備陽史探訪:137号」より

小林 定市

一、寛文十三年の水害説

草戸千軒の水害と書けば、関係の諸先生方から出されている寛文十三年の水害説が確定し、「福山の常識」から今では「日本の常識」として広く世間に知られている。しかし、公開されていない水害記録も数多く、のほほんと「福山の常識」に安住して、水害関連資料の究明を放棄すると歴史の真相は遠のく計りである。

福山の地誌に見られる草戸千軒の水害は、宮原直倁(元禄十五年・一七〇二~安永五年。一七七六)が書いた『備陽六郡志』の寛文十三年(一六七三)の水害説だけが有名で大きく喧伝されてきた。しかし、草戸千軒の水害記録は『備陽六郡志』だけの独占記録ではなかった。

二、封印された延宝二年の水害

今から三十四年も以前の昭和四十八年に発刊された(『廣島県史』近世資料編I)の中に、異説の草戸千軒水害(「水野記」十三 草土村の条)が収録されていた。

筆者は水野家の旧家臣吉田秀元(承応二年・一六五三~享保十八年・一七三三)で、記録内容は

昔ハ草戸に千家なり、今に草戸セんけん(千軒)と云伝へり、其の後叉延宝二年(一六七四)の洪水にていよいよ民家も流れ地形も崩れる也

と書き、水害の年は寛文十三年とは書かず翌年の延宝二年と書いていた。

問題は寛文十三年と延宝二年の連年に亘る水害なのか、それとも何れか一方の年が正しいのか、資料の再検討が求められている。

この重要な延宝二年説が三十四年間も不問にされたのか、何故寛文十三年説が強調されなければならないのであろうか。福山では何故全ての情報が市民に開示されないのか疑問である。

草戸近隣の村では、寛文十三年に水害を蒙った村は皆無である。しかし、延宝二年に大水害を蒙り堤防が決壊した村が敷ヶ村ある。其の村は深津郡多治米村と川口村に手城村、松永湾の沼隈郡草深村新開等があった。前記の村は鍬下年季が明けた延宝九年に地詰が実施されている。

三、水野家の家臣吉田秀元

吉田秀元(知行三百五十石)は、水野家の家臣で宮原直倁より四十九年も早く誕生した武士である。草戸千軒の水害を宮原直倁より約六十年も早く記録していた。

両書の資料価値を古文書学により判定すると、水害後早く記録された「水野記」の方が確実性に優る事は確かである。古記録優先は「世界の常識」となっており、福山の常識とされてきた寛文十三年の水害説は世界の常識から逸脱している。

水害を書いた年を明確にする資料に欠けるが、浪人後の経過から享保初年(一七一六)頃が有力と推定する。特に注目しなければならない点は、吉田秀元は二十一歳の時水害を体験していたのである。

四、阿部家の家臣宮原直倁

宮原直倁は宇都宮で生まれ、九歳(宝永七年・一七一〇)の頃、主家阿部家の転封に伴い福山に来住したようである。宮原直倁が(『備陽六郡志』の草戸村の条)を書いた年は、同書の中に明和九年(一七七三)の稲荷大明神梵鐘縊死事件の記載が見られることから、少し後年に当る安永三年(一七七四)頃が妥当と考えられる。(注 水害発生から約百年経過した後に記録していた。)

前記の事由から草戸千軒水害は、宮原直倁が福山に来住する三十数年以前の出来事であると同時に、来住した当時の年齢は僅か十歳に達していない少年時代であった。また水害記録も吉田秀元より宮原直倁が約六十年程度遅れて書いている。

五、江戸時代初期の草戸千軒記録

水野勝成は領内のキリシタン対策としてか、寛永十六年(一六一九)寺社領高と由来を提出させた。その際草戸村の真言宗報恩寺(現在の法音寺)の住僧弘伏は、寺伝に続き農民の伝承を併せて記していた。

内容文は「古来草戸村在家七千軒これあり、大風雨の時大潮満ち寺院民屋悉く流れる」(『水野記』十三・沼隈郡寺社・草土村)と、寺伝の他に草戸千軒の伝承迄併せて報告していた。弘伏の資料から判明する事は。

