2001年08月20日

女子大学をつくった備後の人々

備陽史探訪:102号」より

堤 勝義

―京都女子大学・武蔵野女子大学・大妻女子大学を例として―

一、はじめに

備後地方には、京都女子大学の前身をつくった神辺町出身の甲斐(足利)和里子(わりこ)、武蔵野女子大学をつくった三原市出身の高楠順次郎(澤井恂(じゅん))、大妻女子大学をつくった世羅の三川出身の大妻(熊田)コタカがいる。備後地方には、早くから女子教育に尽くす素地があったのであろうか。この三人の人々を取り上げてみたいと思う。

二、甲斐(足利)和里子

京都女子大学の前身をつくり、 一生を女子教育に尽くした甲斐(足利)和里子は、明治元年(一八六八)に神辺町の勝願寺に、本願寺派の勧学として知られていた足利義山の五女として生まれている。

現在の同志社女子大学を出た和里子は、早くに女子教育を志して、まず京都の下京区に、松田甚左衛門と共に顕道女学院を明治三二年(一八九九)四月十一日に開校している。

この女学校では、仏教的情操教育を重視した人間形成を努めていたのであるが、明治三四年(一九〇一)二月、わずか二年程で廃校となっている。共同経営者の松田甚左衛門との意見の相違があったものと考えられる。

和里子は、顕道女学校時代に、夫の甲斐駒蔵と一緒に文中園という私塾を開いていた。文中園は、生徒の急増によって、文中女学校と改名している。それに対して本願寺は、月額五円の助成金を出資している。

その後、文中女学校は発展をし、明治四三年(一九一〇)二月に私立京都高等女学校を買い取ることになった。文中女学校は京都高等女学校と合併し、同年三月に第一回卒業式が行われている。

この時、西本願寺も女子教育に注目していたので、本願寺仏教婦人会連合本部は、甲斐夫妻からこの女学校を譲り受けるように交渉し、その事業として運営されることになった。これが、京都女子大学の前身となる京都高等女学校である。

西本願寺で、この高等女学校の援助者となったのが、大谷探検隊を中央アジアに派遣して、わが国のシルクロード研究の端緒を開いた大谷光瑞であり、妹の九條武子であった。

当時の女子教育を振り返ってみると、跡見女学校や実践女学校(跡見女子大学・実践女子大学の前身)が明治八年(一八七五)、明治十九年(一八八六)に広島英和女学校(広島女学院の前身)、明治三二年(一八九九)に鳩山春子の共立女子職業学校(共立女子大学の前身)、明治三三年(一九〇〇)に津田梅子の女子英学塾(津田塾大学の前身)や吉岡弥生の東京女医学校(東京女子医大の前身)が開設されている。

これらの学校は私塾の前身があるけれども、甲斐和里子も、前述の学校に遅れることなく、明治三二年に顕道女学校を開設しているので、本来は、女子教育史の中にも名をとどめるべきなのであるが、早くに京都高等女学校を手放したために、その名があまり知られていないのは残念なことである。しかし、経営権が西本願寺にかわっても、和里子は京都高等女学校に長くとどまり、女子教育に専念したのである。

『京都女子学園八十年史』の第一章の歴代学園代表像の一番最初に、甲斐和里子の事歴と顔写真が掲載されていて、二番目には夫の甲斐駒蔵の事歴が掲載されている。これによっても、和里子が京都女子大学の創立者として認知されているのがわかるのである。

三、高楠順次郎

武蔵野女子大学の前身をつくった高楠順次郎は、御調郡八幡村(現在の三原市八幡町)の澤井家の長男として生まれている。生没年は慶応二年~昭和二十年(一八六六~一八四五)である。

高楠順次郎は養子に入ってからの名前で、元は、澤井恂といった。その弟が戦前に備後の歴史界で知られていた澤井常四郎である。澤井常四郎の著書は、現在も福山の古本屋で売られている。

現在の三原市立図書館の始めは、澤井家の蔵書の寄贈によって出来たのである。高楠博士の生家前には、三原市史跡として高楠文庫(澤井図書館)の掲示板が立っている。三原市立図書館に所蔵されている貴重な蔵書は、澤井家のものであったのである。

