三人の山内豊通(豊成・直通・豊通の実名比定を考える)

備陽史探訪:165号」より

木下 和司

―豊成、直通、豊通三代について―

昨年、備南の大永から天文年間前半の史料を精査して、山名理興の出自に関する論文「備後の大永~天文年間前半の戦国史を見直す」を『山城志』に発表した。この時、備南の戦国史をより深く理解するためには、応仁の乱以降の史料調査が不可欠であることを痛感した。そこで昨年末から応仁年間から永正年間頃までの史料調査を進めている。この過程で、戦国時代前期の山内氏惣領である豊成(初名は豊通)、直通、豊通の三代について、『山内首藤家文書』や『萩藩閥閲録』に現れる幼名、仮名、官途、受領の実名比定に問題があることに気付いた。今回は、『山内首藤家文書』を基本史料として、他の史料集(『萩藩閥閲録』、『広島県史 古代中世資料編』、『小早川家文書』等)に残る前記の山内氏三代の史料を加味しながら、この三代の実名比定について考えてみたい。

山内豊成は初名を「豊通」といい、管見に入った実名が確認される全ての史料に「豊通」と書かれている。但し、「備後山内首藤氏系図」には第八世・豊成と書かれている(①)。豊成は、文明十三(一四八一)年四月五日付で父・泰通から三度目の譲状を発給されていて、「新左衛門尉豊通」として現れる(②)。更に、延徳二(一四九〇)年十一月廿八日付「山内豊成證状」では、「大和守豊通」として現れる(③)。明応四(一四九五)年十一月に豊成は隠居して嫡子・直通に家督を譲っている(④)。明応四年以降、豊成に関する史料は確認されず、隠居後、すぐに亡くなったと推測される。ここで、問題となるのは、延徳二年から明応四年までの間、豊成について実名を確認できる史料が見当たらず、豊通が、いつ、なぜ「豊成」に改名したのかが分からないことである。

次に、山内直通については、大永五年まで直接に実名の「直通」を確認できる史料は確認できない(⑤)。文明十五(一四八三)年九月廿六日付「山内豊通(豊成)譲状」に「かう(幸)松」として現れるのが初見である(⑥)。続いて、明応元(一四九二)年十二月五日付「山名俊豊書状」に「次郎四郎」として現れ(⑦)、文明十五年から明応元年の間に元服したと考えられる。明応四年(一四九六)十一月、父・豊成の隠居に伴い山内氏惣領となっている。この時の史料でも「次郎四郎」の仮名で書かれていて実名の確認はとれない。

「直通」の実名が確認されないのに反して、直通の嫡子とされる「豊通」の実名は、早くから確認される。明応六年正月十四日付けで山内豊通が岸本兵庫助宛てに感状を発給している(⑧)。家臣宛てに感状を発給していることから、豊通は明応五年時点で既に惣領権の一部を父・直通から譲られていたと推測される。更に永正元年六月廿三日付「大楽寺尊慶契状写」に「山内豊通に申付られて」と見える。この契状は、高野山領三原郷の所領管理を大楽寺尊慶が小早川扶平に契約したものである(⑨)。この書状の受領時に書かれたと推測される註釈書きに「山内次郎四郎豊通」とあって、「豊通」の仮名が次郎四郎であったことが分る。永正四(一五〇六)年十二月、豊通は、山名致豊から大内義興を伴って上洛する足利義材の尾道に於ける宿舎を用意することを、備後国衆に伝達するように指示を受けている(⑩)。この時の豊通は「新左衛門尉」に任官していたことが確認される。大永二(一五二二)年正月十四日付で山内豊通が丑刁太郎左衛門尉に所領を宛行っており(⑪)、この頃まで「新左衛門尉豊通」が山内氏惣領として活動していることが分る。