①、草戸千軒は江戸時代の前期以前に、大潮と水害で消滅し農村に変貌していた。
②、草戸千軒の初見資料とされてきた『備陽六郡志』より、約百三十五年も以前から草戸千軒に酷似した用語が存在していた。
③、文意から繁栄時代は近世以前を想到させる内容であった。

六、七千軒記録の謎

寺社の旧記は郡単位に纏めて水野家に提出され、報恩寺の寺伝を吉田秀元が「水野記」に筆写していたのである。しかし、吉田秀元自筆の原本は既に失われ、伝えられたのは写本のみで原文は確認できない。

報恩寺の寺伝は筆写の際に誤写又は誤読があったらしく、「草戸村在家者千軒」と書かれた原書が、「草戸村在家七千軒」と誤写されたようである。「者」の字を崩し字にすると「七」に似た書体となり、はと読むべき者の字が七の字に誤写され七千軒に変化したらしい。

千軒の伝承地は各地に残存していても、七千軒の伝承地は全国に皆無であることから、七千軒は誤写に依る文字化けが原因であろう。千軒は繁栄している土地柄を意味しており、草戸の隣村水呑にも「水呑千軒丸法華」との千軒呼称がある。

日本の各地には多くの千軒伝称地があり、次に「千軒」を省略して名のみを記す。

  • 広島県 吉田・可部・宮(宮島)
  • 岡山県 福岡・鹿久居嶋・牛窓・瀬尾
  • 奈良県 今井・朝風・宇陀・松山
  • 滋賀県 筒井・藤川・こせち・藤江・舟木
  • 長野県 奈良井
  • 山梨県 黒川
  • 石川県 長浜
  • 鳥取県 南原
  • 島根県 安来
  • 山口県 関(下関)
  • 福岡県 津屋崎
  • 大分県 塩屋
  • 佐賀県 有田
  • 長崎県 白魚
  • 熊本県 山鹿
  • 鹿児島 志布志

等と全国に千軒地名は広がっている。

七、六郡志以前の草戸千軒

水野家の台所役人五兵衛の曾孫娘「りん」という女性が、寛保元年(一七四一)頃書いた『一本福山御伝記』という福山の町場伝承を纏めた本の中に、

草戸村の内に鷹の鳥(鷹取・現在の草戸町二・三丁目辺り)と申す所に水野様御代迄は川筋へ大船入り込み候(中略)草戸千軒と申すは、又々其の以前毛利福嶋侯の頃か

と書いている。草戸千軒を水野氏入部以前と聞書きした、町場の紫式部りんがいた。

『備陽六郡志』より十数年以前、難波鬼鏡が宝暦十年(一七六〇)頃書いた『備後太平記』の「鍛冶法華一乗の事」の一節に、草戸鍛冶に付いて

此の節草戸に千間(千軒)町ありしが彼の人、法華一乗秀次が所へ宿す

と創作物語を書いている。室町時代に三原の鍛冶正家の弟正宗が、同輩である草戸の法華一乗秀次宅に泊まった。その時の出来事にかこつけて草戸千軒を書いている。

前書のように、江戸時代中期の市井の人達は草戸千軒の伝承を聞書きしており、その年代に就いては二百年以上も昔の中世を想定していた。

八、封殺 大正期の草戸千軒研究

草戸千軒の発見と発掘に関する、専門家の『よみがえる中世8』に記載された公式見解は、昭和五年一月の芦田川改修作業に伴う出土遺物が発端であるとしている。同書は続いて草戸千軒研究最初の論文として、昭和十一年六月から『備後史談」に九回連載された、浜本鶴賓(一八八三~一九五〇)の「明王院と草戸中州の変遷」を嗜矢としている。

草戸村は元来沼隈郡に属した村で、昭和八年に福山市周辺の十ヶ村と一緒に福山市に合併された。そのため大正時代に進められた草戸千軒の研究は、専ら沼隈郡の主導の下に進められてきた。

郷土史家の浜本鶴賓は明治四十四年(一九一一)六月、沼隈郡内の九名の同志と相謀り、文化運動を推進する目的から先憂會を設立し、機関雑誌の『まこと』を発刊する事を決定。大正三年二月には早くも『まこと』誌に、「草戸千軒」と題して寛文十三年水害の経緯を書いている。

