2013年04月01日

山名理興出自について(理興は石見守護家「彦次郎」か?)

備陽史探訪:171号」より

木下 和司

研究余話

一昨年、『山城志』及び『芸備地方史研究』に山名理興の出自に関する論文を発表した(①)。この中で山名理興は大永八(一五二八)年五月に山名氏の本拠地・但馬から備後へ下向した「山名彦次郎」という人物であることを論証した。しかし、この時は「彦次郎」の身分を但馬山名氏惣領・祐豊に近しい人物としか記述していなかった。前述の論文作成段階で、「彦次郎」の出自に関して、もう少し詳しい推論を持っていたが、一次史料による裏付けを欠いていたために、論文には記述しなかった。昨年末ころからメール等で山名理興の出自について田口会長と議論をする機会があり、理興の出自に関して私の推定を纏めておくために、本稿を出筆することとした。但し、この推定は、間接的な史料からの推論であり、一次史料による直接的な裏付けを欠いている。このため、本稿のタイトルにも書いたように「研究余話」として纏めている。

田口会長は、太陽新聞等に発表されているように、山名理興の出自を伯耆山名氏、若しくは、備後に土着していた山名氏の一族と考えられている(②)。伯耆山名氏としては、天文年間の前半に現れる山名豊興の一族と推論されている。但し、一次史料での裏付けは、私と同様に現状では困難と考えられている。これに対して、私の推論では、山名理興の出自を石見の守護職を保持した但馬山名氏の庶子家と位置付けている。その根拠を以下に述べる。

『尊卑分脈』や『但馬山名家譜』に残されている山名氏一族の実名を眺めてみると、何種類かの通字が存在することが分る(図1参照)。一番有名な通字は、山名持豊(法名。宗全)以来、但馬山名氏惣領の通字となる「豊」である。備後に所縁の深い人物では、「政豊」「是豊邑 「致菫里」「加換菫里」「計晰菫里」「祐豊」の名前を挙げることができる。また、「熙」や「義」も通字となっていることが分る(③)。ここで、少数ではあるが山名氏一族の中で「理」を通字の一つとしている一族が確認される。それが石見・美作の守護家となった山名義理(よしまさ)の系統である(以後、この系統を便宜的に石見守護家と称す)。この系統には、「義理」「時理」「政理(まさただ)」という三名の実名に「理」を用いる人物が確認される。

この中で「政理」については、一般の系図には現れない。しかし、『親元日記』文明十(一四七八)年九月廿五日の条に、「一 山名與次郎殿御字政理、出御自筆、」とあって、将軍。足利義政の偏諱を受けたことが分る(④)。また、文明十一年から同十四年の間に大内政弘の重臣・陶弘護が益田貞兼宛てに発給した書状にもその名が認められる。以下に全文を引用する。

○ 陶弘護書状(⑤)

就去年以来山名与次郎殿に被仰候之儀、自屋形懇被申候、仍神代左馬允書状、為御被見進之候、此條又巨細申吉田上野介方候、恐々謹言、
  五月八日    弘護(花押)
   益田治部少輔殿

【読下し】

去年以来山名与次郎(政理)殿に仰せられ候の儀に就いて、屋形(大内政弘)より懇ろに申され候、仍って神代左馬允書状、御被見のため之を進め候、此條、又巨細吉田上野介方に申し候、恐々謹言、

この書状は、石見の国人である益田貞兼が山名政理を通じて大内氏に依頼したことへの返事であり、政理は石見国人と大内氏の間を繋ぐ立場にあったことが分る。山名氏一族で将軍の偏諱を受けて、石見国の政治に関っていることから、政理も石見守護家に属した人物と推測される(⑥)。年代的に考えると図1に見える政清の兄弟、又は、子息と思われる。

山名氏の一族である石見守護家は、応仁・文明の乱の主役である山名宗全と大内政弘、細川勝元との関係を考える際に非常に興味深い家系である。図1に見えるように山名政清の父・教清は、山名熙貴を養子としている。熙貴は足利義教の近臣であり、嘉吉の乱に際して討死している。熙貴には二人の娘がおり、この二人は熙貴の養父・教清によって養育されていたが、後に山名宗全の養女となっている。宗全は、この二人を大内教弘と細川勝元に嫁がせている(⑦)。教弘に嫁いだ女性は、政弘の母となっている。つまり、応仁の乱の主役が、石見守護・山名教清の養女との婚姻関係で繋がるのである。石見守護家は、地理的な関係からも大内氏に近く、山名政理の室は大内政弘の娘であった(⑧)。

以上、述べてきたように、石見守護家は通字の一つとして「理」の字を用い、大内氏に近い一族であったことが分る。また、山名惣領家とも良好な関係を持っていた家系である(⑨)。

