2009年04月10日

牧野島兵庫守の墓(伝墓真木嶋玄蕃頭昭光墓に刻まれた碑文)

備陽史探訪:147号」より

小林 定市

昨年の会報百四十五号に、事務局長の藤井さんが「特別遺稿」として、神島町の村上稔氏(故人)の「西学区の史跡めぐり」を掲載され、村上さんの郷土に対する熱情を披瀝されました。

村上さんは文献だけでなく、町内の遺跡等も丹念に調査されていました。十年以上も昔だったと思いますが、城郭部会で神島城の探訪を行った際、村上さんから「神島城主の伝承がある真木嶋氏の墓があるので是非見て行って欲しい」と要請され、山上の郭から北束の急な斜面の小道を下り山麓に案内されました。

其処には東方に向いた一基の墓があり、中央に「牧野島兵庫」と彫られていました。牧野島と真木嶋の採用文字は異なっていても、神島城主真木嶋玄蕃頭昭光の在城説を裏付ける、有力な傍証を発見されたものだと感心しました。

牧野島兵庫の墓に関する研究論文は、何れ村上さんが適当な時期に発表されるであろうと期待していたのですが、残念なことに探訪の会に何も発表されないまま物故者となられました。

藤井さんの発表を機に、私も埋もれている村上さんの墓の調査研究を想い起こし、会員の皆様に報告する義務があると考えました。そこで昨年の暮れに神島城の調査に行きました。しかし、昔年村上さんと一緒に歩いた、東側の郭から下に降りる小道と墓はいくら探しても見付けることができませんでした。

小道と墓が見当たらないのは、移転されたのであろうと考えながら空しく城山を下り帰宅中、偶然地元の友人石井清人さんと出合い、本日の調査目的「村上さんが調査された牧野島氏の墓」の話しをしたところ、石井さんは村上さんをよく承知されており、その足で直ぐに村上さん宅に同行して頂いたのですが、奥さんも家族の方は留守でお逢いできませんでした。

上む無く帰途についた時、石井さんから「村上さん遺稿と墓は調べて後ほど連絡する」と約束して頂きました。程なくして石井さんより「遺稿と墓が見付かった」との電話があり、石井さんの案内で牧野島氏の墓を確認することが出来ました。

昨年暮れの調査で墓を見付けることができなかった事由は、昔年歩いた小路が雑木と竹の繁茂で自然の山に戻っていた為で、小路の痕跡は下草や落葉で完全に消え去っていました。

墓の場所は神島町三百三十四番地の裏道の西北角の西に有って、山裾の周辺地より一段と高く整地された土地に、墓は東方向きに建てられていました。

棹は楕円形で高さ七十六cm、幅は広いところで約三十五cm、厚さは楕円形で約二十cm、台の高さ約十cm、総高は八十六cm。彫られている碑の文字は、

正面

    若井林右衛門 仁儀
 牧野島兵庫守 神儀
    中川 良庵  仁儀

右横

          末□ 利一
     末孫建立 若井 真助
         柳井亮右衛門

神島町-牧野島兵庫守の墓

碑文を読む限り、牧野島兵庫守と真木嶋玄蕃頭昭光は別人と推定できます。その理由は官位相当表の寮の職名には、玄蕃は五番目に兵庫は十番目に記載された同官位であり、同一人物が玄蕃と兵庫の両官職を名乗ることは考え難く、職名を見る限り近親者と推測されます。

真木嶋昭光は天正十五年(一五八七)十月に、将軍足利義昭と共に大阪に上っており、一説に昭光には子息が居らなかった為養子を迎えたと伝えています。

真木嶋昭光の先祖は、宇治の槙嶋を本拠とした武士で、『宇治市史』に依ると、応仁元年(一四六七)七月領主である近衛房嗣が宇治に下向した際、五ヶ庄の沙汰人と共に「真木嶋子次郎」が挨拶に出向いている。

