宮盛忠について(盛忠は下野守家か?)

備陽史探訪:74号」より

木下 和司

宮盛忠という人物が、歴史上にその足跡を現わすのは文明六年~七年(一四七四~五)のわずか二年間にすぎません。

私がなぜこの人物に興味をもったかというと、『小早川家文書』にある三通の古文書に関係してです。この三通とも芸備での応仁の乱の終息、即ち沼田小早川氏の居城・高山城包囲の開陣に関係しています。

高山城開陣の主役は、五人の人物です。東軍は安芸の小早川掃部助元平と備中の庄伊豆守元資です。西軍三人のうち、二人が宮姓を持つ人物です。残る一人は備後守護代宮田教言です。宮姓の二人は「高山城開陣時證状覚書写」では「両宮」と呼ばれていて、一人は宮若狭守政信であり、もう一人が本稿の主題となる宮五二郎盛忠です。

高山城開陣に関係したのは、いずれも錚々たる人物です。東軍の小早川元平は安芸の有力国人で奉公衆でもある沼田小早川氏惣領であり、庄元資は守護代を務める備中の有力国人です。また、宮田教言は、西軍の主将・山名宗全の腹心です。

室町時代、宮氏には有力な二つの家系、惣領家と考えられる下野守家と有力な庶子家・上野介家がありましたが、宮若狭守の実名「政信」は将軍・義政の偏諱「政」と上野介家の通字「信」の組合せですから、この人物は上野介家の惣領と考えられます。

これに対して宮五二郎盛忠とは何者なのでしょうか。先に述べたように、この二人は「両宮」と呼ばれていましたから単純に考えれば、下野守家を代表しているように思われます。だが事態はそうは単純ではないようです。

もし、若狭守政信とバランスが取れる人物をここに並べるとすれば、下野守もしくは下野守家に縁りの深い修理亮(注一)、駿河守(注二)、中務丞(注三)等の官途を持つ人物が登場するべきだと思います。

しかし、現実にここに登場しているのは官途を持たず、仮名「五三郎」を名乗る人物なのです。高山城開陣に際して、下野守家の有力者が登場しない理由は、備後の郷土史料『渡辺家先祖覚書』によって想像ができます。これによれば、

取分宮下野守殿同彼一門かしは村ニ引籠被居候備前国松田方庄伊豆守方猛勢ニて御合力致申候…中略…然間へ宮一類かしは村に於て下野守殿を始とし悉腹を御切備後国無残所従御下知候…後略…

とあって、文明三年四月、備後に下向した東軍の備後守護山名是豊及びそれに味方する備前・備中勢に攻めたてられて宮下野守家の有力者たちは、文明六年頃までに柏村の居城で切腹したと思われます。

このために、文明七年の高山城開陣に下野守家の有力者は登場できないと想像されます。それでは宮盛忠とは何ものなのでしょうか。下野守家に関わりのある人物なのでしょうか。『福山市史』・『三原市史』では「両宮」、即ち宮若狭守・五二郎を共に宮家の有力な庶家としています。

田口会長は、「久代宮氏の出自について」(『備陽史探訪第六八号』)の中で、『平賀家文書』年欠二月二三日付陶興房書状を根拠に「両宮」を久代宮氏の先代にあたるとして、盛忠も政信と同じく上野介家の一門と考えておられます。

即ち上野介家第二代氏信の嫡子と考えられる満信(上野介家)、とその弟氏兼の家系(彦次郎家)を指すとされています。先に引用したように、惣領下野守家が山名是豊の攻撃で大きなダメージを受け、芸備の応仁・文明の乱終息に十分な役割を果たすことができず、それを補うために上野介家の庶子家である氏兼の家系「彦次郎家」が表舞台に登場し、「両宮」と呼ばれたと言うことになるわけです。

「両宮」と言う名が歴史上に現れるのは、応仁年間から明応年間に限られ、備中・備後・安芸の各地で一緒に行動しています(注四)。元々下野守家と上野介家は仲の良い家系ではないようで、南北朝初期の争乱に際して、下野守家は南朝方に、上野介家は北朝方に属して戦っています。

また、『蔭涼軒目録』長享三年(一四八九)八月十二日の条によると、細川政元邸での宴席の席次を巡って、下野守政盛と若狭守(上野介家)宗兼が惣領庶子の論争を繰り広げています。

