1996年11月09日

志川滝山合戦の感状について(毛利元就書状)

備陽史探訪:73号」より

田口 義之

以前刊行された藤井定市氏遺著『備南の懐古』の巻頭に、私の提供した滝山城址(加茂町北山)の写真等と共に東広島在住の飯田米秋氏所蔵の志川滝山合戦に関する一枚の古文書が掲げられている。天文二十一年(一五五一)七月二十八日付、毛利元就、同隆元連署の感状である。

内容は、毛利家臣渡辺源五郎の志川滝山合戦に於ける戦功を主君毛利氏が賞したもので、当時の感状原本として大変貴重なものである。

志川滝川合戦については、『備南の懐古』の中で藤井定市氏が詳細に考証されており、私のような後学の者がそれに口を挟む点は余りない。ただ一つ、著述されたのは戦後間もない昭和二十五年頃であって、以来三十余年、著者が目にすることが出来なかった史料で公刊されたものは多い。特に毛利氏側の感状等の古文書は、長州藩士所蔵史料集である、『萩藩閥閲録』の公刊によって利用しやすくなっている。以下、それらの感状を使って志川滝山合戦について私見の一端を披露してみたい。

現在、毛利氏が発給した志川滝山合戦の感状で確認できるものは次ぎの四通である。

○天文十一年七月廿八日付渡辺源五郎宛(東広島市飯田米秋氏所蔵)
○同年同月同日付渡辺小三郎宛(『萩藩閥閲録』二八)
○同年同月同日付光永新四郎宛(『萩藩閥閲録』三五)
○同年同月同日付一二上民部丞宛(『萩藩閥閲録』一二八)

この四通の感状は文言から二種類に分けることができる。

一つは、渡辺源五郎、同小二郎、光永新四郎宛のもので読み下しは次ぎの通りである。

去る廿三日志河切り取り候時、尾首構際に至り、初度に相い付け鑓仕り候、高名比類無し、感悦極り無く候、弥戦功を抽んずべき者也、仍て感状件の如し

もう一つは、三上民部丞宛のもので文章は前掲のものとやや異なっている。

去ぬ廿三日志川に於いて初度構際に至り指し寄せ、其方張行を以て合戦に及ぶ、太刀打ち高名誠に比類無く候、剰さえ鑓疵を被り候感悦更に極り無く候、忠賞怠り有るべからず者也、仍って感状件の如し

両方を較べてみると、前者は内容が簡略で三通残っているのに対し、後者は一通のみで内容もやや詳しい。これは何を意味するのであろうか。

一つは、渡辺源五郎等と較べて、三上民部丞の働きが大であったことが考えられる。「其方の張行によって合戦が始まった」とあるから三上民部丞の突進によって合戦の幕が切って落とされたのである。

しかし、単にそれのみをもってこの違いがあらわれたとするのもどうであろうか。『備南の懐古』にも引用されている、『毛利元就同隆元連署軍忠状』の「或は疵を被り、或は討死の人数」の一番に記入されているのは他ならぬ渡辺小二郎であった(そして三上民部丞は七番目である)。この記入の順位がその戦功に比例しているとは断言できないが、最初に記入されているということは何等かの意味があったと見て誤りはない。そこで考えられるのは、渡辺小二郎等と三上民部丞の毛利家中に於ける立場の違いである。

渡辺氏は古くからの毛利氏の家臣光永氏は毛利氏の古い分家である。いわば渡辺氏等は毛利の「譜代」と一言ってよい。それに対して三上氏は実を言うと備後宮氏の一門なのである。

同氏の系図(『萩藩諸家系譜集』所収)によると、宮下野守信忠が備後国三上郡(現庄原市南半)に住し、在名を取って「三上」氏を称したという。又、『藤姓三吉氏系図』(三吉町国郡志所収)にも宮太夫忠能の子忠秀の注に「三上」とある。藤井定市氏も述べられているように、室町時代の宮氏は非常に繁栄した豪族でその一族が三上郡に土着したとしても不思議はない。

志川滝山合戦に於ける毛利氏の敵は宮氏である。毛利氏に従った三上民部丞にとって同族を討つのは勇気を要することだったに違いない。反面この合戦で戦功を挙げることで、主君毛利氏に忠誠の証を見せようとしたであろう。

毛利元就という人は艱難の中に成長し、家臣に対しては非常に気を遣った人である。渡辺小三郎等に比して三上民部丞の働きがそれ程際立つものではなかったにせよ、その立場を思いやり、他と違った内容の感状を与え、その功を賞したことは十分考えられる。この元就の気遣いがこれら二種類の感状を生んだのではなかろうか。

又、これらの感状を注意深く読むと、「尾首構際に至り」という文句があることに気付く。「尾首」とは山城の尾根続きの鞍部を示す言葉で、普通、山城の最大の弱点である。志川滝山城でも同様である。この城は北、東、南は絶壁状をなしているが西方尾根続きのみは空堀を設けただけで登はんは比較的楽である。そして、毛利勢はこの弱点を目がけて攻撃してきたことをこれらの感状は示している。

現在、滝山城へは西方滝部落から細い山道が続いている。歩いて行くと、城山を面前にして低い馬の背のような地点を通らねばならない。ここが滝山城の「尾首」である。ここで両軍勇士の血が流れたのであろうか。かつて郷土史の先輩が歩みながら思いを馳せたように、私も古文書をひもときながら四百余年の音を思うのである。