芦田川の大なる三角州は沼隈郡に属し、太平記にいう草意地とある、これなり。水野候入城後直ちに此の地方の築堤に従い旧流は埋立てゝ新開となす。寛文元年(一六六一)中西を本流となし、東は本庄・野上に千間の長堤を築き艮端に樋門をすえ、旧流は福山水道となし、以西の中州はこれを草戸に属し、所謂草戸千軒の町此処に栄えたり。四代水野勝種の延宝元年(寛文十三・一六七三)の夏森雨連日晴れず濁流奔馬の如く、終に本庄青木ヶ端の対岸決壊して、租額五百七十五石(誤り約二百五十八石)の肥沃の田と軒を並べたる千軒の町家を流失し去り、酸鼻を極めたりと言う。これより先福山藩家老上田玄蕃江戸の町人と語らい、川身を狭めて数千頃の沃田を為さんと図る。中山外記之に争うて曰く、私利を謀るも害必ず従わん、若し沃田のために河の流れ其の幅を失わば他日破堤の患至らんと。玄蕃聞かずして寛文十年功を竣り後三年にして此の災あり。人皆外記の達識に服すという。

と、早くも『備陽六郡志』と『福山御伝記』を読破し、水害史料の抽出文を発表している。

大正三年三月、『尚古』の五十二号に「備後国府址考」を寄稿、『水野記』の報恩寺弘伏の寺伝の一節を引用し、

水野記には七千軒とあり。何れにせよ斯かる大なる坊市が一朝芦田川の水に漂蕩して痕跡だも止めずなりしは事実なり

と結んでいる。『廣島県史』収録の『水野記』の原典は京都の瑞源院本で、浜本鶴賓が採用した『水野記」は福山市中に流布した本で、草戸千軒研究のため九十四年も以前に活用していた。翌年の大正三年三月には、沼隈郡の地図「沼隈郡明細全図」を発行している。表側の草戸村の欄に●千軒町址として、

稲荷沖(草戸稲荷)より鷹取辺にかけて千軒の町ありしが寛文十三年洪水に漂流す

と記載。また裏側の沼隈郡の地図面に芦田川を描き、草戸中洲に「千軒町址」と鷹取城を一緒に記入している。以後も浜本鶴賓は研鑽に励み、大正十二年に発行した『沼隈郡誌』には、研究を纏めた「草戸千軒町跡」を載せ、

草戸村沖新田に以前千軒の町屋ありしが一朝洪水の為に漂蕩する

との宮原直倁の説を批判し、

寛文十三年の大洪水は九州中国四国に渉れる大水害なるが、水野家の中世に属し、草戸新田築堤後幾許も無き時なれば此の時既に千軒の町屋あるべき理由なし

として、厳しい論断を下し時代錯誤と斬り捨てゝいる。断案として、

草戸住法華一乗は永享頃(一四二九~四〇)の人、草戸城主渡辺は応仁の頃(一四六七~六八)に住(中略)所謂千軒町家は戦国時代中葉以前にありて、何時かの洪水に流失せし

と、浜本鶴賓の慧眼は昭和の遺蹟発見説より七年も以前に、草戸千軒が繁栄した時代を室町時代と見抜いていた。

昭和初期から四十年代前半の頃まで、法音寺橋上流の堤防上から川底を見ると、水勢に抵抗して凛然と立つ木製の井戸側や杭頭は、水紋を左右に拡げつゝ上流に向かって前進しているかのように見えた。浜本鶴賓もきっと同じ光景を目にして遺蹟の解明に取り組んでいた事であろう。

浜本鶴賓が大正時代に取組んだ草戸千軒の基礎研究は、定かでないが諸先生から無視又は見逃されてきたのである。福山にはこのように知らされていない、江戸・大正期の記録は残されていたのである。しかし、戦後の先生方は先学の称揚顕彰を怠り、事実誤認の情報を全国に発信されたことは確かである。