こう考えてくると、芸備地方で同一歩調の軍事行動を取っている家系とは考えにくく、「両宮」を下野守家と上野介家のペアに比定することは難しいようにも思われます。では本稿の主題である「宮盛忠」とは、どのような人物なのでしょうか。

はっきり言えば現状の私の知識では、明確に結論付ける事が出来ません。この稿を書こうと考えた時には、単純に下野守家、若くは、それに近いと思われる庶子家、例えば、三河守家、遠江守家(注五)とかを考えていたのですが、田口会長とお話をしている時に、そう単純ではない事に気付かされたのです。

一つは、文書様式上の問題があります。政信・盛忠の名が、具体的に現れる書状は『小早川家文書』の「小早川元平書状」と「宮政信盛忠連署状写」です。前者は、元平が宮田教言、宮政信・盛忠の二人に充てた書状で宛所の順序は、教言・若狭守・五三郎となっています。後者は、政信と盛忠が元平に充てた書状で、差出人の順序は盛忠・政信となっています。

古文書の文書様式では、宛所は本文に近い方が上位者であり、差出人は本文から遠い方が上位者を示します。従って、政信が盛忠の上位者と言う事を示している事になります。確かに政信は若狭守と言う官途を持っており、官途を持たない盛忠より上位者と考えられますが、宮途の有無は、おそらく年齢によるものと思われます。

しかし、ここで盛忠が下野守家を代表していると仮定すると、惣領家を代表している訳ですから、官途に関係なく上位者の位置にくるべきだと考えられます。これは先に述べた古文書の文書様式とは矛盾しており、盛忠の庶子家説を支持しているように思われます。

もう一つ宮盛忠庶子家説を支持する材料としては、『毛利家文書』の「毛利豊元譲状」があります。この文書は、文明七年(一四七五)十一月二十四日付けで、毛利豊元がその子千代寿丸に対して新規に獲得した所領の譲り渡しを示したもので、領有権の保証者として、山内泰通、宮田教言と並んで宮教元の名前が見えます。

教元は下野守家六代目惣領と考えられ、『渡辺家先祖覚書』で切腹したとされている下野守にあたると思われる人物です。『渡辺家先祖覚書』は、天文三年(一五三四)に書かれており、柏村の合戦から約六十年が経過しているため、下野守家が大打撃を受けたことが下野守の切腹として伝わったのかも知れません。文明七年の時点で下野守教元が存命していたとすれば、下野守家を代表すべき人物と言うことになります。

したがって、もし「両宮」が下野守・上野介、両家を指しているとするならば、上野介家の政信に対して下野守家は教元が登場する必要があると思います。しかし、現実に政信の相方は盛忠であり、このことは盛忠が下野守家を代表していないことを支持しているように思われます。

一方、盛忠が下野守家に属するのではないかと考えられる根拠としては、その実名にある「盛」が、下野守家の通字であることが挙げられます。下野守家惣領は、満盛・元盛・政盛のように将軍家及びその重臣の偏諱を受けることが多かったようで「盛」の字を実名の下に持っています。

これに対して下野守家の庶子家と思われる三河守家・遠江守家では下野守家初代盛重の系統を引く名乗りを用いています。三河守家では盛廣、遠江守家では盛長・盛秀と言う実名が使われており、盛忠もこの系列に属する名前と考えられます。このことは盛忠が下野守家に属することを示しているように思われます。

宮盛忠がどのような人物であるかを高山城開陣に関係した古文書から考えてみたのですが、どうも明確な答えを得られそうにありません。そこで他に盛忠に関係する文書がないかどうか探してみると、『山内首藤家文書』の中に一編だけ見つける事ができました。

それは、文明六年十一月十八日付けの「宮盛忠契約状」と呼ばれている文書です。この文書は、小条孫右衛門尉跡の田畠を年貢十貫文と諸役を納める事を条件に山内首藤家に関係する誰かにゆずり渡した事を示すものです。

この文書の宛所は欠落していて不明です。文明六年段階で盛忠は、所領の成敗権を持っていたと考えられますから、いずれかの宮家の惣領と考えられます。もし「宮盛忠契約状」の宛所が山内新左衛門尉豊成であるとすれば、それと釣り合う家は宮下野守家、若しくは上野介家しかなく、従って先に述べた名乗りの問題と合わせて考えると、盛忠は下野守家を代表していると考える方が合理的だと思われます。しかし、あくまで宛所が山内豊成の場合であり、現状では明確に断定することはできません。