私は、大永八(一五二八)年に但馬から備後に下向した「山名彦次郎」の実名が「理興」であったと推定している。大永六年まで尼子氏と同盟関係にあった山名氏惣領家は、尼子氏が山名氏庶子家の分国である因幡・伯耆を侵略したことに反発して、尼子氏との手切れを選択する。そして山名氏は大内氏と同盟関係を結ぶことになる。この同盟の下に、尼子氏との対立の焦点となっていた備後の戦線を立直すために、備後に下向した人物が山名彦次郎であったことになる(⑩)。彦次郎は山名氏惣領家との関係が良好な山名一族であり、且つ、大内氏とも近い家系であったはずである。石見守護家は、この条件を満たしており、更に実名の通字に「理」の字を用いることから、彦次郎=理興であったと推定しているのである。年代的に考えると、理興は政理の孫の世代に相当すると思われる(⑪)。

山名彦次郎=理興が、石見守護家の出自であると推測されるもう一つの根拠は、石見守護家の所領が備後国安那郡に存在したことである。根拠となる史料を以下に示す。

○ 将軍足利義政袖判宛行状(⑫)

    (足利義政)ノ
    (花押)
備後国安那郡山名兵部少輔同親類被官入以下跡事、所充行細川下野守教春也、早守先例可致沙汰之状如件、
 応仁二年五月六日

【読下し】

備後国安那郡山名兵部少輔(政清)同被官入以下跡の事、充行う所細川下野守教春也、早く先例を守り沙汰致すべくの状、件の如し、

応仁二(一四六八)年、惣領・山名宗全に従って西軍に属していた山名政清とその一族の所領を闕所として、足利義政が東軍の細川教春に与えた御教書である。応仁の乱時の備後の情勢を考慮すると実行性があったかどうか不明であるが、石見守護家の所領が安那郡にあったことは明らかとなる。この石見守護家の所領は、理興の支配領域を考慮すると、神辺付近にあった可能性が高いと思われる(⑬)。

以上述べてきたように、石見守護家は、大永六年まで敵対関係にあった山名氏と大内氏の間を取り持つのに相応しい家系であり、通字の一つとして山名理興に繋がる「理」の字を用いる家系でもある。更に、理興が本拠地とした安那郡神辺に所領を有していることが確認できる。間接的ながら、山名理興の出自を石見守護家とすることに十分な論拠になるのではと考えている。しかしながら、この推論を裏付ける一次史料は見付けられていない。最近も地域史の史料集や奉公衆がらみの論文を調査しているが、『甲山町史』や『東京大学史料編纂所紀要』等で新しい史料を見付けることが出来ている(⑭)。今後、山名氏関係史料の中で「彦次郎」と「理興」を繋ぐ一次史料を見出せればと考えている。
図1山名惣領家及び石見守護家略系図

 

【補注】
①拙稿「備後の大永~天文年間前期の戦国史を見直す」(『山城志第二十集』)。「大永七年九月の備後国衆和談と山名理興」(『芸備地方史研究』二七四号、二七五・二七六号)。
②田口義之氏「八尾山城と山名氏(4)」、「八尾山城と山名氏(5)」「八尾山城と山名氏(6)」(太陽新聞・新備後今昔物語)
③「熙」を実名に持つ人物としては熙貴、熙高、義熙等が認められ、「義」を実名に持つ人物としては義理、義清、義量等の人物が認められる。
④『大日本史料』第八編之十
⑤『益田家文書』六一七号
⑥政理以前の石見守護家の惣領は、教清、政清と足利義教、足利義政の偏諱を受けている。
⑦久留島典子氏「応仁文明の乱と益田氏―史料編纂所所蔵益田家文書中の差出不明仮名書状の考察―」(『東大史料編纂所研究紀要17号』)の第三項・大内政弘の母を参照。
⑧『山口家譜』(東大史料編纂所HP・所蔵資料目録データベース)による。大内氏の分流である常陸国牛久藩主山口氏が、明治政府に提出した大内氏・山口氏の系譜書である。大内教弘の四女は、山名中務少輔政理室となっている。
⑨岸田裕之氏「第六章 芸石国人領主連合の展開」(『大名領国の構成的展開』所収)。川岡勉氏「第八章之二 山名氏の同族連合体」(『山名宗全』)
⑩補注①
⑪山名政理は文明十年に元服したと考えられるから、生年は応仁十(一四六六)年頃となる。山名彦次郎は大永八年には元服しているから永正十(一五十三)年頃の生まれと推測される。成年に約五十年程度の隔たりがあるから理興は政理の孫の世代と推測される。
⑫細川文書(『広島県史 古代中世資料編V』所収)
⑬一次史料ではないが、『水野記』を見ると山名理興及び山名氏による社寺への寄進地は安那郡と深津郡に集中している。
⑭永正年間に室町幕府の行った大追物に現れる宮小次郎は宮実信であると推定されていたが、一次史料による裏付けは無かった。最近、「尊経閣文庫」に残されている「下津屋正秀ほか廿九名連署状」という史料を見付けた。この史料は明応の政変で没落した足利義材に供奉した奉公衆四番の国人達が四番番頭・畠山政近に宛てた連署状であるが、連署した国人の中に、宮実信の書名があり、その仮名が小次郎であることが確認できた。これにより、宮小次郎=宮実信であることが一次史料により裏付けられた。尚、「下津屋正秀ほか廿九名連署状」は、羽田聡氏が著した「足利義材の西国廻りと吉見氏―一通の連署状から・―」(『京都国立博物館学叢』二十五号所収)という論文に収められている。