2008年10月10日

宗碩の『月村抜句』(中世福山文化不毛論の誤り)

備陽史探訪:144号」より

小林 定市

我が郷土、福山に関連する歴史の解明に取組んで二十有余年が経過した。そこで判明した福山歴史の問題点は、根も葉もない根拠の曖味な「俗説が多く妄信されている」多い事で、俗説が歴史解明の障害となっている場合が多いことが判明した。

例えば福山文学の始期について、(『福山市史』中巻)は

福山の文学は、福山築城の主勝成に始まるといわれている。

と、勝成の治績を強調した近世文学発展説が主張されてきた。この俗説により福山の中世文学は完全に否定され、郷土文学の出発点は近世初頭以降とされてきた。

この水野勝成を美化した俗説に対し、謂れの無い中世文化不毛論は誤りであると、勇気ある異議の申し立ては現在まで全く見当たらない。

郷土の先生方は記録が無いから、中世文化は存在しなかったと推定されたのであろうか。しかし、備後の東西の両国、即ち備中と安藝の中世文学史を究明すれば、自ずと福山の独善的な主張が誤りであることに気付かれた筈である。

中世文学は一般には上流階級の文化のように認識されているが、日本には万葉の昔から庶民文学が脈々と受継がれている。『万葉集』を紐解くと防人の和歌が多く載せられているように、文学は特定の上流階層だけの占有物では無かった。

前述の如く中世の福山文学は否定されて来たが、戦国時代福山地方で行われた連歌の記録が『月村抜句(げつそんのぬきく)』に保存されていた。

同書は「図書寮」に所蔵されてきた書籍で、この度名古屋大学附属中央図書館の好意と、福山中央図書館の尽力により電子複写本を先日入手する事が出来た。『月村抜句』に依り俗説の誤りが明白となった。

『月村抜句』の筆者、月村斎・宗碩は(連歌作者)文明六年(一四七四)生、天文二年(一五三三)四月十四日没。六十歳。尾張茨江の人。永正十三から十四年(一五一六・一七)にかけての旅は、中国地方から九州種子島にまで及んでいる。

宗碩は永正十三年四~六月頃、摂津から播磨・備前を通り、備中の吉備津宮で万句に一座する等して備後から安藝に下向している。備後に入りを果たすと、場所不詳の所と鞆の浦で下記の二句を記録している。

同書は自作の連歌を記録しているだけで、何れの場所でも同席した人達の連歌は一切記録していない。原文は読み難いので、最初に変体仮名文を載せ次に解読文を載せる。

備後尓て人の所望尓旅ねやハま川夜ま多ぬ夜時鳥

同鞆浦尓天三善縫殿助幸

宗興行尓

月ハ夏ひ可利盤雷乃千嶋哉

備後にて人の所望に旅ねやハまつ夜またぬ夜時鳥(ほととぎす)

同鞆浦にて三善縫殿助幸

宗興行に

月ハ夏ひかりわ雷の千嶋哉

永正十二年『月村抜句』鞆浦の条

永正十二年『月村抜句』鞆浦の条

宗碩筆 名古屋大学所蔵

鞆から安藝の国に入ると、野間掃部頭興勝の山城(呉市苗代町掃部城)に入り、同城から北方九kmの鳥籠山城主阿曽沼近江守の山家で一座した後周防國に入っている。

残念なことに備後での最初の連歌場所は不詳であるが、宗碩の名声を聞き付けた人達が、山陽道沿いの備後国の国分寺当りに参集したようである。次に鞆の浦の三善縫殿助幸宗邸での興行は、当然百韻連歌興行と推定して良さそうである。

『福山市史』の説と相違し『月村抜句』は、水野勝成が入部を果たす百年以上もの以前から、鞆の近辺に多くの連歌愛好者がいて、連歌が盛行していた事を裏付ける第一級の史料であった。