しかし、大永五(一五二五)年十月四日付で山内直通が上山実広に所領の還付を認めており(⑫)、明応五年以降、全くその足跡を跡付けることが出来なかった直通が突然に惣領的な活動を開始し、以後、天文五(一五三六)年まで「上野介直通」が山内氏惣領として活動していることが確認される(⑬)。しかし、ここで問題となるのは、直通の嫡子である「次郎四郎豊通」と考えられる人物の活動が大永七年、八年に認められることである(⑭)。永正四年に豊通は「新左衛門尉」に任官していたはずであるのに、何らかの理由で大永七年には解官していたのであろうか。

この矛盾を解決するためには、第八世・豊通の豊成への改名の理由、第九世・直通の活動が明応五年から大永五年まで確認できない理由、そして第十世・豊通が永正四年には「新左衛門尉」の官途を持っていたのに、大永七年には「次郎四郎」という仮名で登場する理由、この三つの理由を合理的に説明する必要がある。この答えを導くヒントは『山内首藤家文書』の「備後山内首藤氏系図」にある。この系図によれば、第十世・豊通について「二郎四郎殿、壽齢微にして御代を保つこと短也」とある。つまり、第十世・豊通は短命であったために、その惣領としての時代は短かったと書かれている。これに対して、明応五年以降に登場する「次郎四郎豊通」は大永八年まで惣領としての活動が確認されるから、三十二年近く惣領の地位にあったことになる。これは、系図の言う「御代を保つこと短也」と大きく矛盾することになる。系図の伝承に誤りがあるのだろうか。この問題を解く鍵は、永正四(一五〇六)年に「新左衛門尉豊通」として現れる人物と大永七(一五二七)年に「次郎四郎豊通」として現れる人物は別人であると考えることである。

永正四年末に現れる「山内新左衛門尉豊通」は、備後守護山名致豊からの命令を備後国衆に対して伝える立場にあったことから、山内氏惣領であったと考えられる。つまり、山内氏惣領として第九世・豊通なる人物が存在していたことになる。この第九世・豊通は、「備後山内首藤氏系図」から考えて「山内直通」だったと考えられ、「直通」の初名も「豊通」だったことになる。「直通」の初名が「豊通」だったとすると、第八世・豊通が「豊成」に改名した理由が理解できるようになる。延徳二(一四九〇)年から明応元(一四九二)年の間に、第八世・豊通の嫡男・幸松丸が元服して第九世・豊通(後の「直通」)となったために、嫡子との区別をつけるために第八世・豊通は「豊成」と改名したのである。また、第九世・豊通(直通)は、嫡子が大永五年頃、元服して「次郎四郎豊通」となるに及んで「直通」と改名したと考えられるのである。つまり、文明年間から大永年間にかけて山内氏には、三人の「豊通」が存在したことになる。

なぜ、三代にも渡って山内氏に「豊通」という同名の惣領が誕生したのか。その理由は、備後守護・山名氏との関係にある。応仁。文明の乱以来、山名氏の備後統治において山内氏は必要欠くべからぎる存在となった。このため、山名氏惣領は山内氏の忠誠心を維持するために、所領給与や段銭免除の特権を次々と山内氏に与えている。もう一つの忠誠心維持の手段が山内氏惣領に対する偏諱の授与である。第八世・豊通の「豊」は山名持豊の偏諱であると考えられる。持豊の「持」は、足利義持の偏諱であるため、他人に与えることはできない。このため、山名氏の通字である「豊」を与えて、山内氏の通字「通」との組み合わせで、第八世・豊通が誕生したと考えられる。

第九世・豊通にあたる「直通」の元服時期は、延徳二年から明徳元年の間と推測されることから、備後守護・山名俊豊から偏諱を受けたと推定される。この時、俊豊の「俊」ではなく山名氏の通字「豊」を与えた理由は明確ではない(⑮)。山名氏惣領個人のIDである偏諱(実名の上の字)より、山名一族の通字である「豊」を偏諱として与える方が、受ける側にとっては大きな意味をもったと思われる。第九世・豊通の時代には、山名氏は俊豊と父・政豊の間で家督争いが行われていた。政豊側の備後における筆頭国人は和智豊廣であり、山名氏の通字「豊」を偏諱とて授けられている(⑩)。俊豊側も備後における筆頭国人である山内氏惣領に「豊」の字を与えたものと推測される。

