2000年08月26日

坂本龍馬といろは丸事件

備陽史探訪:96号」より

田口 義之

坂本龍馬写真

慶応三年(一八六七)四月二三日の深夜、瀬戸内海の讃岐国(香川県)箱ノ岬沖の海上で蒸気船同士の衝突事故が起こった。土佐海援隊のいろは丸に、紀州和歌山藩の軍船明光丸が衝突、いろは丸が沈没したいわゆる「いろは丸事件」である。

土佐海援隊は、坂本龍馬が土佐藩に働きかけて設立された日本最初の貿易商社。そして、いろは丸には龍馬自身が乗船していた。ここからこの事件は、当時としては珍しい「万国公法(国際法)」を振りかざした「海難審判」に発展していく。

事件そのものは双方に非があり、当時の万国公法からいえば、いろは丸に分が悪い。なんとなれば、明光丸はいろは丸の右舷に衝突しており、当時の万国公法に違反していることが明白であるからだ(当時の国際法では、互いに反航する船は衝突の危険が迫ったとき、右に舵を切ることになっており、いろは丸が左に舵を切らない限り、明光丸がその右舷に衝突することはあり得ない)。

最初の談判は、鞆を舞台にして行われた。龍馬以下の土佐海援隊は石井町の桝屋清右衛門宅に宿泊し、円福寺を根城にした紀州側と、福禅寺村潮楼などで数日間の折衝が行われたのである。

その焦点はもちろん何れに非があるかであったが、交渉はなかなか進展しなかった。紀州側が「御三家」の成光を振りかざし、土佐側の言い分を聞き入れようとしなかったのである。

一方、龍馬側も引くに引けない立場にあった。実は、いろは丸は海援隊の持船ではなく、伊予大洲藩から一五日間五百両の契約で借りた、いわばチャーター船であったからだ。当時のことだから海難保険などありはしないし他人の船を沈めたら自分で弁償しなければならない。これが龍馬を執拗に紀州側の非を鳴らし、同藩から賠償金を取ろうとした理由だ。

結局、この交渉は舞台を九州長崎に移し、紀州藩が土佐海援隊に八万三千両の賠償金を支払うことで決着したが、龍馬自身にとっては決してプラスになるような出来事ではなかった。

まず、幕末のこの時期、龍馬は一ヶ月もこの事件に煩わされて政局に関わることが出来なかったことだ。これは歴史の表面には出てこないことだが、彼の政治力から考えれば、いろは丸事件は当時の政局に微妙な影響を与えたと言える。

また、もっと深刻な影響は、彼自身の命に関わることであった。龍馬はこの年十一月十五日、京都で暗殺されるが、暗殺者の背後に紀州藩の陰がちらつくのである。真相は藪の中だが、もし暗殺の陰に紀州藩があるとすれば、この事件は単なる海難事件どころか、幕末の政局を左右した歴史的事件となるのである。