昭和五年から始まった芦田川改修工事に、大正時代の浜本鶴賓の基礎研究が結実し、中世の墓石群(市重文)が出土した際の素早い対応は、大正研究の成果を物語るもので文化財の保全に重要な役割を果した。

沼限郡明細全図原寸大正三年作製
沼限郡明細全図原寸大正三年作製

九、寛文十三年説の資料考証

寛文十三年の草戸水害を裏付ける証拠とされてきたのが、備後国分寺に記録されている溺死者六十三霊の過去帳である。溺死者発生の原因は国分寺の裏山約二km上流にある、大原池の決壊に伴う濁流が原因といわれている。

大原池に行き周辺の山々を眺望すると、以外にも山並みは低く水の流入量も少なかったと想定され、豪雨に依る災害説に疑間が残る。もし堤防の欠陥に依る損壊であれば、雨量に関係なく決壊した可能性がある。

宮原直倁の『備陽六郡志」は立派な地誌である。しかし、草戸千軒水害の記事に関する限り、後世の伝承であるだけに資料価値は低く、鑑定の誤りから高く評価されてきた。

史家からは江戸時代の『備陽六郡志』『西備名区』『福山志料』三大地誌が揃って、寛文十三年水害説を採用しているから信用度は高いとする見方がある。しかし、『西備名区』と『福山志料』は『備陽六郡志』が原書で、資料は同根であり両書とも『水野記』を読み落としていた。

十、延宝二年説の資料検証

水野時代の農村では、新開開発・荒地の開墾・水害後の耕地復旧に伴い免租叉は貢租減免が認められ、七年の鍬下年季が実施されていた事が判明している。草戸村の水害年の割出しに鍬下年季を適用すると、地詰された年から鍬下年季を差引いた年が水害年との答えが出る。

鍬下年季を知る手掛かりとなるのが、草戸村の地詰帳(検地帳)である。検地は権力者が農民の田畑を測量・検査したものであるが、地詰とは大名が非公式に行った検地であることから地詰と呼称されてきた。

私は九年以前に草戸村の歴史を知る目的から、広島大学の付属図書館に行き延宝九年(一六八一)「備後國沼隈郡草戸村地詰帳」利用許可願を提出し、後日許可され地詰帳を解読し翌年『草戸の今昔』に発表した。

地詰帳の由来は従来使用していた検地帳が、延宝二年の水害で役立たなくなり七年の鍬下年季を経て、検地役人の榎本八郎兵衛と亀川九郎次郎により作成されていた。

内訳は

田 一一町七反余。畠 四十一町七反余。屋敷 一二反余。家敷四十二軒。高都合 百五十九石余京升

と記載されていた。草戸村の村高は、慶長検地で二百五十七石余であったが、八十年経過した延宝九年には水害が影響して、村高は百五十九石余と大きく激変していた。

百石近くも村高が減少した最大の理由は、福山城下が発展し西方沖だし新開開発が行われた結果、芦田川の水量を軽視してまで深津郡の西方沖出し野上堤防が建設され、川筋は西方に移され狭められた川水は水嵩増しとなり中洲の耕地を襲った。

『福山市史』の中巻の第八十六図に、「福山の新開開発図」として、草戸中洲に「寛文十年」と開発年代が載せられている。同図は草戸中洲の実情を無視した根拠の無い想像図で、寛文十年の新開開発説の遠因は、伝承の江戸者が開発した小規模開発(草戸町一丁目)を意図して作成された図らしく、延宝から元禄期の地詰帳を総合的に勘案すると、近世初頭の草戸中洲には百町歩に程近い耕地が存在していた。

広島大学には伝えられた延宝以後の地詰帳に依ると、元禄三年が六十六石余・五年が十三石余・十年が四石と次第に増加し、水野家が断絶する直前の村高は三百四十三石余、耕地面積は七十九町歩余迄と大幅に回復していたが、それでも慶長検地より十四石も不足していた。