第十世・豊通の元服時期は前述のように大永五年頃と考えられる。この時の山名氏惣領は山名誠豊であり、備後に於ける山内氏の重要な立場を考慮して山名氏の通字「豊」を偏諱として与えたと考えられる(⑫)。このように、山名氏の備後統治において山内氏の立場が非常に重要であったため、三代続けて山名氏の通字「豊」が与えられ、山内氏の通字「通」と組み合わされることで「豊通」という実名の惣領が三代続くことになったと考えられる。

山内氏惣領の幼名、仮名、官途と実名の対応は、『山内首藤家文書』の文書整理のやり方に大きく依存じている。「文徴 甲巻五」は熈通・時通・泰通の三代をまとめている。また、「文徴 甲巻六・七」は豊成を、「文徴 甲巻八」は直通・豊通の文書を纏めている。この文書の整理は、近世初頭に行われたと推測されるため、第八世・豊通(豊成)から第十世・豊通までは、幼名(幸松)・仮名(次郎四郎)・官途(新左衛門尉)が共通であるため、単純に仮名・実名・官途から実名を比定することには無理がある。例えば、「文徴 甲巻六」(豊成 上)第一一一号。文正三(一四六七)年二月三日付「山名持豊判物」の宛所となる「山内新左衛門尉」を大日本古文書の編者は「豊成(第八世・豊通)」に比定しているが、これは「泰通」の誤りだと思われる。その理由は、第八世・豊通は、長録四(一四五九)年に幸松丸という幼名で、父・泰通から惣領職を譲り受けている。この時、泰通は、官途を持たず次郎四郎の仮名を名乗っている。この僅かに八年後の文正三年に、第八世・豊通が「新左衛門尉」の官途を持ったとは考えられず、文正三年の「新左衛門尉」は父・泰通であると考えられる。第八世・豊通が「新左衛門尉」の官途を名乗るのは、文明十三(一四八一)年頃と推測される(⑬)。この時、父・泰通の官途は「上野介」である。同様の取違えは「文徴 甲巻八」で豊成と直通の間でもおきている。山内泰通・豊成・直通・豊通四代の幼名・仮名・実名・官途の推移を表1に示す。『山内首藤家文書』の実名比定とは異なるが、世代交代の状況が合理的に説明できていることが分かる。

以上のように、『山内首藤家文書』において幼名、仮名、官途から泰通・豊成・直通・豊通の実名を比定する場合、編者の比定に頼るのではなく、他の史料を含めて年代順に史料整理を行い、自らの手で合理的な実名比定を行う必要があると考えられる。このことは、『山内首藤家文書』だけでなく、他の史料集、『萩藩閥閲録』、『広島県史 資料編』を扱う場合も同様であり、単純に史料集の編者の見解を信じるのではなく、自らの判断で裏付けを取ることが重要であると思う。自ら裏付けをとることは、その史料に関する理解を深めることにも役立つと思われる。今後、もう少し詳しく応仁。文明の乱以降の備後の戦国史を理解するための努力を続けたいと考えている。

表1.山内氏四代の幼名・仮名・実名・官途推移

表1.山内氏四代の幼名・仮名・実名・官途推移

 

