類推して、西日本の国府も同様に防御的な役割を持っていたと考えるのは大胆過ぎるだろうか。

さらに屯倉(みやけ)も、地方豪族に対する中央政権の拠点としてあったわけだから、防御機能を持っていた可能性がある。他にも『記紀』には「要害」「塞(さい)」等の語句がみえ、これらも城の一種であろうか。

さて、朝鮮式山城とは文献(六国史)に現れる古代山城のことであるが、朝鮮半島に築かれた山城と酷似しているため、このように呼ばれている。

またこの山城は、六六二年の白村江の戦で日本軍が新羅・唐連合軍に破れた後、新羅からの侵攻に備えるため、百済からの亡命将軍が指揮して築いたとされている。

その構造は、石塁と土塁が山頂を一巡しており、この内部に武器庫や食糧庫があったという。

次に、神籠石式山城とは文献に記録が残っていない山城のことを指す。この種の山城が最初に確認されたのは、福岡県久留米市の高良山(こうらさん)である。一m内外の切石が一列だけ、山の尾根を取り囲むように並んでいる。これは、ふつうの石垣と比べて防御的要素が少ないようにみえる。さらに、その石列の内部に神社の社殿があったため当初は祭祀施設と考えられ、この石列を含めた建造物を神籠石と呼ぶようになったのである。

後に、この高良山神籠石と似た建造物を神籠石式山城というようになった。しかし現在では、構造上は朝鮮式山城に似ていても、文献に記録がないものはすべて神籠石式山城と呼んでいる。

二系統の山城はともに西日本、なかでも北九州、瀬戸内、近畿だけでしか確認されていない。瀬戸内では山陽道、瀬戸内航路沿い、国府の近辺、もしくは古代遺跡の密集地に集中して築造されている。

これらに関係深い施設「烽(とぶひ)」は、城内の発掘調査が進んでいないためか、遺構が発見されていない。烽は、東北の秋田城、出雲風土記に記されている暑垣烽(あつがきのとぶひ)、武布志(たぶしの)烽等で確認されているだけである。

これに関する論考としては、宮崎忠平氏の「日隈山(ひくまやま)の烽」(佐賀県の烽を扱う)と、豊氏の、瀬戸内に多い竜王山と地名からみた論文がある。

ところで、近年、弥生時代の高地性集落が見張りの役割をもっていたことが明らかになってきている。当然、烽の存在が推測できるわけだが、烽の遺構跡とされる明確な焼土層が確認されているものはあまりない。今後の調査が待たれるところである。

話を備後の常城、茨城に戻す。この両城が最後に文献に現れるのは『続日本紀』養老三年(七一九)の条で、

備後国安那郡茨城蘆田郡常城停(備後国安那郡(穴の氷)茨城、蘆田郡常城を停(とど)む

とある。

この記事で常城と茨城の活動が停止したことがわかるが、その後再開したという記事は載っていない。

養老三年という時代は、常城、茨城が築かれた時代から約三〇年経過にしている。他の古代山城の記録も、この記事のさらに三〇年後、恰土(いと)城を築くという記述まで出てこない。

つまり、七世紀後半のような政治的・対外的な危機が去ったため、山城を築く必要があまりなくなったということであり、そうした流れの中での常城と茨城の機能の停止ということであろう。