延宝二年の水害は単に草戸村だけを襲った大水害ではなく、前記のように川口村・多治米村・手城村・草深村新開等も含め大水害に遭った。前記の新開の村々は、鍬下年季が明けた延宝九年に地詰が施行されており、その資料は福山市立図書館所蔵の「深津郡古検畝書出張」に地詰が写されており、水害の年と地詰の年は奇しくも草戸村と同年であった。被害に遭った新開村は何れも寛文年中に造成された新開で、軟弱な新堤防に植えられた竹や松は、根を張る暇も無く高潮と洪水に襲われ決壊したのである。水害に遭った村々は鍬下年季で救われ、延宝九年の地詰が新たな村造りの出発点となった。

草戸村及び草戸千軒関連の編年史料年表

1601 慶長六年 『福山領高辻村々帳』 草戸村 三百五十七石余
1639 寛永十六年 『水野記』 報恩寺弘伏。古来草戸村在家七(者)千軒
1673 寛文十三年 『備陽六郡志』 水押し入り、千軒の町家ともに押し流し
1674 延宝二年 『列K里予言己』 昔は草戸に千家なり、延宝二年の洪水説
1681 延宝九年 『草戸村地詰帳』 作付面積四十四町余・百五十九石余
1697 元禄十年 『草戸村地詰帳』 作付面積七十九町余。三百四十三石余
1716 享保初年頃 『水野記』 吉田秀元。延宝二年の洪水を記録
1741 寛保元年 『一本福山語伝記』 女性りん。草戸千軒と申すは毛利福嶋の頃か
1760 宝暦十年 『備後太平記』 室町時代法華一乗。草戸に千間(千軒)町有り
1774 安永三年頃 『備陽六郡志』 宮原直伽。寛文十三年の水害説を記録
1789 寛政元年頃 『西備名区』 馬屋原重帯。寛文十三年の水害説
1809 文化六年 『福山志料』 寛文十三年の水害説
1913 大正三年 『まこと』 浜本鶴賓。草戸千軒・寛文十三年水害説
1913 大正三年 『尚古』 52号 浜本鶴賓。備後国府址考・水野記には七千軒
1914 大正三年 『沼隈郡明細全図』 浜本鶴賓。地図・草戸中洲に「千軒町址」挿入
1923 大正十二年 『沼隈郡誌』 浜本鶴賓。草戸千軒町家は戦国時代中葉以前
1930 昭和五年 『よみがえる中世』 芦田川改修作業。埋れた遺蹟草戸千軒を発見
1936 昭和十一年 『備後史談』 「明王院と草戸中州の変遷」最初の草戸千軒研究論文説
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吉田秀元(知行三百五十石)は、水野家の家臣で宮原直倁より四十九年も早く誕生した武士である。草戸千軒の水害を宮原直倁より約六十年も早く記録していた。 両書の資料価値を古文書学により判定すると、水害後早く記録された「水野記」の方が確実性に優る事は確かである。古記録優先は「世界の常識」となっており、福山の常識とされてきた寛文十三年の水害説は世界の常識から逸脱している。 水害を書いた年を明確にする資料に欠けるが、浪人後の経過から享保初年(一七一六)頃が有力と推定する。特に注目しなければならない点は、吉田秀元は二十一歳の時水害を体験していたのである。 四、阿部家の家臣宮原直倁 宮原直倁は宇都宮で生まれ、九歳(宝永七年・一七一〇)の頃、主家阿部家の転封に伴い福山に来住したようである。宮原直倁が(『備陽六郡志』の草戸村の条)を書いた年は、同書の中に明和九年(一七七三)の稲荷大明神梵鐘縊死事件の記載が見られることから、少し後年に当る安永三年(一七七四)頃が妥当と考えられる。(注 水害発生から約百年経過した後に記録していた。) 前記の事由から草戸千軒水害は、宮原直倁が福山に来住する三十数年以前の出来事であると同時に、来住した当時の年齢は僅か十歳に達していない少年時代であった。