【補注】

①『山内首藤家文書』 五七〇号
②『山内首藤家文書』 一三二号
③『山内首藤家文書』 一五六号
④『山内首藤家文書』 一九二号
 『山内首藤家文書』 一七三号
⑤『萩藩閥閲録』巻四〇「上山惣左衛門書出」
⑥『山内首藤家文書』 一八一号
⑦『山内首藤家文書』 一九一号
⑧「芸備郡中士筋者書出」(『広島県史 資料V』)
⑨『小早川家文書之二』 二五九号
⑩『萩藩閥閲録遺漏』巻四ノ二「高須直衛書出」
 『萩藩閥閲録』 巻六七「高須惣左衛門書出」
⑪「児玉文書」(『広島県史 資料Ⅳ』)
⑫補注⑤参照
⑬『山内首藤家文書』 二〇八号
⑭『山内首藤家文書」 二〇四号
 『山内首藤家文書』 二〇五号
⑮山内首藤氏の初代は「山内首藤刑部丞俊通」であるから、山名俊豊の「俊」の字を偏諱として受けると、初代「俊通」と同名になる。このため、山内氏側が避けた可能性も考えられる。
山名俊豊が「俊」の偏諱を与えた例としては永正年間に現れる太田垣俊朝がいる(『萩藩閥閲録』巻八九「田総惣左衛門」等)。俊豊没落後の永正四年には、 扉峰翌は「胤朝」と改名している(同前)。

⑩「浄土寺文書」五五号(『広島県史 資料Ⅳ』)
⑫山名誠豊が備後守護であった期間は永正九年から大永八年までである。(『山内首藤家文書』一四六号、及び『実隆公記』大永八年二月廿六日の条を参照。)
また、大永七年頃、因幡守護となった山名氏一族は、誠豊の偏諱を受けて山名誠通と名乗っている。備後国衆は但馬山名氏惣領の命令を因幡守護から受ける場合があり(『萩藩閥閲録』巻八九「田総惣左衛門」)、第十世・山内豊通は因幡守護・誠通と同名になることを避けた可能性がある。
⑬補注②参照。