応仁二年(一四六八)四月八日の『後法興院記』には、

是日平等院鎮守離宮祭也 (中略)、神輿三基、次社官四人馬上、次槙長者布衣馬上次官槙嶋事也、

と書かれており、「槙長者=槙嶋氏=神官」という関係が想定されていて、この槙嶋氏が後年将軍の直臣団に加わった可能性も指摘されている。

『長享元年(一四八七)九月十二日常徳院(足利義尚)御動座営時在陣衆着等』の中に四番衆「雍州真木嶋六郎藤原光通」の名前がある。将軍拝謁の記録に、長禄二年から延徳二年の三十二年間の奉公衆名簿に真木嶋氏が記録されている。

元亀四年(一五七三)七月十八日、足利義昭は真木嶋昭光以下の兵三千七百と共に槇嶋城に楯籠った。織田信長配下の全軍に包囲猛攻を受け、方途を失った義昭は信長に降参し、二歳の子息義尋を人質に差出し下った。日本史では此の宇治槇嶋城の戦いを以って、室町幕府終焉の地としている。しかし、義昭は「一歩退いて再起の日」に期待を込め、信長包囲網の計画し幕府再興の活動を鞆で再開する。

形骸化していた将軍職ではあったが、義昭が将軍職の復権を果たした場合に備え朝廷でも配慮を巡らせていた節がある。将軍職復帰の望みが多少でも残されていた天正十三年の『位記』に、「征夷大将軍。従三位 権大納言臣 義昭」と記されており、天皇が叙位を記し授与した文書に義昭は天正十五年迄記載されていた。

公卿の名前を記載した『公卿補任』から、義昭の名前と「征夷大将軍」が消されるのは、天正十六年(一五八八)からで、義昭が備後から諸大名に書状を送っていた天正十五年迄は、将軍としての実権を掌握していなかったが、「従三位 源義昭 征夷大将軍。御在国」と記録されている。

福山地方では、足利氏は「鞆で起き鞆で亡びた」との俚諺が常識とされてきた。しかし、実際には義昭は天正十年(一五八三)秋頃に鞆を退去し、津之郷の下三嶋山(別称御殿山)に移っていた可能性が非常に高く、鞆幕府に関する通説は事実誤認の伝承であった。

義昭が備後に在国していた年数は十一年余りで、その間鞆幕府は六年余り、残りの約五年は津之郷に移座していた。鞆退去の事由は秀吉の毛利水軍勧降工作に依るものであった。

天正十年春、乃美(浦)盛勝と来島の村上通昌に、極短期間であるが能島の村上武吉までが毛利を離れ織田方に帰属したのである。毛利水軍王国最大の危機で、織田水軍に依る鞆攻撃の可能性が発生したのである。危機を察知した義昭は身の安全を図る目的から、鞆より北約十三km先の津之郷への移座を実現させたのである。

敵方の水軍から津之郷の御座所を防備するには、福山湾の最奥で芦田川の接点となっている神嶋城を防禦することが最も有効と考えられた。そこで義昭の侍大将真木嶋昭光が、津之郷の前衛城である神嶋城を守っていたのである。

最後に真木嶋昭光の居城、宇治槇嶋城跡の歴史「室町幕府の終焉の地」を語り継ごうとする市民運動の盛上りに就いて記す。

槇嶋の児童遊園に、槇嶋城跡を示す花商岩製の角柱碑があり、「高さ百三十八cm縦横二十cm」正面に「此の附近 槇嶋城跡」裏「宇治市」右側「昭和五十三年二月 宇治ライオンズクラブ建立」が三十一年前から建っている。

宇治市-横島城跡碑

宇治市-横島城跡碑

宇治市では、「槇嶋の歴史を学び、郷土に残る優れた文化遺産を保存・継承することにより、文化創造の基礎づくりを推進」との目的から、平成十六年八月、槇嶋城跡から北西約二百m先の槇嶋公園に、特別枠予算三百万円を確保し槇嶋城記念碑を建てている。御影石の基壇の上に、伊予青石の表裏を輪切り状に除去し、「正面下幅百九十cm奥行き三十二cm高さ百cm」の大きさに、正面に「槇嶋城記念碑」と横書きし、裏面に花尚岩をはめ込み、「古城を偲ぶ 槇嶋城顕彰会 平成十六年八月一日」縦書きしている。右横にはステンレス製の図板二枚を挿入した説明板を副え理解し易く工夫されている。

宇治市-横島城記念碑

宇治市-横島城記念碑

(室町幕府の終焉地顕彰会)