また水害記録も吉田秀元より宮原直倁が約六十年程度遅れて書いている。 五、江戸時代初期の草戸千軒記録 水野勝成は領内のキリシタン対策としてか、寛永十六年(一六一九)寺社領高と由来を提出させた。その際草戸村の真言宗報恩寺(現在の法音寺)の住僧弘伏は、寺伝に続き農民の伝承を併せて記していた。 内容文は「古来草戸村在家七千軒これあり、大風雨の時大潮満ち寺院民屋悉く流れる」(『水野記』十三・沼隈郡寺社・草土村)と、寺伝の他に草戸千軒の伝承迄併せて報告していた。弘伏の資料から判明する事は。 ①、草戸千軒は江戸時代の前期以前に、大潮と水害で消滅し農村に変貌していた。 ②、草戸千軒の初見資料とされてきた『備陽六郡志』より、約百三十五年も以前から草戸千軒に酷似した用語が存在していた。 ③、文意から繁栄時代は近世以前を想到させる内容であった。 六、七千軒記録の謎 寺社の旧記は郡単位に纏めて水野家に提出され、報恩寺の寺伝を吉田秀元が「水野記」に筆写していたのである。しかし、吉田秀元自筆の原本は既に失われ、伝えられたのは写本のみで原文は確認できない。 報恩寺の寺伝は筆写の際に誤写又は誤読があったらしく、「草戸村在家者千軒」と書かれた原書が、「草戸村在家七千軒」と誤写されたようである。「者」の字を崩し字にすると「七」に似た書体となり、はと読むべき者の字が七の字に誤写され七千軒に変化したらしい。 千軒の伝承地は各地に残存していても、七千軒の伝承地は全国に皆無であることから、七千軒は誤写に依る文字化けが原因であろう。千軒は繁栄している土地柄を意味しており、草戸の隣村水呑にも「水呑千軒丸法華」との千軒呼称がある。 日本の各地には多くの千軒伝称地があり、次に「千軒」を省略して名のみを記す。 広島県 吉田・可部・宮(宮島) 岡山県 福岡・鹿久居嶋・牛窓・瀬尾 奈良県 今井・朝風・宇陀・松山 滋賀県 筒井・藤川・こせち・藤江・舟木 長野県 奈良井 山梨県 黒川 石川県 長浜 鳥取県 南原 島根県 安来 山口県 関(下関) 福岡県 津屋崎 大分県 塩屋 佐賀県 有田 長崎県 白魚 熊本県 山鹿 鹿児島 志布志 等と全国に千軒地名は広がっている。 七、六郡志以前の草戸千軒 水野家の台所役人五兵衛の曾孫娘「りん」という女性が、寛保元年(一七四一)頃書いた『一本福山御伝記』という福山の町場伝承を纏めた本の中に、 草戸村の内に鷹の鳥(鷹取・現在の草戸町二・三丁目辺り)と申す所に水野様御代迄は川筋へ大船入り込み候(中略)草戸千軒と申すは、又々其の以前毛利福嶋侯の頃か と書いている。草戸千軒を水野氏入部以前と聞書きした、町場の紫式部りんがいた。 『備陽六郡志』より十数年以前、難波鬼鏡が宝暦十年(一七六〇)頃書いた『備後太平記』の「鍛冶法華一乗の事」の一節に、草戸鍛冶に付いて 此の節草戸に千間(千軒)町ありしが彼の人、法華一乗秀次が所へ宿す と創作物語を書いている。室町時代に三原の鍛冶正家の弟正宗が、同輩である草戸の法華一乗秀次宅に泊まった。その時の出来事にかこつけて草戸千軒を書いている。 前書のように、江戸時代中期の市井の人達は草戸千軒の伝承を聞書きしており、その年代に就いては二百年以上も昔の中世を想定していた。 八、封殺 大正期の草戸千軒研究 草戸千軒の発見と発掘に関する、専門家の『よみがえる中世8』に記載された公式見解は、昭和五年一月の芦田川改修作業に伴う出土遺物が発端であるとしている。同書は続いて草戸千軒研究最初の論文として、昭和十一年六月から『備後史談」に九回連載された、浜本鶴賓(一八八三~一九五〇)の「明王院と草戸中州の変遷」を嗜矢としている。 草戸村は元来沼隈郡に属した村で、昭和八年に福山市周辺の十ヶ村と一緒に福山市に合併された。