2012年04月01日

郷愁の鐵路「消えた尾道鉄道」

備陽史探訪:165号」より

岡田 宏一郎

三成車庫のようす。

三成車庫のようす。

「タイムスリップ・レール・・・オノテツ」より

備後南部にもかつて軽便鉄道があった。福山には、ラッキョウ機関車として親しまれていた「鞆軽便鉄道」が走っていたし、隣の岡山県笠岡市には笠岡~井原を結ぶ「井笠鉄道」が営業していた。神辺~高屋間には、大正11年両備軽便鉄道高屋支線として開通していて「神高鉄道」の名前で運転されていた。

この神高鉄道は昭和五年に両備鉄道より井笠鉄道に譲渡され「井笠鉄道神辺線」として引き継がれている。小生は鉄道が好きなのでこれらの鉄道に乗りたかったが、機会がないまま廃止されてしまったのが残念でならない。

さて尾道には「尾道鉄道」が走っていたが昭和39年7月31日限りで廃止された。

この鉄道は旧型電車を走らせていたが、これに乗って1年半ほど通勤していた。それだけに懐かしく思い入れも深いものがあった。

尾道鉄道は国鉄尾道駅の北側ホームに接続していて電車が駅を出るとすぐ大きく右に曲がり尾道鉄道本社前を通って、東洋繊維の赤レンガエ場の敷地内を通過して栗原本通り西側の田圃をゆっくりと走って尾道高校下駅に到着する。そこからなだらかな丘陵が続く畑の間を登って行くと、最高地点近くに「三美園駅」があった。現在、この丘陵地帯は住宅団地になっていて当時の面影はまったく無くなっている。

ここから40パーミルの急勾配を下ると三成の集落に入る。ここに三成駅と電車の車庫がある。かつて電車の動力として使われていた火力発電所の象徴だった高い煙突があったのを印象深かく思い出す。

三成から尾道方面に帰って行く時はこの急勾配と古びた電車のため、突然に雨が降ってくると電車がスリップして動かなくなる時があった。そうした場面に出会うと車掌が降りて線路に砂を撒いていた。そしたら再び電車はゆっくりと動き出した。

現在、三成車庫跡は中国バスの営業所と車庫になっている。この先の木梨口駅から山際に沿って一段高くなっている軌道を国道に沿って進み、藤井川を渡って田んぼの中の築堤軌道を行き、国道を横切ると木頃本郷の小さな商店街に入る。そこが木頃本郷駅である。

木頃本郷駅の町並みと木頃本郷駅ホーム

木頃本郷駅の町並みと木頃本郷駅ホーム

「消えた鐵路 尾道鐵道」より

ここで下車して駅裏の丘に建っている、まだ新しい校舎の中学校に通っていた。この次が石畦(いしぐろ)駅で、ここで終点となる。

以前は、ここ石畦から急勾配の軌道を登って行き、畑の駅を下った御調郡市村まで営業していたが、営業成績が思わしくない路線のため昭和32年に市~石畦間が廃止された。

実はこの先、石畦から畑まで急な軌道を登って行くと六ヶ所(市までは合計八ヶ所である)ものトンネルがあったが、赤レンガ造りの「4号トンネル」だけは今も当時のままで残されている。これは立派な近代化遺産である。畑駅から急な軌道を下って行くと「諸原」駅に着く。ここが珍しい「スイッチバック方式」のある駅であった。

そうでないと市から畑に向けて登って行けないのである。石畦から市までの軌道跡は国道184号線になっていて終点が「市駅」であった。

さて近代化遺産(産業考古学)に対する関心があるので、以前の会報に何か産業考古学に関した記事が掲載されていないかと探して見たら「会報復刻版2号」(第71~102号)の中にあった。田口会長が「産業考古学事始め 鞆鉄道の軌跡を歩く」と題した記事が見つかったので、もちろん興味を持って読んだ。そうしたことから小生も尾道鉄道に関した記事を書いて見ようという気になったのである。

ことわっておくが、鉄道に興味を持っていると言っても「鉄道おたく」や「鉄道マニア」などの「鉄ちゃん」ではないし「鉄撮」(鉄道写真をカメラで撮りまくる趣味)でもないのである。まあ強いて言えば、「鉄道紀行」が好きで鉄道旅情派と云う程度にすぎないのである。

