2011年08月01日

久代宮氏の所領(一次史料に見る久代宮氏の領地について)

備陽史探訪:161号」より

田口 義之

私が郷土史、それも戦国時代の山城に興味を持つようになったのは、『西備名区』によるところが多い。中でも、四月例会でご案内した久代宮氏のくだりには心引かれた。

『西備名区』のこの部分は「久代記」をそのまま引用したものであった。同書の原本は不明だが、江戸時代の後期には広く流布していた。

今回、問題にしたいのは、久代宮氏の所領である。同氏は江戸時代の初めに断絶したため、家伝の史料を残していない。

「久代記」によると、同氏の所領は「久代宮の家広尚まで十一代繁栄し凡そ幕下十三万石ほどの食録」とあり、芸州藩の地誌「芸藩通志」にも「毛利家に属し、当郡(備後奴可郡)及び、備中哲多郡、伯者日野郡、出雲仁多郡を領す」とある。これらは、はなはだ漠然とした伝承だが、一次史料にも久代宮氏の所領を示したものが何点かある。

一、出雲国神門郡五百石

天正二十年三月二日付で佐波隆秀に与えられたもので「久代先給」とあるから久代宮氏から没収された土地である(萩藩閥閲録巻71)。

二、防州の内五百貫道前 内百貫久代殿、五十貫宍道殿

「吉川広家領地付立」(吉川家文書694)に見えるもので、これは毛利氏から直接与えられたものではなく、吉川氏から与えられたものか。

三、伯耆日野郡内の山名氏の所領

「萩藩閥閲録」巻29の日野家譜にあるように、久代宮景盛の次男景幸は日野山名氏の養子となって日野郡を領したとされる。が「山名摂津守殿、久代出で候て仕取候」(萩藩閥閲録巻55)とあるように、それは多分に実力で押領したものであった。

四、備中野部、八鳥

年不詳三月二十三日陶興房書状に「備後両宮並びに備中衆以下相動き、野部新城、八鳥両城切捕らえる由に候」(萩藩閥閲録巻124)とあるもので、久代宮氏は「両宮」の一方と考えられるから、これも同氏が備中哲多郡野部・八鳥一帯を領した証拠となる。大野部の四王寺には久代宮氏の修造を示す天文元年の棟札が存在したと言う(国郡志御用に付き郡辻書出帳奴可郡)。

五、備後奴可・神石郡

本領に当たるこの地域には、久代宮氏の領有を示す多くの史料が残っているが、同氏が毛利氏によって他国に移された後、その遺領を与えられた佐波・天野氏の知行高がかつての久代宮氏の所領の全貌を雄弁に物語っている。すなわち、久代宮氏の本拠西城大富山城には出雲から天野元珍が、支城の東城五品岳城には石見から佐波隆秀がそれぞれ入るが、その知行高は天野氏三二八三石余、佐波氏が四三六六石余で合計すると七六四九石となる(毛利家八カ国時代分限帳)。ほぼ久代宮氏の本領の大きさを示していると見て良いだろう。

惣国検地の結果、出雲・石見に移された後の久代宮氏の知行高も八カ国時代分限帳によって判明する。九九七石八斗八升四合、宮仁(次)左衛門(出雲大原・神門郡)、千三十二石七升六合、宮瀬兵衛(石見那賀郡)とあるのがそれで、次(仁)左衛門が広尚、瀬兵衛がその祖父景盛である。久代宮氏のライバルであった山内氏が備後の本領を維持し六七四六石余を確保しているのと良い対称だが、山内氏が毛利氏と極めて近い宍戸氏の姻戚であったのに対し、久代宮氏がそのような手づるを持たなかったことがこの結果を生んだのであろう。