【追記】

本稿の脱稿後に、柴原直樹氏が「毛利氏の備後国進出と国人領主」(『史学研究二〇三号』1993年)の中で、永正年間に現れる「山内新左衛門尉」を「直通」に比定されていることを知った。柴原氏は論文の目的から外れるため、比定根拠は述べられていない。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b1b295ebbe0339b522ed3228544578b6-1024x804.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b1b295ebbe0339b522ed3228544578b6-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:165号」より 木下 和司 ―豊成、直通、豊通三代について― 昨年、備南の大永から天文年間前半の史料を精査して、山名理興の出自に関する論文「備後の大永~天文年間前半の戦国史を見直す」を『山城志』に発表した。この時、備南の戦国史をより深く理解するためには、応仁の乱以降の史料調査が不可欠であることを痛感した。そこで昨年末から応仁年間から永正年間頃までの史料調査を進めている。この過程で、戦国時代前期の山内氏惣領である豊成(初名は豊通)、直通、豊通の三代について、『山内首藤家文書』や『萩藩閥閲録』に現れる幼名、仮名、官途、受領の実名比定に問題があることに気付いた。今回は、『山内首藤家文書』を基本史料として、他の史料集(『萩藩閥閲録』、『広島県史 古代中世資料編』、『小早川家文書』等)に残る前記の山内氏三代の史料を加味しながら、この三代の実名比定について考えてみたい。 山内豊成は初名を「豊通」といい、管見に入った実名が確認される全ての史料に「豊通」と書かれている。但し、「備後山内首藤氏系図」には第八世・豊成と書かれている(①)。豊成は、文明十三(一四八一)年四月五日付で父・泰通から三度目の譲状を発給されていて、「新左衛門尉豊通」として現れる(②)。更に、延徳二(一四九〇)年十一月廿八日付「山内豊成證状」では、「大和守豊通」として現れる(③)。明応四(一四九五)年十一月に豊成は隠居して嫡子・直通に家督を譲っている(④)。明応四年以降、豊成に関する史料は確認されず、隠居後、すぐに亡くなったと推測される。ここで、問題となるのは、延徳二年から明応四年までの間、豊成について実名を確認できる史料が見当たらず、豊通が、いつ、なぜ「豊成」に改名したのかが分からないことである。 次に、山内直通については、大永五年まで直接に実名の「直通」を確認できる史料は確認できない(⑤)。文明十五(一四八三)年九月廿六日付「山内豊通(豊成)譲状」に「かう(幸)松」として現れるのが初見である(⑥)。続いて、明応元(一四九二)年十二月五日付「山名俊豊書状」に「次郎四郎」として現れ(⑦)、文明十五年から明応元年の間に元服したと考えられる。明応四年(一四九六)十一月、父・豊成の隠居に伴い山内氏惣領となっている。この時の史料でも「次郎四郎」の仮名で書かれていて実名の確認はとれない。 「直通」の実名が確認されないのに反して、直通の嫡子とされる「豊通」の実名は、早くから確認される。明応六年正月十四日付けで山内豊通が岸本兵庫助宛てに感状を発給している(⑧)。家臣宛てに感状を発給していることから、豊通は明応五年時点で既に惣領権の一部を父・直通から譲られていたと推測される。更に永正元年六月廿三日付「大楽寺尊慶契状写」に「山内豊通に申付られて」と見える。この契状は、高野山領三原郷の所領管理を大楽寺尊慶が小早川扶平に契約したものである(⑨)。この書状の受領時に書かれたと推測される註釈書きに「山内次郎四郎豊通」とあって、「豊通」の仮名が次郎四郎であったことが分る。永正四(一五〇六)年十二月、豊通は、山名致豊から大内義興を伴って上洛する足利義材の尾道に於ける宿舎を用意することを、備後国衆に伝達するように指示を受けている(⑩)。この時の豊通は「新左衛門尉」に任官していたことが確認される。大永二(一五二二)年正月十四日付で山内豊通が丑刁太郎左衛門尉に所領を宛行っており(⑪)、この頃まで「新左衛門尉豊通」が山内氏惣領として活動していることが分る。 しかし、大永五(一五二五)年十月四日付で山内直通が上山実広に所領の還付を認めており(⑫)、明応五年以降、全くその足跡を跡付けることが出来なかった直通が突然に惣領的な活動を開始し、以後、天文五(一五三六)年まで「上野介直通」が山内氏惣領として活動していることが確認される(⑬)。