福山の郷土料理「うずみ」について・その後

備陽史探訪:175号」より

岡田 宏一郎

会報174号に「うずみについて思うこと」を掲載してもらいましたが、その後新しい情報や意見・反響がなかったので、その後ちょっぴり自分で調べたことを追加報告します。と言っても随想めいた内容です。

十一月三日・四日に「福山うずみフェスタ2013」が中央公園で開催されたので4日に行ってきました。参加者も多く楽しいイベントでしたが、うずみは限定100食のため、多くの人が並び食券を購入していました。自分は並ぶのが嫌いで、そこまでして食べようとは思わないのですが、並ばなければ「うずみ」が食べられないし報告も出来ないために我慢して並びました。

食べたのは「秋の味を堪能!秋うずみ」と福山市の小学校の給食メニューで出されている「給食のうずみ」の二食を欲張って味わいました。(「至福の味!鯛うずみ」も食べたかったが、もうこれ以上は無理なので、二食で我慢しました)

福山市の小学校では十月二九日(二十九日とはフクの日)ということで給食のメニューに「うずみ」を出しています。そんなことから給食のうずみとはどんなものか試食してみました。

給食のメニューとしては味もよく、おいしかったですね。

ある小学校の校長先生は「子どもたちは知らないので、驚いていたと」言われていました。もう一食の「秋うずみ」は秋の野菜やキノコが入っていましたが、さすがにマツタケはなくて代わりにシイタケが使われ、定番のえびや鶏肉・里芋も当然入っていました。

さて福山の郷土料理と言われている「うずみ」ですが、いろいろと聞いてみましたが反応はいまいちでした。「知らない」「今は知っているが以前は知らなかった」という声が多かったですね。松永では中心市街地に住んでいた人からは「知らない」といわれ、周辺の農村部の人は「昔はよく食べていた」とか「親から聞いたことがあるが食べたことはない」などの答えがありました。神辺に以前に住んでいた人からは「お正月にみんなで食べていた」とか「母が子ども時代には家で食べていた」などの答えが返ってきました。

そこで、神辺に目をつけ『備後神邊の郷土料理うずみ』(今西昭・光子 自家版)を見ると神辺の古い商家で受け継がれているうずみについて書かれていました。

その中に村上正名氏が書かれたうずみについての記事がありました。それには

城下町から近郷神辺平野にかけて秋祭りが近づくと今年も、『うずみ』をつくろうと楽しみに祭りの前の晩を迎える習わしがあった。祭りの宵でなくても秋の珍客があるとこの『うずみ』を御馳走したものである。‥‥しかし、この『うずみ』には封建時代に質素倹約をしいられた民衆のかすかな抵抗の祭りの宵の賓沢がうずめられているという歴史がまつわって・・

と書かれている。もう一本の記事には

御飯と具と汁を箸で混ぜながら食べるのですが、食事が進む程、味が深まってきます。季節に合った具、エビなど煮出し材でおいしく作るのがポイントです。豆腐、ネギ、里芋、ゴボウ、人参は定番(加藤純一)

とある。さらに読売新聞備後版(1998年11月13日)が掲載され、それには「神辺の今西さんおいしい具ご飯で隠し、400年の味100人に提供へ」とあり

元和五年神辺城主になった水野勝成が倹約政治を敷き、ぜいたく品とされた鶏肉、エビなどを食べるため、庶民が具をご飯で隠したのが始まりとされ、福山、府中市、新市町などにも伝わった。神辺町では古くから、天別豊姫神杜の十月二十日の例祭前日に食べる風習があった。

という記事を載せている。この「水野勝成が倹約政治を敷いたので庶民がご飯で隠した」という説についてのうずみに関した史・資料はなく、また阿部正倫の時代に倹約令が出されたことからという伝説めいた話もある。ただ神辺地域ではかなり食べられていたのであろうが、同じ神辺地域の人でも知らないというから忘れ去られたのか、家庭による違いや狭い地域などではまた違っていたのかもしれない。

『備後神邊の郷土料理 うずみ』の中に「うずみ 武家の食説」があり、それには

勝成は備中、備後で各地の豪族の食客をしていたのでこの地方の産物、食生活などを熟知していても不思議ではない。その流浪生活の中から「うずめめし」を考え付いたのではないか

と書かれていて武家の食説としている。だが自分はこの勝成が考えたという説については根拠がはっきりしてなく納得しがたい。

また、この書には「うずみ 町人料理説」も書かれている。

江戸中期に会席料理が完成し物資の流通も活発化し町人の生活も派手になった。その結果変遷を繰り返してきた後、一つの料理に郷土色が加味され伝承の『うずみ』が出来上がった

という町人食の説がある。

もう一説には「主婦の生活の知恵から産まれた料理であるという説」で

祭りの前夜は大勢のお客が来る。主婦にとっては最も忙しく、夕食はもう出来るだけ簡単に済ませたいので、台所に残る野菜や庭を走り廻る鶏を〆て醤油の汁を作り、昼に炊いた残りご飯を載せ適当に食べさせた

という生活の知恵の結果説がある。

これだと汁は人数分の増減自由だし、器も一つですむし、後片づけの手間が少ないなど至極便利なうずめ飯が生まれたのだ、と云う説

であるが、ただこれは「多くの人を接待する饗応料理の手間を省くこと」がその理由だが、自分としてはこの説に関心が高いのは、農村地域でも食べられていたことから農民にとっても便利であったに違いないと思うからである。祭りの日の「ハレの食事」として御馳走を、また農繁期の手軽な料理・食事として周辺地域に波及していったのであろうと推測しているからである。『歴遊ひよしだい』(日吉台学区ふれあい事業推進委員会)の中にも

吉田在住の人からは季節の旬のもの里芋、松茸等を入れた祭りの日の何よりのご馳走であった

とあり祭りの日のご馳走だと書かれている。『ふるさと文学さんぽ広島』(大和書房)の中に

うずみとは島根から中国山脈を越え広島に出てきた石見、あるいは出雲文化の流れの一つと考えられ………広島に伝わった中国山越えの文化は、さらに瀬戸内に広がっていくようだ………その中継点は広島北部にある三次である。………さきにあげたうずみが、島根県西部から三次を経て、瀬戸内側の福山に伝わったのも当然だとかんがえられる。上下川の出発点上下町でもうずみが食べられていた。ここでは農作業に野菜を主としたうずみをもって田畑に行ったようでうずみを鉢ごと入れる容器もあるようだ

と述べているが、島根県のうずみに関しては何も書かれていないし、出典の資料についても挙げていないので内容が分からなく何とも判断のしようがない。

『聞き書き 広島の食事』(農文協)には「県内を6地域に区分し、それぞれ味を伝える」とあり、地域ごとの伝統食事や祝い事の食事が詳細に書かれているのに「うずみ」については全く記述がされていない。これはなぜなのか?不思議である。

今回「福山うずみフェスタ」でなつかしいうずみが試食できたことはうれしかったし、福山の郷土料理と言われるうずみが「食の文化を継承」するイベントとして開催されたことは喜ばしいことだと思っている。そうしたことで「続・うずみ」を再度書いてみました。みなさんのご意見がいただければ幸いです。
うずみ

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