以上、本稿の主題に据えた「宮盛忠」について色々考えてみたのですが、やはり盛忠がどんな人物なのかを明確にはできていません。でも備後の応仁年間から明応年間までの歴史を調べてみて一つ朧げながら分かったことがあります。それは、この時期の備後の歴史が、二つのベクトルを軸にして動いているのではないかと言うことです。

一つの軸は、備北から備南へ勢力を延ばそうとする山内首藤氏の意思であり、もう一つの軸は備南から備北へ延びようとする宮氏の意思であると思われます。この二つの軸と大内(毛利)、尼子の二大勢力の外圧が複雑に絡みあって、備後の歴史が動いていたように私には思えます。

ここまで述べてきたことから、応仁―明応年間の備後の歴史を考える時、「両宮」即ち宮盛忠の正体が一つのポイントとなると思われます。今後もう少し精進して、この時期の備後の動乱を理解できるようになりたいと思っています。

(注一)『康富記』宝徳二年七月五日の条に、宮下野修理亮教元とみえる。
(注二)『在盛卿記』長禄二年十二月五日の条に、宮駿河守教元とみえる。
(注三)『小早川文書』2・一三二号「伊勢貞親奉書写」(寛正三、三年十月九日)に両使、小早川備後守・宮中務丞とみえ、「東山殿時代大名外様附」宮下野守と同じく五番に宮中務丞とみえる。
(注四)
※『萩藩閥閲録』巻一二四―一「平賀九郎兵衛家文書」五〇
※『萩藩閥閲録』巻一六「志道太郎右衛門家文書」六〇
(注五)『石清水放生会記』永享十年八月十五日の条に、宮三河守盛廣、宮五郎左衛門尉盛長と見える。また、「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」に宮五郎左衛門尉盛秀とみえ、『蔭涼軒日録』延徳二年一月廿三日の条に、宮遠江守盛秀とみえる。