しかし、ここで問題となるのは、直通の嫡子である「次郎四郎豊通」と考えられる人物の活動が大永七年、八年に認められることである(⑭)。永正四年に豊通は「新左衛門尉」に任官していたはずであるのに、何らかの理由で大永七年には解官していたのであろうか。 この矛盾を解決するためには、第八世・豊通の豊成への改名の理由、第九世・直通の活動が明応五年から大永五年まで確認できない理由、そして第十世・豊通が永正四年には「新左衛門尉」の官途を持っていたのに、大永七年には「次郎四郎」という仮名で登場する理由、この三つの理由を合理的に説明する必要がある。この答えを導くヒントは『山内首藤家文書』の「備後山内首藤氏系図」にある。この系図によれば、第十世・豊通について「二郎四郎殿、壽齢微にして御代を保つこと短也」とある。つまり、第十世・豊通は短命であったために、その惣領としての時代は短かったと書かれている。これに対して、明応五年以降に登場する「次郎四郎豊通」は大永八年まで惣領としての活動が確認されるから、三十二年近く惣領の地位にあったことになる。これは、系図の言う「御代を保つこと短也」と大きく矛盾することになる。系図の伝承に誤りがあるのだろうか。この問題を解く鍵は、永正四(一五〇六)年に「新左衛門尉豊通」として現れる人物と大永七(一五二七)年に「次郎四郎豊通」として現れる人物は別人であると考えることである。 永正四年末に現れる「山内新左衛門尉豊通」は、備後守護山名致豊からの命令を備後国衆に対して伝える立場にあったことから、山内氏惣領であったと考えられる。つまり、山内氏惣領として第九世・豊通なる人物が存在していたことになる。この第九世・豊通は、「備後山内首藤氏系図」から考えて「山内直通」だったと考えられ、「直通」の初名も「豊通」だったことになる。「直通」の初名が「豊通」だったとすると、第八世・豊通が「豊成」に改名した理由が理解できるようになる。延徳二(一四九〇)年から明応元(一四九二)年の間に、第八世・豊通の嫡男・幸松丸が元服して第九世・豊通(後の「直通」)となったために、嫡子との区別をつけるために第八世・豊通は「豊成」と改名したのである。また、第九世・豊通(直通)は、嫡子が大永五年頃、元服して「次郎四郎豊通」となるに及んで「直通」と改名したと考えられるのである。つまり、文明年間から大永年間にかけて山内氏には、三人の「豊通」が存在したことになる。 なぜ、三代にも渡って山内氏に「豊通」という同名の惣領が誕生したのか。その理由は、備後守護・山名氏との関係にある。応仁。文明の乱以来、山名氏の備後統治において山内氏は必要欠くべからぎる存在となった。このため、山名氏惣領は山内氏の忠誠心を維持するために、所領給与や段銭免除の特権を次々と山内氏に与えている。もう一つの忠誠心維持の手段が山内氏惣領に対する偏諱の授与である。第八世・豊通の「豊」は山名持豊の偏諱であると考えられる。持豊の「持」は、足利義持の偏諱であるため、他人に与えることはできない。このため、山名氏の通字である「豊」を与えて、山内氏の通字「通」との組み合わせで、第八世・豊通が誕生したと考えられる。 第九世・豊通にあたる「直通」の元服時期は、延徳二年から明徳元年の間と推測されることから、備後守護・山名俊豊から偏諱を受けたと推定される。この時、俊豊の「俊」ではなく山名氏の通字「豊」を与えた理由は明確ではない(⑮)。山名氏惣領個人のIDである偏諱(実名の上の字)より、山名一族の通字である「豊」を偏諱として与える方が、受ける側にとっては大きな意味をもったと思われる。第九世・豊通の時代には、山名氏は俊豊と父・政豊の間で家督争いが行われていた。政豊側の備後における筆頭国人は和智豊廣であり、山名氏の通字「豊」を偏諱とて授けられている(⑩)。俊豊側も備後における筆頭国人である山内氏惣領に「豊」の字を与えたものと推測される。 第十世・豊通の元服時期は前述のように大永五年頃と考えられる。この時の山名氏惣領は山名誠豊であり、備後に於ける山内氏の重要な立場を考慮して山名氏の通字「豊」を偏諱として与えたと考えられる(⑫)。このように、山名氏の備後統治において山内氏の立場が非常に重要であったため、三代続けて山名氏の通字「豊」が与えられ、山内氏の通字「通」と組み合わされることで「豊通」という実名の惣領が三代続くことになったと考えられる。 山内氏惣領の幼名、仮名、官途と実名の対応は、『山内首藤家文書』の文書整理のやり方に大きく依存じている。