だから「宮脇俊三」の鉄道紀行の本は好きでほとんど全部読んでいる。

少し前に尾道学研究会が「タイムスリップ。レール・・・オノテツ」と題した本を出版したら、鉄道ファンから好評だったということだった。この本を発刊する前に「オノテツの思ひ出」についての原稿を募集していたので、「オノテツで通勤した日々」と題した文を投稿した。投稿した人の多くは、北部の農村部から尾道方面に通勤・通学する人々が大部分であり、小生のように尾道駅から農村部に向う人は少ないため、珍しいということで採用されて掲載された。

ここから「尾道軽便鉄道」の歴史について簡単に書いて見ます。

軽便鉄道とは、明治43年に「軽便鉄道法」が公布され、この法律に従って敷設された鉄道であり「地元資本による少ない資金で鉄道を敷設することを可能にした法律」である。

翌年の明治44年には「軽便鉄道補助法」が公布され、これに基づいて「敷設した鉄道には一定期間、国から補助金を出して援助し、軽便鉄道の建設。運営を容易にしたもの」であった。したがって大正時代前半期には軽便鉄道設立が盛んに行われた。

軽便鉄道のレール軌間は762ミリ以上であることであったが、わが国の標準軌間の1067ミリに準じたものもあった。(それ以外には人が客車を押す「人車鉄道」や馬が客車を引く「馬車鉄道」もあったことも知って欲しい)

明治45年、尾道軽便鉄道は沿線となる尾道~市間の有力者たちが発起人となって設立計画が行われた。「尾道軽便鐵道株式会社設立迄ノ経過概要」によれば

尾道市ヲ起点トシ甲奴郡上下町ヲ終点トシ經便鐵道ヲ敷設シ漸次雲伯二通スル交通機關ヲ完成‥

とある。

当初は陰陽を結ぶ壮大な計画図であった。しかし実際には資金不足と不況によって甲奴郡上下町までは実現しなかったため、免許年切れで免許取り消しとなる。

大正三年八月に

免許状交附卜共ニエ事施行認可申請書ヲ大正三年八月十四日迄ニ差出スベキ指令アリ愛ニ於テ尾道市ニ三十名郡部ニ五十五名ノ創立委員を設け。・・・・尾道市長西村盆三郎氏ヲ創立委員長工・・・・

とある。のち(西村盆三郎氏は「創立委員ヲ辞退セラレ児玉喜三氏を委員長二推選セリ」とある)この委員の中に西原銀行の西原善平や第六十六国立銀行設立者の一人であった橋本吉兵衛を顧問としている。その他尾道の名士や沿線各地の有力者たちが名前を連ねている。

こうして「総株式貳萬四千株」の申込みを受けて会社が成立している。創立時の社長は橋本太吉であった。鉄道工事は大正十年四月より開始されたが、大正十年十二月の株主総会で電気軌道に変更すると決議している。

大正十四年十一月に西尾道駅と石畦間が開通したが、それより前の大正十二年四月に会社名を「尾道軽便鉄道」から「尾道鉄道」に変更し、電気軌道にしている。

電気軌道に変更した理由は「井原笠岡軽便鉄道(のち井笠鉄道)」や「鞆軽便鉄道」は蒸気機関車による762ミリ軌間でレール幅が狭く、輸送力不足と急勾配のために国鉄と同じ規格の狭軌1067ミリとし600Vの電気動力としたことによるものである。

停車場(駅)は、はじめ下の図のように少なかったが、のちに停車場を多く設けている。
尾道軽便鉄道の停車場

大正十五年四月二十八日に石畦~市間が開通し、昭和八年には「西尾道~御所橋(仮)~尾道駅」間まで繋がり開業している。こうして尾道~市(御調町)間が全線開通して国鉄尾道駅まで直通することになり通勤や通学が格段と便利になった。

鉄道廃止後は、「尾鉄バス」として営業していたが、府中市にあった「ニコニコバス」と合併して中国バスとなった。現在は岡山の両備バスの傘下に入り、現在も運行している。

【引用及び参考文献】 
「タイムスリップ・レール・・・オノテツ」(尾道学研究会)
「消えた鐵路 尾道鐵道」(前田六二)
「尾道市史」「鉄道廃線跡を歩くⅢ災宮脇俊三編著 JTBキャンブックス)
「鉄道廃線跡を歩くⅡ」(宮脇俊三編著JTBキャンブックス)
「鉄道廃線跡を歩く」(岡本憲之 JTBキャンブックス)
「失われた鉄道100選」(南正時淡交社)
「全国軽便鉄道」(岡本憲之 JTBキャンブックス)
「軽便鉄道時代」(岡本憲之 JTBキャンブックス)
「産業遺跡探訪」(玉置正美 古今書院)