深安郡神辺町要害山城跡の測量調査

備陽史探訪:57号」より

田口 義之

位置(1:50000井原)
位置(1:50000井原)

はじめに昨年(一九九二)二月十六日、本会城郭研究部会では、古墳研究部会の協力を得て、深安郡神辺町大字徳田に所在する中世山城跡、要害山城跡の測量調査を行ないました。

同城跡は神辺平野の中心からやや東よりに位置する独立山塊”五ヶ手山”の西側の主峰、標高九五・九メートルの要害山の山頂に存在し、従来より土塁、空堀、城門跡の遺構をよく残した山城跡として各種の文献に紹介されて来ました。(①)また、山頂に存在する石鎚神社の社殿下より古墳時代の円筒埴輪が出土し、古墳を利用した山城としても知られていました。(②)

調査は、平板測量を中心とし、一部に同年入手した(③)トランシットも試みに使用してみました。

調査参加者

田口義之、網本善光(古墳研究部会)、出内博都(以下城郭研究部会)、七森義人、中村勤史、馬屋原亨、佐藤洋一、井村富貴男、藤井忠夫、細美徹爾、岩下千枝子

調査の成果

わずか一日の調査ではありましたが、山頂主要部の測量をほぼ終えることができ、以下報告するように多くの成果を挙げることが出来ました。

城自体は、山頂を南北約四十メートル、東西約二十メートルにわたってダ円形に削平し、周囲を二重の土塁と、その間の空堀によって取りかこんだだけの簡単な構造ですが、細部には、「桝形門」の型式をもつ虎口(城門)跡など、戦国期の山城として極めて興味深い遺構を残していることがわかりました。

(土塁)

山頂主郭を取り囲む土塁は、上端幅約一メートル、高さ内側約〇・五メートル、外側約二メートルを計り、塁線は複雑に屈曲して、いわゆる「折」横失掛り)を形成しています。「折」は、塁線に死角をなくすために考案された築城法で、近世に至って完成する極めて高度な技術です。この城の場合、「折」はほとんど全周にわたってみられ、屈曲部に立ってみますと、左右の塁線を横に見渡すことが出来、単純な縄張り(城の設計図)にいかに変化を持たせようとしたか、築城者の苦心を察することができます。

(空堀)

内側の土塁と、外側の土塁との間は、上端幅五~六メートル、深さ二メートルの空堀となっています。普通、備後地方の山城の場合、空堀は屋根筋に対して直交して築かれた、「堀り切り」が一般的ですが、この城では、主郭を取り囲む「横堀」となっています。「横堀」も近世城郭に多く見られる築城技術で、堀底を道として利用することにより防禦力の向上をはかったものです。

(桝形虎口)

この城の大きな特徴は、虎口(城門)に「桝形」の型式を取り入れていることです。「桝形」は、城の出入口に方形の小空間を作ることによって城門を二重(垂直に接した二辺に設けられることが多い)にし、防禦力の画期的な向上をはかったもので、戦国末期に各地の城郭に取り入れられました。

近世平山城の城門は、ほとんどこの型式です。

この城の場合、虎口は、北、東、西の三ケ所に残っていますが、いずれも「桝形」の型式を取っています。特に東側のものは遺構の残りがよく、この時期の桝形門として典型的なものです。

この「横堀」と「桝形」の組み合せによって、当城は単郭の簡単な縄張りにもかかわらず、大きな防禦力を持った山城となっています。城内に侵入しようとする敵は、まず外側の土塁を突破し、空堀を渡って内側の土塁に取りつくわけですが、内側の土塁は二メートルの高さがあり、「折(横矢掛り)」によって城内からの死角は、ほとんどなく、直接これを越えて城内に侵入することは容易でありません。また、虎口から城内に侵入することも大変困難だったと思われます。虎口は三ケ所共「桝形」が形成され、城内に入るには二重の城門を突破しなければなりません。

なお、現在、この城への登山道は、西南麓の天神社境内から設置されていますが、この道は、外側の土塁線を破戒しており、本来の登城道とは考えられません。城への登城道や、山麓部の構造、周辺の遺跡との関連などは、今後の研究課題です。

