2011年06月01日

山手杉原氏考(山手杉原氏はなぜ「山手」なのか?)

備陽史探訪:160号」より

木下 和司

ここ十年以上、杉原氏について調べていて、気になっていることがある。杉原為平を祖とする「山手杉原氏」の「山手」である。なぜ態々「山手」をつけるのであろうか。まず、最初に答えを述べると、中世後期の備南に二つの「杉原姓」を名乗る家系があり、両者を区別する必要があったと考えられる。「山手杉原氏」と区別するべき家系とは、深津郡杉原保に居住した「杉原総領家」であったことは言うまでもない。では、なぜ二つの杉原氏を区別する言葉が「山手」なのだろうか。

一昨年、県立歴史博物館から発表された胎蔵寺釈迦如来の胎内文書によれば、中世にこの釈迦如来を安置していた常興寺は、現在の福山城の地である常興寺山あったことになる(①)。従って、杉原保は福山城を含む本庄町・北本庄町・木之庄町一帯であったことになる。

先日、新幹線に乗るために福山駅のホームに立っていて気づいたことがある。新幹線のホームから眺めると南側は福山の市街地であるが、中世には野上町より南は海であったと考えられる。北側及び西側は本庄・木之庄、深津の平地である。そして、高い山が見えるのは北西の高増山の山塊だけである。この高増山の枝尾根に「山手杉原氏」の本城である銀山城がある。これが「山手」の由来ではないだろうか。つまり備後の国人・杉原氏の本拠地・杉原保から見て山手方(北西の高増山)に居住していた杉原氏、即ち「山手杉原氏」と考えられないだろうか。

筆者は、備後地域の生まれではないために、備後の地理。地籍関係に詳しくない。このため、地理・地籍に詳しい城郭部会の坂本部会長に尋ねてみた。坂本さんの話では、本庄町・木之庄町の北部は、現在は住宅街となっているが、中世には今より高い里山になっており、杉原保の山手というならば、こちらの方が良いのではと教えられた。また、沼隈郡「山手村」の地名の由来については、高増山の南麓にあったとされる津之郷の「山手」が由来ではないかとも示唆された。しかしながら、在地名を取って「木梨」・「高須」を名乗った信平の系統とは異なり、為平を家祖とするこの系統が、在地名である「山手」を名乗らず、近世まで「杉原」を名乗り続けた意味を考えるために、「山手杉原氏」の所領について考えてみることとした。

「山手杉原氏」の所領はどこであったのだろうか。「山手杉原氏」の家伝文書は『萩藩閥閲録』巻六八・杉原与三右衛門書であるが、これに所領に関する記述はない。唯一つ「山手杉原氏」の所領を伝える史料が『広島県史 2中世』の中に載せられている。それは、山手杉原氏の末裔である福岡県糟屋郡志免町の西念寺所蔵「椙原文書」に残された応永三十三年十二月廿三日付「室町将軍足利義持所領安堵状」である。この安堵状は山手杉原氏惣領・杉原光貞に宛てられたものであり、その中に興味深い文言がある。一つは、「備後国木梨庄地頭職半分」とあり、杉原信平・為平兄弟が木梨庄地頭職を折半したことに対応している(②)。もう一つ興味深い文言は、「杉原保内知行分残郷地頭職半分」とあることである。この安堵状により、信平・為平兄弟は杉原保内に所領を有していたことが分かる。しかし、「残郷」とは何を意味するのだろうか。これは、初めてこの安堵状を見たとき以来、筆者の頭を悩まし続けている間題であった。「残郷」とは、杉原総領家が取った残り物を兄弟二人で分けたことを指すのだろうか。とか、色々と考えてみたが、十年以上、答えを見出すことは出来なかった。

最近、一つ思いついたのは、「残郷」とは杉原保内にあった郷の名前ではないかということである。音読みで「ざん」郷、「残」に該当する音を当て嵌められる地名がないか、山手町近辺をあたってみたが、該当する地名はなさそうである。今日、『広島県の地名』という地名辞典をみていて、次の記述に興味を引かれた。

