2011年06月01日

福山上水道と井戸の謎(旧上水道残滓の思い出)

備陽史探訪:160号」より

田口 由実

夏が巡るたび、今も鮮明に思い出すのは、庭に咲くキリシマの花の白さ、井戸端で包丁を研ぐ祖父の姿。包丁研ぎは何も夏に限ったことではないが、井戸端で水遊びしながら、その姿を目に焼き付けたせいであろう。飲料用ではなかったが、スイカ冷やしに庭木の水撒きと、夏の記憶に井戸は切り離せない。

その井戸水の水源は如何なるものだったのか。夏が来るたび、疑間が膨らむ。

福山の城下町は、そのほとんどが、芦原を干拓した造成地であるのは、周知のことであろう。水野勝成は藩主となった晩年、福山藩の施政に心血注いだ。西国の鎮衛という任を負い、幕府の肝いりもあり、十万石としては破格の立派な城で、築城と同時に治水工事、水利工事、城下町造成も行われた。

町造りに最も重要なのは飲料水の確保であった。干拓地の上に形成された町なので、井戸には海水が混じる。芦田川の伏流水があったとしても、城下町どこでも取水できるというものでもない。町づくりには上水道の整備は重要な課題であった。

江戸にはすでに神田上水があり、水野勝成は、城下町の構想を練る時には城下町の給水状況をも考慮していたことであろう。

かくして、元和五年、日本の上水道史上、江戸神田上水に次ぐ上水道工事が着工された。

まず、芦田川を本庄村艮の鼻から引き入れ、天神山と妙徳寺山(現・福山八幡宮のある丘陵)の間を掘り抜いて流した。ここに芦田川の本流を流す予定だったが、元和六年の大洪水で、この計画は頓挫した。その後、上流の高崎に取入口を設け、芦田川と高屋川の合流地点から芦田川に平行して分流させ、本庄村二股で上井手と下井手に分け、下井手を蓮池へと導いた。ここから先年に掘り抜いた天神山と妙徳寺山の間を流し貯水池(蓮池)として、東西の武家屋敷に流した。

北部は、妙政寺前の取入口より、古吉津町を暗渠で東進し、布設した土管で各寺院や民家に給水した。妙政寺前の取水口は、今も確認することができる。
上水道取水口

一番初めの取入回は、蓮池からである。一本は、西町の武家屋敷を南下、城の南側をまわり、大手門前から神島町、奈良屋町、医者町、大工町、商町、新町、福徳町へとのびていく。もう一本は開渠で、護国神社と城との間を掘り切り、外堀北側へ。東側へは、暗渠で城束の商家地帯に配水した。縦横に石畳暗渠が走る。ところどころに貫洞が設けられ、そこから木管や土管で桶に引き、竹管で各戸に給水することができるようになっている。

勝成時代の旧上水道については詳細は不明であるが、城下町形成当時は、城北阿部神社東に取入口があったと推測されている。そこから上魚屋町で分水し、米屋町と府中町へ。さらに城南の町屋は西堀端を通って南下した水道が神島町、大工町へと流れた。主要幹線は両側を石垣にした溝で、石蓋で暗渠となっている。この水路に接する地帯が町人町として初期に成立されたとされる。その後、財力をもった町屋で土管・木管を通し、私設の水道を設置していったと思われる。

福山上水道は各戸への配水を考慮した上での計画だったのだろう。結局、明治、大正と近代水道ができるまで、営々と市民に飲料水を提供し続けた。もちろん、近代水道ができた後も、打ち水や用水として長く親しまれた。

我が実家は旧福徳町、安楽寺のすぐ側である。当然、干拓地であったわけで、今にして思えば、井戸があったのを不思議に思うべきだった。これはやはり、勝成が引いた上水道から屋敷内に引き入れた井戸だったのだろうか。物心ついた頃は、付近の道路はアスファルトで、その下に旧上水道が通っていたなど夢にも思わなかった。

井戸は四十年ほど前に埋めてしまった。祖父亡き今、明快な答えを出せる者はいない。

そして、今年も夏が来て、城下の旧上水道地図を眺めながら悩ましい時を過ごすのだろう。もう少し、自分に身近な歴史に注意を払っておけばよかったと、今さらながらの後悔である。郷土を探訪する時は、くれぐれも後悔することのないように、「なぜ」「謎」のアンテナをピンと張っておきたいものである。

参考図書『福山水道史』