歴史的考察

要害山城跡は、西麓に天神社が鎮座することから、「天神山城」として江戸時代の文献に招介されています。(④)

城主は、宮若狭守、山名清左衛門(⑤)と伝え、一番委しい『西備名区』は、

宮若狭守は、芦品郡新市の亀寿山城主で、同城が落城した天文三年(一五三四)以降、この城に居城したのであろうか。しかし、宮若狭守の名は各地の山城主として名を残しているから、この城に居城したのではなく、この辺りも宮氏の領地として、その名を伝えたのであろう

と考察しています。

宮氏は、南北朝時代以来、この附近の最有力豪族で、この城が宮氏によって築かれたとする伝承は理由のあることです。

しかし、今日残る城の遺構を見ますと、「折」、「桝形」、「横堀」等、戦国中期以降の様想を色濃く残していて、宮氏が居城したと伝える年代(戦国時代前期)と若干ずれがあるようです。

記録の上で、この城の存在する神辺平野周辺が大きな戦乱のうずに巻込まれたのは、天文十六年(一五四七)から同十八年(一五四九)にかけての「神辺合戦」に際してです。この戦いは、尼子方の山名理興の拠る神辺城を、大内、毛利の連合軍が三年間にわたって包囲攻撃したものです。『陰徳太平記』等によりますと、この戦いで攻城側の毛利軍が本陣を置いたのが、要害山城南麓の「秋丸」で、「秋丸」は「安芸衆の本陣」にちなむ地名だと、伝えています。

当城の主郭土塁上に立って南方を望みますと、神辺黄葉山城は指呼の間です。又、東西の虎口は、神辺側からは城兵の出入が見えないように工夫されています。

これらのことから、要害山城は、室町時代宮氏によって築かれたとしても、現在残る遺構は、この神辺合戦に際して、攻城軍の「向城」として使用された時のものではないでしょうか。

「向城」とは、攻城戦が長期にわたる場合、攻手の本陣として築かれたもので、戦国時代、合戦が大規模になると、各地の戦いで盛んに築かれるようになったものです。

まとめ

以上、今回の測量調査によって明らかになった要害山城跡の特徴について、簡単に招介してみました。

城の歴史的考察のところで述べましたように、この城がもし神辺合戦の過程で築かれた向城であるとしますと、次の諸点で大変貴重な山城跡であることがわかります。

一つには、築城(改築)者が大内氏、或は毛利氏として特定でき、当時の大内、或は毛利氏の築城技術を推定できることが挙げられます。

また、築城時期が特定でき、当時の築城術の進歩を検当することも可能です。そして、さらに重要な点は、この城が「向城」として築城(改築)されたものとすると、合戦直後廃棄され、今日まで改変されていないと考えられることです。

山城というものは、初めて築かれてから廃城に至るまで、何代もの城主によって多くの手が加えられているものです。この点からすると築城者、年代が特定でき、その後手が加えられていない要害山城跡は、大変重要な山城遺跡であるといえます。開発によって多くの山城遺構が失われつつある今日、是非とも後世に残したい山城の一つです。

補注
①新人物往来社刊『日本城郭全集』『日本城郭大系』、神辺郷土史研究会『神辺城をめぐる武将たち』、備陽史探訪の会『山城志』第十集、『神辺町史』上巻等。
②「福山市史』上巻、但し、円筒埴輪は主郭西よりの社殿下より出土し、同書が言うような古墳の空堀を利用した山城とは考えられない。山頂部の高まりに円墳が存在したものであろう。
③一九九二年一月、㈱鈴木工務店社長鈴木康平氏より贈られたもの。
④『備後古城記』、『備陽六郡志』、『西備名区』、『芸備風土記』、『福山志料』等。
⑤寛文四年の奥書を有する『備後国福山御領分古城記』(福山城鐘櫓文書館蔵)には、「山名清左衛門、宮若狭守領地なり」とあり、この山名氏は宮氏の代官としてこの地に居城したものであろう。
要害山城跡実測図