管理人中世史「備陽史探訪:74号」より 木下 和司 宮盛忠という人物が、歴史上にその足跡を現わすのは文明六年~七年(一四七四~五)のわずか二年間にすぎません。 私がなぜこの人物に興味をもったかというと、『小早川家文書』にある三通の古文書に関係してです。この三通とも芸備での応仁の乱の終息、即ち沼田小早川氏の居城・高山城包囲の開陣に関係しています。 高山城開陣の主役は、五人の人物です。東軍は安芸の小早川掃部助元平と備中の庄伊豆守元資です。西軍三人のうち、二人が宮姓を持つ人物です。残る一人は備後守護代宮田教言です。宮姓の二人は「高山城開陣時證状覚書写」では「両宮」と呼ばれていて、一人は宮若狭守政信であり、もう一人が本稿の主題となる宮五二郎盛忠です。 高山城開陣に関係したのは、いずれも錚々たる人物です。東軍の小早川元平は安芸の有力国人で奉公衆でもある沼田小早川氏惣領であり、庄元資は守護代を務める備中の有力国人です。また、宮田教言は、西軍の主将・山名宗全の腹心です。 室町時代、宮氏には有力な二つの家系、惣領家と考えられる下野守家と有力な庶子家・上野介家がありましたが、宮若狭守の実名「政信」は将軍・義政の偏諱「政」と上野介家の通字「信」の組合せですから、この人物は上野介家の惣領と考えられます。 これに対して宮五二郎盛忠とは何者なのでしょうか。先に述べたように、この二人は「両宮」と呼ばれていましたから単純に考えれば、下野守家を代表しているように思われます。だが事態はそうは単純ではないようです。 もし、若狭守政信とバランスが取れる人物をここに並べるとすれば、下野守もしくは下野守家に縁りの深い修理亮(注一)、駿河守(注二)、中務丞(注三)等の官途を持つ人物が登場するべきだと思います。 しかし、現実にここに登場しているのは官途を持たず、仮名「五三郎」を名乗る人物なのです。高山城開陣に際して、下野守家の有力者が登場しない理由は、備後の郷土史料『渡辺家先祖覚書』によって想像ができます。これによれば、 取分宮下野守殿同彼一門かしは村ニ引籠被居候備前国松田方庄伊豆守方猛勢ニて御合力致申候…中略…然間へ宮一類かしは村に於て下野守殿を始とし悉腹を御切備後国無残所従御下知候…後略… とあって、文明三年四月、備後に下向した東軍の備後守護山名是豊及びそれに味方する備前・備中勢に攻めたてられて宮下野守家の有力者たちは、文明六年頃までに柏村の居城で切腹したと思われます。 このために、文明七年の高山城開陣に下野守家の有力者は登場できないと想像されます。それでは宮盛忠とは何ものなのでしょうか。下野守家に関わりのある人物なのでしょうか。『福山市史』・『三原市史』では「両宮」、即ち宮若狭守・五二郎を共に宮家の有力な庶家としています。 田口会長は、「久代宮氏の出自について」(『備陽史探訪第六八号』)の中で、『平賀家文書』年欠二月二三日付陶興房書状を根拠に「両宮」を久代宮氏の先代にあたるとして、盛忠も政信と同じく上野介家の一門と考えておられます。 即ち上野介家第二代氏信の嫡子と考えられる満信(上野介家)、とその弟氏兼の家系(彦次郎家)を指すとされています。先に引用したように、惣領下野守家が山名是豊の攻撃で大きなダメージを受け、芸備の応仁・文明の乱終息に十分な役割を果たすことができず、それを補うために上野介家の庶子家である氏兼の家系「彦次郎家」が表舞台に登場し、「両宮」と呼ばれたと言うことになるわけです。 「両宮」と言う名が歴史上に現れるのは、応仁年間から明応年間に限られ、備中・備後・安芸の各地で一緒に行動しています(注四)。元々下野守家と上野介家は仲の良い家系ではないようで、南北朝初期の争乱に際して、下野守家は南朝方に、上野介家は北朝方に属して戦っています。 また、『蔭涼軒目録』長享三年(一四八九)八月十二日の条によると、細川政元邸での宴席の席次を巡って、下野守政盛と若狭守(上野介家)宗兼が惣領庶子の論争を繰り広げています。 こう考えてくると、芸備地方で同一歩調の軍事行動を取っている家系とは考えにくく、「両宮」を下野守家と上野介家のペアに比定することは難しいようにも思われます。では本稿の主題である「宮盛忠」とは、どのような人物なのでしょうか。 はっきり言えば現状の私の知識では、明確に結論付ける事が出来ません。この稿を書こうと考えた時には、単純に下野守家、若くは、それに近いと思われる庶子家、例えば、三河守家、遠江守家(注五)とかを考えていたのですが、田口会長とお話をしている時に、そう単純ではない事に気付かされたのです。 一つは、文書様式上の問題があります。政信・盛忠の名が、具体的に現れる書状は『小早川家文書』の「小早川元平書状」と「宮政信盛忠連署状写」です。前者は、元平が宮田教言、宮政信・盛忠の二人に充てた書状で宛所の順序は、教言・若狭守・五三郎となっています。後者は、政信と盛忠が元平に充てた書状で、差出人の順序は盛忠・政信となっています。 古文書の文書様式では、宛所は本文に近い方が上位者であり、差出人は本文から遠い方が上位者を示します。従って、政信が盛忠の上位者と言う事を示している事になります。