2000年07月02日

元禄検地~備前藩の切れ者 津田左源太~

備陽史探訪:95号」より

田口 義之

旧川口村の北端(左手)―右手にバリューが建つ―

旧川口村の北端(左手)―右手にバリューが建つ―

この辺より検地が始まった。(平成3年撮影)

元禄十一年(一六九八)の水野氏の断絶は、各方面に甚大な影響を与えた。旧水野領内に住む農民達にとっても無縁ではなかった。それどころか一番深刻な影響を受けたのは彼らであったと言える。

旧水野領を管理下に置いた幕府は元禄十二年(一六九九)、全領内の検地を実施、この時決定された石高が、以後明治初年の地租改正まで、農民達が負担する年貢高の基準となったのである。これがいわゆる「元禄検地」である。

この検地は、幕府の命により備前岡山藩が実施したが、以後百五十年間税金の基本台帳となっただけに、当時の記録を読むと容易ならざる大事業であったようである。検地は、田畑・屋敷一枚ずつ面積を測り、「石盛」といって米の収穫高に換算して、石高と年貢負担者を決めてゆく。

現在で言えば、国土の基本調査と固定資産税の課税台帳作りを一緒にしたようなものだから、機械力のない時代、その労力は大変なものであった。

幕府の命令を受けた岡山藩では、早速「検地団」を組織して福山に向かった。その組織は団長に家老の池田靭負(ゆげい)を据え、元締め上坂蔵人(くらんど)・津田左源太以下、医者、料理人に至るまで、なんと総勢二千四百余名。岡山藩にしても文字通り藩の命運をかけた一大事業であった。

この検地を実際に切り回したのは家老の池田靭負ではなく、元締め両人、中でも津田左源太であった。左源太は名を永忠と言い、当時の岡山藩で「切れ者」として通っていた人物である。二百石取りの家に生まれ、名君と謳われた池田光政に信頼され、その側近として藩政改革に腕を振るった。特に農政家として岡山藩の干拓事業に取り組み、「郡代」として大きな業績を残した。

岡山藩の検地役人の一行は、五月二十七日、深津郡の川口村(川口町)で「検地始」を行った後、四十組に分かれて旧水野領をくまなく検地して廻った。検地実施中には、事件も起ったようである。八月には、検地役人の一人が神辺の光明寺沖付近の川原で変死体となって発見された。

また、少しでも手加減してもらおうと、村方の饗応攻めもあったようで、検地奉行の家来が収賄したとして検地終了後処刑されている。

ともかく、九月には検地を終了した。そして、旧水野領の石高は「十五万五十二石三合」として幕府に申告され、この石高が以後、福山地方の人々を苦しめることになるのである。なにしろ、この検地では、今までの六尺一寸・一間が、六尺・一間とされ、石高の”水増し(年貢増徴となる)”が行われたのだから。