 
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/68c263019809d5ecc63ad602de86ef46.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/68c263019809d5ecc63ad602de86ef46-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:57号」より 田口 義之 はじめに昨年(一九九二)二月十六日、本会城郭研究部会では、古墳研究部会の協力を得て、深安郡神辺町大字徳田に所在する中世山城跡、要害山城跡の測量調査を行ないました。 同城跡は神辺平野の中心からやや東よりに位置する独立山塊”五ヶ手山”の西側の主峰、標高九五・九メートルの要害山の山頂に存在し、従来より土塁、空堀、城門跡の遺構をよく残した山城跡として各種の文献に紹介されて来ました。(①)また、山頂に存在する石鎚神社の社殿下より古墳時代の円筒埴輪が出土し、古墳を利用した山城としても知られていました。(②) 調査は、平板測量を中心とし、一部に同年入手した(③)トランシットも試みに使用してみました。 調査参加者 田口義之、網本善光(古墳研究部会)、出内博都(以下城郭研究部会)、七森義人、中村勤史、馬屋原亨、佐藤洋一、井村富貴男、藤井忠夫、細美徹爾、岩下千枝子 調査の成果 わずか一日の調査ではありましたが、山頂主要部の測量をほぼ終えることができ、以下報告するように多くの成果を挙げることが出来ました。 城自体は、山頂を南北約四十メートル、東西約二十メートルにわたってダ円形に削平し、周囲を二重の土塁と、その間の空堀によって取りかこんだだけの簡単な構造ですが、細部には、「桝形門」の型式をもつ虎口(城門)跡など、戦国期の山城として極めて興味深い遺構を残していることがわかりました。 (土塁) 山頂主郭を取り囲む土塁は、上端幅約一メートル、高さ内側約〇・五メートル、外側約二メートルを計り、塁線は複雑に屈曲して、いわゆる「折」横失掛り)を形成しています。「折」は、塁線に死角をなくすために考案された築城法で、近世に至って完成する極めて高度な技術です。この城の場合、「折」はほとんど全周にわたってみられ、屈曲部に立ってみますと、左右の塁線を横に見渡すことが出来、単純な縄張り(城の設計図)にいかに変化を持たせようとしたか、築城者の苦心を察することができます。 (空堀) 内側の土塁と、外側の土塁との間は、上端幅五~六メートル、深さ二メートルの空堀となっています。普通、備後地方の山城の場合、空堀は屋根筋に対して直交して築かれた、「堀り切り」が一般的ですが、この城では、主郭を取り囲む「横堀」となっています。「横堀」も近世城郭に多く見られる築城技術で、堀底を道として利用することにより防禦力の向上をはかったものです。 (桝形虎口) この城の大きな特徴は、虎口(城門)に「桝形」の型式を取り入れていることです。「桝形」は、城の出入口に方形の小空間を作ることによって城門を二重(垂直に接した二辺に設けられることが多い)にし、防禦力の画期的な向上をはかったもので、戦国末期に各地の城郭に取り入れられました。 近世平山城の城門は、ほとんどこの型式です。 この城の場合、虎口は、北、東、西の三ケ所に残っていますが、いずれも「桝形」の型式を取っています。特に東側のものは遺構の残りがよく、この時期の桝形門として典型的なものです。 この「横堀」と「桝形」の組み合せによって、当城は単郭の簡単な縄張りにもかかわらず、大きな防禦力を持った山城となっています。城内に侵入しようとする敵は、まず外側の土塁を突破し、空堀を渡って内側の土塁に取りつくわけですが、内側の土塁は二メートルの高さがあり、「折(横矢掛り)」によって城内からの死角は、ほとんどなく、直接これを越えて城内に侵入することは容易でありません。また、虎口から城内に侵入することも大変困難だったと思われます。虎口は三ケ所共「桝形」が形成され、城内に入るには二重の城門を突破しなければなりません。 