そのため大正時代に進められた草戸千軒の研究は、専ら沼隈郡の主導の下に進められてきた。 郷土史家の浜本鶴賓は明治四十四年(一九一一)六月、沼隈郡内の九名の同志と相謀り、文化運動を推進する目的から先憂會を設立し、機関雑誌の『まこと』を発刊する事を決定。大正三年二月には早くも『まこと』誌に、「草戸千軒」と題して寛文十三年水害の経緯を書いている。 芦田川の大なる三角州は沼隈郡に属し、太平記にいう草意地とある、これなり。水野候入城後直ちに此の地方の築堤に従い旧流は埋立てゝ新開となす。寛文元年(一六六一)中西を本流となし、東は本庄・野上に千間の長堤を築き艮端に樋門をすえ、旧流は福山水道となし、以西の中州はこれを草戸に属し、所謂草戸千軒の町此処に栄えたり。四代水野勝種の延宝元年(寛文十三・一六七三)の夏森雨連日晴れず濁流奔馬の如く、終に本庄青木ヶ端の対岸決壊して、租額五百七十五石(誤り約二百五十八石)の肥沃の田と軒を並べたる千軒の町家を流失し去り、酸鼻を極めたりと言う。これより先福山藩家老上田玄蕃江戸の町人と語らい、川身を狭めて数千頃の沃田を為さんと図る。中山外記之に争うて曰く、私利を謀るも害必ず従わん、若し沃田のために河の流れ其の幅を失わば他日破堤の患至らんと。玄蕃聞かずして寛文十年功を竣り後三年にして此の災あり。人皆外記の達識に服すという。 と、早くも『備陽六郡志』と『福山御伝記』を読破し、水害史料の抽出文を発表している。 大正三年三月、『尚古』の五十二号に「備後国府址考」を寄稿、『水野記』の報恩寺弘伏の寺伝の一節を引用し、 水野記には七千軒とあり。何れにせよ斯かる大なる坊市が一朝芦田川の水に漂蕩して痕跡だも止めずなりしは事実なり と結んでいる。『廣島県史』収録の『水野記』の原典は京都の瑞源院本で、浜本鶴賓が採用した『水野記」は福山市中に流布した本で、草戸千軒研究のため九十四年も以前に活用していた。翌年の大正三年三月には、沼隈郡の地図「沼隈郡明細全図」を発行している。表側の草戸村の欄に●千軒町址として、 稲荷沖(草戸稲荷)より鷹取辺にかけて千軒の町ありしが寛文十三年洪水に漂流す と記載。また裏側の沼隈郡の地図面に芦田川を描き、草戸中洲に「千軒町址」と鷹取城を一緒に記入している。以後も浜本鶴賓は研鑽に励み、大正十二年に発行した『沼隈郡誌』には、研究を纏めた「草戸千軒町跡」を載せ、 草戸村沖新田に以前千軒の町屋ありしが一朝洪水の為に漂蕩する との宮原直倁の説を批判し、 寛文十三年の大洪水は九州中国四国に渉れる大水害なるが、水野家の中世に属し、草戸新田築堤後幾許も無き時なれば此の時既に千軒の町屋あるべき理由なし として、厳しい論断を下し時代錯誤と斬り捨てゝいる。断案として、 草戸住法華一乗は永享頃(一四二九~四〇)の人、草戸城主渡辺は応仁の頃(一四六七~六八)に住(中略)所謂千軒町家は戦国時代中葉以前にありて、何時かの洪水に流失せし と、浜本鶴賓の慧眼は昭和の遺蹟発見説より七年も以前に、草戸千軒が繁栄した時代を室町時代と見抜いていた。 昭和初期から四十年代前半の頃まで、法音寺橋上流の堤防上から川底を見ると、水勢に抵抗して凛然と立つ木製の井戸側や杭頭は、水紋を左右に拡げつゝ上流に向かって前進しているかのように見えた。浜本鶴賓もきっと同じ光景を目にして遺蹟の解明に取り組んでいた事であろう。 浜本鶴賓が大正時代に取組んだ草戸千軒の基礎研究は、定かでないが諸先生から無視又は見逃されてきたのである。福山にはこのように知らされていない、江戸・大正期の記録は残されていたのである。しかし、戦後の先生方は先学の称揚顕彰を怠り、事実誤認の情報を全国に発信されたことは確かである。 