1997年08月09日

産業考古学事始め―鞆鉄道の軌跡を歩く―

備陽史探訪:78号」より

田口 義之

昨今、「産業遺跡」の保存問題が世間を賑わせている。一時代前だと、「遺跡」といえば、古代遺跡をさすものとばかり思っていたが、現在では、江戸時代はおろか、明治・大正のものまで史跡指定の対象となったり、考古学者によって発掘されている。

特に明治・大正期の「産業遺跡」は注目されている。現代の日本は、明治以来、西欧に追いつけ追い越せ主義で、資本主義経済を発達させてきた。その遺跡を調査研究し、保存しようと言うのだ。我々の父祖が実際に体験した世界を遺跡から見つめ直して見ようと言うのだから価値ある運動であろう。

さて、福山地方の産業遺跡の研究は大変遅れている。研究者がほとんどいないのだ。できれば会員の皆さんで明治・大正の工場跡や機械をご存じの方がいらっしゃれば教えて頂きたいのだが、ただ一つ、「鞆鉄道」の遺跡だけは産『業考古』【産業考古学界刊】にも取り上げられ、私もその跡を辿ったことがある。

鞆鉄道の起源は、明治二九年四月の鞆「鉄道株式会社」にさかのぼる。しかし、日清・日露の戦役によって中断し、明治四三年九月、初代社長となった林半助などの努力によって政府の免許が下り、以後四年の歳月をかけて敷設されたものである。鞆・福山間の全線開通は大正三年四月一二日、以後昭和二九年に廃線になるまで「らっきょ」汽車として市民に親しまれていたのは、ご存じの通りである。

福山の三の丸駅を発車した汽車はまっすぐ地吹に向かって南下し、現在の光小学校のあたりで西に向きを変え芦田川を渡る。三の九駅の跡は現在の市営三の丸駐車場で、芦田川に架かっていた鉄橋の橋脚は昭和四〇年頃まで残っていた。線路は芦田川を渡ると土手沿いに南に走る。

「妙見駅」を過ぎると「水呑薬師駅」で、当時の駅舎は商店となって今でも残っている。産業考古学界の堤一郎氏にご教示頂いたことだが、この旧駅舎の手前には、小川を渡る鉄橋の痕跡がくっきりと残っている。

線路跡を訪ねて面白かったのは、その跡が現在でも道路や住宅の敷地として明瞭に残っていることである。水呑では線路跡が道路として使われているし、鞆の町に入る手前では、線路跡に細長い住宅が建ち並び、奇妙な景観をなしている。

「産業遺跡」の調査研究と保存は今後の課題の一つである。

今も残る水呑薬師の旧駅舎(福山市水呑町)

今も残る水呑薬師の旧駅舎(福山市水呑町)