なお、現在、この城への登山道は、西南麓の天神社境内から設置されていますが、この道は、外側の土塁線を破戒しており、本来の登城道とは考えられません。城への登城道や、山麓部の構造、周辺の遺跡との関連などは、今後の研究課題です。 歴史的考察 要害山城跡は、西麓に天神社が鎮座することから、「天神山城」として江戸時代の文献に招介されています。(④) 城主は、宮若狭守、山名清左衛門(⑤)と伝え、一番委しい『西備名区』は、 宮若狭守は、芦品郡新市の亀寿山城主で、同城が落城した天文三年(一五三四)以降、この城に居城したのであろうか。しかし、宮若狭守の名は各地の山城主として名を残しているから、この城に居城したのではなく、この辺りも宮氏の領地として、その名を伝えたのであろう と考察しています。 宮氏は、南北朝時代以来、この附近の最有力豪族で、この城が宮氏によって築かれたとする伝承は理由のあることです。 しかし、今日残る城の遺構を見ますと、「折」、「桝形」、「横堀」等、戦国中期以降の様想を色濃く残していて、宮氏が居城したと伝える年代(戦国時代前期)と若干ずれがあるようです。 記録の上で、この城の存在する神辺平野周辺が大きな戦乱のうずに巻込まれたのは、天文十六年(一五四七)から同十八年(一五四九)にかけての「神辺合戦」に際してです。この戦いは、尼子方の山名理興の拠る神辺城を、大内、毛利の連合軍が三年間にわたって包囲攻撃したものです。『陰徳太平記』等によりますと、この戦いで攻城側の毛利軍が本陣を置いたのが、要害山城南麓の「秋丸」で、「秋丸」は「安芸衆の本陣」にちなむ地名だと、伝えています。 当城の主郭土塁上に立って南方を望みますと、神辺黄葉山城は指呼の間です。又、東西の虎口は、神辺側からは城兵の出入が見えないように工夫されています。 これらのことから、要害山城は、室町時代宮氏によって築かれたとしても、現在残る遺構は、この神辺合戦に際して、攻城軍の「向城」として使用された時のものではないでしょうか。 「向城」とは、攻城戦が長期にわたる場合、攻手の本陣として築かれたもので、戦国時代、合戦が大規模になると、各地の戦いで盛んに築かれるようになったものです。 まとめ 以上、今回の測量調査によって明らかになった要害山城跡の特徴について、簡単に招介してみました。 城の歴史的考察のところで述べましたように、この城がもし神辺合戦の過程で築かれた向城であるとしますと、次の諸点で大変貴重な山城跡であることがわかります。 一つには、築城(改築)者が大内氏、或は毛利氏として特定でき、当時の大内、或は毛利氏の築城技術を推定できることが挙げられます。 また、築城時期が特定でき、当時の築城術の進歩を検当することも可能です。そして、さらに重要な点は、この城が「向城」として築城(改築)されたものとすると、合戦直後廃棄され、今日まで改変されていないと考えられることです。 山城というものは、初めて築かれてから廃城に至るまで、何代もの城主によって多くの手が加えられているものです。この点からすると築城者、年代が特定でき、その後手が加えられていない要害山城跡は、大変重要な山城遺跡であるといえます。開発によって多くの山城遺構が失われつつある今日、是非とも後世に残したい山城の一つです。 補注 ①新人物往来社刊『日本城郭全集』『日本城郭大系』、神辺郷土史研究会『神辺城をめぐる武将たち』、備陽史探訪の会『山城志』第十集、『神辺町史』上巻等。 ②「福山市史』上巻、但し、円筒埴輪は主郭西よりの社殿下より出土し、同書が言うような古墳の空堀を利用した山城とは考えられない。山頂部の高まりに円墳が存在したものであろう。 ③一九九二年一月、㈱鈴木工務店社長鈴木康平氏より贈られたもの。 ④『備後古城記』、『備陽六郡志』、『西備名区』、『芸備風土記』、『福山志料』等。 ⑤寛文四年の奥書を有する『備後国福山御領分古城記』(福山城鐘櫓文書館蔵)には、「山名清左衛門、宮若狭守領地なり」とあり、この山名氏は宮氏の代官としてこの地に居城したものであろう。  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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