澤井恂は、京都の普通教校(龍谷大学の前身)在学中に、神戸の高楠家の養子になったのであるが、長男が養子にいくというので、名前を順次郎と改名しているのである。

明治三二年(一八八九)に普通教校を卒業して、英国のオックスフォード大学に留学した。オックスフオードでは、マックス・ミュラー教授の指導を受けて、サンスクリット学を勉強している。

澤井や後に朝日新聞の論説委員になる長谷川如是閑(にょぜかん)が、普通教校時代につくった雑誌を『反省会雑誌』といったが、これが東京に移って『中央公論』になっている。

高楠は、日本人で初めて、正式にサンスクリット学を学んで帰国した。帰国後、東京帝国大学講師となって、サンスクリット学を講義し、後に教授になっている。『大正新修大蔵経』や『南伝大蔵経』の刊行等、多くの編著書がある。

高楠は女子教育にも力を尽くしている。大正十三年(一九二四)三月七日に東京築地の本願寺別院の焼け跡に武蔵野学園を創立している。

高楠博士は、十年間に長女、次女、三女、四女と相次いでなくしているが、同大正十三年に保谷村(現東京都保谷市)に広大な土地を確保して、大学昇格運動をしている。これが武蔵野女子大学の前身である。

武蔵野学園には桜並木があり、芦品郡新市町の某植木屋が毎年手入れをしていたという。高楠博士との個人的なつながりがあったのであろう。高楠博士は、昭和十九年(一九四四)四月二九日に、第四回文化勲章を受章しているが、翌昭和二十年(一九四五)六月二八日に死去している。戦時中のことであったので簡素な葬儀であった。

現在、生家前には、高楠博士を称えた大きな石碑が建っている。同じ文化勲章受章者の仏教学者宇井博士の文章である。

武蔵野学園は、その後、昭和二五年(一九五〇)に短期大学になり、昭和四十年(一九六五)に大学に昇格している。高楠博士の蒔いた種が大きく実をつけたのである。

高楠順次郎生家に立つ顕彰碑

高楠順次郎生家に立つ顕彰碑

 

四、大妻(熊田)コタカ

熊田コタカは、世羅郡三川村久恵に生まれている。明治十四年(一八八四)の生年である。

現在生家跡は、三川ダムが出来たことにより湖底である。

熊田コタカは、明治三三年(一八九九)に裁縫講習所に入学し、翌年卒業している。明治三六年(一九〇三)に、東京私立和洋裁縫専門女学院和服速成科に入学して、翌年七月に卒業している。そして、コタカは、明治四十年(一九〇七)に、鎌倉尋常高等小学校訓導となり、同じ年に、大妻良馬と結婚し、大妻コタカとなっている。

昭和四三年(一九一〇)、私塾を東京技芸教授所と命名している。大正三年(一九一四)には、大妻技芸伝習所と改名。さらに、昭和四年(一九二九)に大妻学院、昭和十七年(一九四二)に大妻女子専門学校と改名し、女子教育に邁進している。

女性教育開拓者としては、自由学園をつくった羽仁もと子や、東京女子医大の吉岡弥生に次いで、大妻コタカの名前も出てくる。女子教育の開拓者であった。

現在、三川ダムの近くに、裁縫学校が再現されて、コタカの胸像が、ダムによって出来た湖を向いて建立されている。

生家跡のダム湖をみる大妻コタカの胸像

生家跡のダム湖をみる大妻コタカの胸像

 

五、まとめ

備後地方の人々の中で、女子教育に尽くして、京都女子大学、武蔵野女子大学、大妻女子大学の前身をつくった、甲斐(足利)和里子、高楠順次郎、大妻(熊田)コタカについて、簡略に書いてみた。

高楠順次郎を除いて、甲斐和里子、大妻コタカともに、早くから女子教育に尽くして、それぞれが興した学校が女子大学として成長し、わが国の女子教育に貢献しているのである。

《参考資料》
『京都女子学園八十年史』(平成二年十二月五日刊)
『武蔵野女子学院五十年史』(昭和四九年十一月十一日刊)
『大妻学院八十年史』(平成元年十月二日刊)