確かに政信は若狭守と言う官途を持っており、官途を持たない盛忠より上位者と考えられますが、宮途の有無は、おそらく年齢によるものと思われます。 しかし、ここで盛忠が下野守家を代表していると仮定すると、惣領家を代表している訳ですから、官途に関係なく上位者の位置にくるべきだと考えられます。これは先に述べた古文書の文書様式とは矛盾しており、盛忠の庶子家説を支持しているように思われます。 もう一つ宮盛忠庶子家説を支持する材料としては、『毛利家文書』の「毛利豊元譲状」があります。この文書は、文明七年(一四七五)十一月二十四日付けで、毛利豊元がその子千代寿丸に対して新規に獲得した所領の譲り渡しを示したもので、領有権の保証者として、山内泰通、宮田教言と並んで宮教元の名前が見えます。 教元は下野守家六代目惣領と考えられ、『渡辺家先祖覚書』で切腹したとされている下野守にあたると思われる人物です。『渡辺家先祖覚書』は、天文三年(一五三四)に書かれており、柏村の合戦から約六十年が経過しているため、下野守家が大打撃を受けたことが下野守の切腹として伝わったのかも知れません。文明七年の時点で下野守教元が存命していたとすれば、下野守家を代表すべき人物と言うことになります。 したがって、もし「両宮」が下野守・上野介、両家を指しているとするならば、上野介家の政信に対して下野守家は教元が登場する必要があると思います。しかし、現実に政信の相方は盛忠であり、このことは盛忠が下野守家を代表していないことを支持しているように思われます。 一方、盛忠が下野守家に属するのではないかと考えられる根拠としては、その実名にある「盛」が、下野守家の通字であることが挙げられます。下野守家惣領は、満盛・元盛・政盛のように将軍家及びその重臣の偏諱を受けることが多かったようで「盛」の字を実名の下に持っています。 これに対して下野守家の庶子家と思われる三河守家・遠江守家では下野守家初代盛重の系統を引く名乗りを用いています。三河守家では盛廣、遠江守家では盛長・盛秀と言う実名が使われており、盛忠もこの系列に属する名前と考えられます。このことは盛忠が下野守家に属することを示しているように思われます。 宮盛忠がどのような人物であるかを高山城開陣に関係した古文書から考えてみたのですが、どうも明確な答えを得られそうにありません。そこで他に盛忠に関係する文書がないかどうか探してみると、『山内首藤家文書』の中に一編だけ見つける事ができました。 それは、文明六年十一月十八日付けの「宮盛忠契約状」と呼ばれている文書です。この文書は、小条孫右衛門尉跡の田畠を年貢十貫文と諸役を納める事を条件に山内首藤家に関係する誰かにゆずり渡した事を示すものです。 この文書の宛所は欠落していて不明です。文明六年段階で盛忠は、所領の成敗権を持っていたと考えられますから、いずれかの宮家の惣領と考えられます。もし「宮盛忠契約状」の宛所が山内新左衛門尉豊成であるとすれば、それと釣り合う家は宮下野守家、若しくは上野介家しかなく、従って先に述べた名乗りの問題と合わせて考えると、盛忠は下野守家を代表していると考える方が合理的だと思われます。しかし、あくまで宛所が山内豊成の場合であり、現状では明確に断定することはできません。 以上、本稿の主題に据えた「宮盛忠」について色々考えてみたのですが、やはり盛忠がどんな人物なのかを明確にはできていません。でも備後の応仁年間から明応年間までの歴史を調べてみて一つ朧げながら分かったことがあります。それは、この時期の備後の歴史が、二つのベクトルを軸にして動いているのではないかと言うことです。 一つの軸は、備北から備南へ勢力を延ばそうとする山内首藤氏の意思であり、もう一つの軸は備南から備北へ延びようとする宮氏の意思であると思われます。この二つの軸と大内(毛利)、尼子の二大勢力の外圧が複雑に絡みあって、備後の歴史が動いていたように私には思えます。 ここまで述べてきたことから、応仁―明応年間の備後の歴史を考える時、「両宮」即ち宮盛忠の正体が一つのポイントとなると思われます。今後もう少し精進して、この時期の備後の動乱を理解できるようになりたいと思っています。 (注一)『康富記』宝徳二年七月五日の条に、宮下野修理亮教元とみえる。 (注二)『在盛卿記』長禄二年十二月五日の条に、宮駿河守教元とみえる。 (注三)『小早川文書』2・一三二号「伊勢貞親奉書写」(寛正三、三年十月九日)に両使、小早川備後守・宮中務丞とみえ、「東山殿時代大名外様附」宮下野守と同じく五番に宮中務丞とみえる。 (注四) ※『萩藩閥閲録』巻一二四―一「平賀九郎兵衛家文書」五〇 ※『萩藩閥閲録』巻一六「志道太郎右衛門家文書」六〇 (注五)『石清水放生会記』永享十年八月十五日の条に、宮三河守盛廣、宮五郎左衛門尉盛長と見える。また、「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」に宮五郎左衛門尉盛秀とみえ、『蔭涼軒日録』延徳二年一月廿三日の条に、宮遠江守盛秀とみえる。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む