「文徴 甲巻五」は熈通・時通・泰通の三代をまとめている。また、「文徴 甲巻六・七」は豊成を、「文徴 甲巻八」は直通・豊通の文書を纏めている。この文書の整理は、近世初頭に行われたと推測されるため、第八世・豊通(豊成)から第十世・豊通までは、幼名(幸松)・仮名(次郎四郎)・官途(新左衛門尉)が共通であるため、単純に仮名・実名・官途から実名を比定することには無理がある。例えば、「文徴 甲巻六」(豊成 上)第一一一号。文正三(一四六七)年二月三日付「山名持豊判物」の宛所となる「山内新左衛門尉」を大日本古文書の編者は「豊成(第八世・豊通)」に比定しているが、これは「泰通」の誤りだと思われる。その理由は、第八世・豊通は、長録四(一四五九)年に幸松丸という幼名で、父・泰通から惣領職を譲り受けている。この時、泰通は、官途を持たず次郎四郎の仮名を名乗っている。この僅かに八年後の文正三年に、第八世・豊通が「新左衛門尉」の官途を持ったとは考えられず、文正三年の「新左衛門尉」は父・泰通であると考えられる。第八世・豊通が「新左衛門尉」の官途を名乗るのは、文明十三(一四八一)年頃と推測される(⑬)。この時、父・泰通の官途は「上野介」である。同様の取違えは「文徴 甲巻八」で豊成と直通の間でもおきている。山内泰通・豊成・直通・豊通四代の幼名・仮名・実名・官途の推移を表1に示す。『山内首藤家文書』の実名比定とは異なるが、世代交代の状況が合理的に説明できていることが分かる。 以上のように、『山内首藤家文書』において幼名、仮名、官途から泰通・豊成・直通・豊通の実名を比定する場合、編者の比定に頼るのではなく、他の史料を含めて年代順に史料整理を行い、自らの手で合理的な実名比定を行う必要があると考えられる。このことは、『山内首藤家文書』だけでなく、他の史料集、『萩藩閥閲録』、『広島県史 資料編』を扱う場合も同様であり、単純に史料集の編者の見解を信じるのではなく、自らの判断で裏付けを取ることが重要であると思う。自ら裏付けをとることは、その史料に関する理解を深めることにも役立つと思われる。今後、もう少し詳しく応仁。文明の乱以降の備後の戦国史を理解するための努力を続けたいと考えている。 表1.山内氏四代の幼名・仮名・実名・官途推移   【補注】 ①『山内首藤家文書』 五七〇号 ②『山内首藤家文書』 一三二号 ③『山内首藤家文書』 一五六号 ④『山内首藤家文書』 一九二号  『山内首藤家文書』 一七三号 ⑤『萩藩閥閲録』巻四〇「上山惣左衛門書出」 ⑥『山内首藤家文書』 一八一号 ⑦『山内首藤家文書』 一九一号 ⑧「芸備郡中士筋者書出」(『広島県史 資料V』) ⑨『小早川家文書之二』 二五九号 ⑩『萩藩閥閲録遺漏』巻四ノ二「高須直衛書出」  『萩藩閥閲録』 巻六七「高須惣左衛門書出」 ⑪「児玉文書」(『広島県史 資料Ⅳ』) ⑫補注⑤参照 ⑬『山内首藤家文書』 二〇八号 ⑭『山内首藤家文書」 二〇四号  『山内首藤家文書』 二〇五号 ⑮山内首藤氏の初代は「山内首藤刑部丞俊通」であるから、山名俊豊の「俊」の字を偏諱として受けると、初代「俊通」と同名になる。このため、山内氏側が避けた可能性も考えられる。 山名俊豊が「俊」の偏諱を与えた例としては永正年間に現れる太田垣俊朝がいる(『萩藩閥閲録』巻八九「田総惣左衛門」等)。俊豊没落後の永正四年には、 扉峰翌は「胤朝」と改名している(同前)。 ⑩「浄土寺文書」五五号(『広島県史 資料Ⅳ』) ⑫山名誠豊が備後守護であった期間は永正九年から大永八年までである。(『山内首藤家文書』一四六号、及び『実隆公記』大永八年二月廿六日の条を参照。) また、大永七年頃、因幡守護となった山名氏一族は、誠豊の偏諱を受けて山名誠通と名乗っている。備後国衆は但馬山名氏惣領の命令を因幡守護から受ける場合があり(『萩藩閥閲録』巻八九「田総惣左衛門」)、第十世・山内豊通は因幡守護・誠通と同名になることを避けた可能性がある。 ⑬補注②参照。 【追記】 本稿の脱稿後に、柴原直樹氏が「毛利氏の備後国進出と国人領主」(『史学研究二〇三号』1993年)の中で、永正年間に現れる「山内新左衛門尉」を「直通」に比定されていることを知った。柴原氏は論文の目的から外れるため、比定根拠は述べられていない。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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