それにしても、何とかわれわれの手で茨城を発見したいものである

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b45ded8ec6786b280cb709c7c9586169.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b45ded8ec6786b280cb709c7c9586169-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:59号」より 七森 義人 二月六日に鬼ノ城例会を担当することもあるので、備後の古代山城・常城、茨城(うまらき)について、少々書いてみたい。 まず、常城の比定地についてだが、脇阪光彦氏(広島県埋蔵文化財センター)の学説でほぼ確定と思われる。しかし、茨城についてはまだ不確定である。 常城の比定地説を最初に提起したのは、豊元国氏(故人、元府中高校教諭)であった。氏は『府高学報』に掲載された論文「奈良時代の山城の研究」の中で、府中市本山町の亀ヶ岳の山頂付近から、東の尾根へ下って新市町の常までの一帯を常城の城域とした(図参照)。 これに対し、脇阪氏は『芸備地方史研究』で亀ヶ岳の山頂の尾根から西尾根(七ツ池)を取り囲む地域を常城とする説を提唱した。先に記したように、現在は脇阪氏の学説が有力視されていれが、決めてとなる遺構は発見されていない。 次に茨城については、豊氏が前記の論文の中で、福山市の蔵王山説を掲げ、山麓を城壁としている。 これに対して高垣不敏氏(故人、元神辺在住の郷土史家)は『備後国府考』の中で、深安郡神辺町湯田の山王山から茶臼山(五ヶ手島)の一帯をその比定地としている。 また、古代の郷(さと)に抜原(ぬばらの)郷があり、この地を茨城とする学説もある。そして、この抜原を加茂町北山とする説、岡山県井原とする説、神辺町川北・川南とする説、神辺町湯田とする説などがある。 さらに最近になって、広島市在住の郷土史家・川上雅治氏が『古代困難時代の瀬戸内水軍史』の中で、あらためて蔵王山説を提出しており、まさに諸説紛紛、百花繚乱といったところである。 さて、ここで原点にかえり、古代山城について簡単に復習をしておく。 古代山城は、朝鮮式山城と神籠石(こうごいし)式山城に大別できる。しかし、これ以外にも文献には「戌(まもり)」「関(せき)」「烽(とぶひ)」「軍団」などの語句が登場し、広い意味での山城に入るかと思われる。 また、古代東北の国府とされる多賀城、桃生(ももう)城、秋田城等は小丘陵上にあり、防御的な役割が極めて強い。これから類推して、西日本の国府も同様に防御的な役割を持っていたと考えるのは大胆過ぎるだろうか。 さらに屯倉(みやけ)も、地方豪族に対する中央政権の拠点としてあったわけだから、防御機能を持っていた可能性がある。他にも『記紀』には「要害」「塞(さい)」等の語句がみえ、これらも城の一種であろうか。 さて、朝鮮式山城とは文献(六国史)に現れる古代山城のことであるが、朝鮮半島に築かれた山城と酷似しているため、このように呼ばれている。 またこの山城は、六六二年の白村江の戦で日本軍が新羅・唐連合軍に破れた後、新羅からの侵攻に備えるため、百済からの亡命将軍が指揮して築いたとされている。 その構造は、石塁と土塁が山頂を一巡しており、この内部に武器庫や食糧庫があったという。 次に、神籠石式山城とは文献に記録が残っていない山城のことを指す。この種の山城が最初に確認されたのは、福岡県久留米市の高良山(こうらさん)である。一m内外の切石が一列だけ、山の尾根を取り囲むように並んでいる。これは、ふつうの石垣と比べて防御的要素が少ないようにみえる。さらに、その石列の内部に神社の社殿があったため当初は祭祀施設と考えられ、この石列を含めた建造物を神籠石と呼ぶようになったのである。 後に、この高良山神籠石と似た建造物を神籠石式山城というようになった。しかし現在では、構造上は朝鮮式山城に似ていても、文献に記録がないものはすべて神籠石式山城と呼んでいる。 二系統の山城はともに西日本、なかでも北九州、瀬戸内、近畿だけでしか確認されていない。瀬戸内では山陽道、瀬戸内航路沿い、国府の近辺、もしくは古代遺跡の密集地に集中して築造されている。 これらに関係深い施設「烽(とぶひ)」は、城内の発掘調査が進んでいないためか、遺構が発見されていない。烽は、東北の秋田城、出雲風土記に記されている暑垣烽(あつがきのとぶひ)、武布志(たぶしの)烽等で確認されているだけである。 これに関する論考としては、宮崎忠平氏の「日隈山(ひくまやま)の烽」(佐賀県の烽を扱う)と、豊氏の、瀬戸内に多い竜王山と地名からみた論文がある。 ところで、近年、弥生時代の高地性集落が見張りの役割をもっていたことが明らかになってきている。当然、烽の存在が推測できるわけだが、烽の遺構跡とされる明確な焼土層が確認されているものはあまりない。今後の調査が待たれるところである。 話を備後の常城、茨城に戻す。この両城が最後に文献に現れるのは『続日本紀』養老三年(七一九)の条で、 備後国安那郡茨城蘆田郡常城停(備後国安那郡(穴の氷)茨城、蘆田郡常城を停(とど)む とある。 この記事で常城と茨城の活動が停止したことがわかるが、その後再開したという記事は載っていない。 養老三年という時代は、常城、茨城が築かれた時代から約三〇年経過にしている。他の古代山城の記録も、この記事のさらに三〇年後、恰土(いと)城を築くという記述まで出てこない。 つまり、七世紀後半のような政治的・対外的な危機が去ったため、山城を築く必要があまりなくなったということであり、そうした流れの中での常城と茨城の機能の停止ということであろう。 それにしても、何とかわれわれの手で茨城を発見したいものである備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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