沼隈郡 津宇郷
もと「津」一字であったが、二字とするために「宇」の韻字を加えたとされる。

津宇郷は、現在の津之郷を中心として近世の早戸村(赤坂町早戸)・山手村(山手町)、向永谷村(駅家町向永谷)・大橋村(駅家町大橋)を指すとされる。つまり、「山手杉原氏」の居城があった山手村を含む地域であったことになる。「残郷」とは「津郷」であった可能性が高いと想定される。室町中期頃、「津宇郷」は「津郷」と呼ばれており、それが前述の「足利義持所領安堵状」に書かれていたのではないかと考えられるのである。そこで、「津」と「残」(3)備陽史探訪160号平成23年6月1日の草書体とを比較すると、大きく字体を崩すと、二つの文字は似ているのである(③)。原文書を見ていないので確証はないが、『広島県史2中世』に記載するために、活字体に改める時に、「津」を「残」に誤った可能性が高いと思う。この推論を補強するために、筆者は機会を見つけて、原文書を調査してみたいと考えている。

もう一つ、この推論を支持する状況証拠がある。それは、「郷分」という地名である。「杉原保内知行分津郷」の地頭職は半分に折半されている。木梨庄と同様に、一方は為平が所持し、他方は信平が所持したと考えられる。ここで「津郷」内の中世村落の配置は南から早戸村、その東北に津之郷村、山手村、北に高増山の山塊を越えて大橋村、その西に向永谷村がある。そして、山手村と大橋村の間で、高増山の枝尾根が芦田川に突き出た辺りに「郷分」がある。つまり、「郷分」とは「津郷」の折半に際して、「津郷」を二つに分けた場所を指すと推測されるのである。

推論ばかりを重ねて来たが、中世に深津郡に存在した「杉原保」は、芦田川を越えて沼隈郡及び芦田郡内に拡張され、「津郷」を含み込んだと考えられる(④)。更に言えば、芦田川の西側では中世の千田村(千田町千田)、坂田村(千田町坂田)、吉津村(北吉津町)、藪路村(千田町藪路)、楢津(奈良津町)、東側では杵磨村(芦田町杵磨)は、杉原氏の同族である大和氏・三重氏の所領であり(⑤)、現在の福山市の市街地から神辺町、声田町に至る芦田川の両岸は杉原氏一族が所領として抑えていたと考えられる。

最後に「山手杉原氏」がなぜ、杉原姓を名乗り続けたのかを考えてみたい。これは、全くの推論であるが、応永末年以降に、「山手杉原氏」と木梨氏は、「山手杉原氏」の有していた「木梨庄半分地頭職」と木梨氏の有していた「杉原保内津郷半分地頭職」を交換したのではないかと考えられるのである。杉原保内の「津郷」という大きな所領を擁したことから、信平系が応永末ころから所領名を採って「木梨氏」・「高須氏」を称しても、「山手杉原氏」は、「杉原姓」を名乗り続けたと考えられる。このために、杉原保の中心部を領有した杉原総領家との区別を付けるために、山手村に居城した杉原氏という意味で、「山手杉原氏」と称されたと考えられるのである。

【補注】

①「奉納 日本国備後州深津郡椙原保常興禅寺」とある。

②建武三年三月四日付杉原為平宛「足 利尊氏宛行状写」(「杉原文書」)建武三年五月廿日付杉原信平宛「足利尊氏宛行状写」(『県史 古代中世資料編V」「福山志料」所収文書)

③「残」と「津」 の草書体の類似性

残

津

④この点についても、坂本さんは杉原保が津郷内にあったのではと示唆されている。しかし、「山手」に居城した為平の系統が、「杉原」を名乗り続けたのは、「杉原保」を所領としていたためであろうから、「杉原保」が「津郷」を含んだと考えた方が良いように思う。

⑤「康正二年造内裏段銭并国役引付」「平朝臣姓 常陸介正度四男」亀系図纂要 第八』)『親元日記』文明十三年三月十七日之条(年欠)十二月廿日付麓廻等上使中宛「杉原盛重書状」(『県史古代中世資料編V』「萩藩譜録」所収)等。