昭和五年から始まった芦田川改修工事に、大正時代の浜本鶴賓の基礎研究が結実し、中世の墓石群(市重文)が出土した際の素早い対応は、大正研究の成果を物語るもので文化財の保全に重要な役割を果した。 九、寛文十三年説の資料考証 寛文十三年の草戸水害を裏付ける証拠とされてきたのが、備後国分寺に記録されている溺死者六十三霊の過去帳である。溺死者発生の原因は国分寺の裏山約二km上流にある、大原池の決壊に伴う濁流が原因といわれている。 大原池に行き周辺の山々を眺望すると、以外にも山並みは低く水の流入量も少なかったと想定され、豪雨に依る災害説に疑間が残る。もし堤防の欠陥に依る損壊であれば、雨量に関係なく決壊した可能性がある。 宮原直倁の『備陽六郡志」は立派な地誌である。しかし、草戸千軒水害の記事に関する限り、後世の伝承であるだけに資料価値は低く、鑑定の誤りから高く評価されてきた。 史家からは江戸時代の『備陽六郡志』『西備名区』『福山志料』三大地誌が揃って、寛文十三年水害説を採用しているから信用度は高いとする見方がある。しかし、『西備名区』と『福山志料』は『備陽六郡志』が原書で、資料は同根であり両書とも『水野記』を読み落としていた。 十、延宝二年説の資料検証 水野時代の農村では、新開開発・荒地の開墾・水害後の耕地復旧に伴い免租叉は貢租減免が認められ、七年の鍬下年季が実施されていた事が判明している。草戸村の水害年の割出しに鍬下年季を適用すると、地詰された年から鍬下年季を差引いた年が水害年との答えが出る。 鍬下年季を知る手掛かりとなるのが、草戸村の地詰帳(検地帳)である。検地は権力者が農民の田畑を測量・検査したものであるが、地詰とは大名が非公式に行った検地であることから地詰と呼称されてきた。 私は九年以前に草戸村の歴史を知る目的から、広島大学の付属図書館に行き延宝九年(一六八一)「備後國沼隈郡草戸村地詰帳」利用許可願を提出し、後日許可され地詰帳を解読し翌年『草戸の今昔』に発表した。 地詰帳の由来は従来使用していた検地帳が、延宝二年の水害で役立たなくなり七年の鍬下年季を経て、検地役人の榎本八郎兵衛と亀川九郎次郎により作成されていた。 内訳は 田 一一町七反余。畠 四十一町七反余。屋敷 一二反余。家敷四十二軒。高都合 百五十九石余京升 と記載されていた。草戸村の村高は、慶長検地で二百五十七石余であったが、八十年経過した延宝九年には水害が影響して、村高は百五十九石余と大きく激変していた。 百石近くも村高が減少した最大の理由は、福山城下が発展し西方沖だし新開開発が行われた結果、芦田川の水量を軽視してまで深津郡の西方沖出し野上堤防が建設され、川筋は西方に移され狭められた川水は水嵩増しとなり中洲の耕地を襲った。 『福山市史』の中巻の第八十六図に、「福山の新開開発図」として、草戸中洲に「寛文十年」と開発年代が載せられている。同図は草戸中洲の実情を無視した根拠の無い想像図で、寛文十年の新開開発説の遠因は、伝承の江戸者が開発した小規模開発(草戸町一丁目)を意図して作成された図らしく、延宝から元禄期の地詰帳を総合的に勘案すると、近世初頭の草戸中洲には百町歩に程近い耕地が存在していた。 広島大学には伝えられた延宝以後の地詰帳に依ると、元禄三年が六十六石余・五年が十三石余・十年が四石と次第に増加し、水野家が断絶する直前の村高は三百四十三石余、耕地面積は七十九町歩余迄と大幅に回復していたが、それでも慶長検地より十四石も不足していた。 延宝二年の水害は単に草戸村だけを襲った大水害ではなく、前記のように川口村・多治米村・手城村・草深村新開等も含め大水害に遭った。前記の新開の村々は、鍬下年季が明けた延宝九年に地詰が施行されており、その資料は福山市立図書館所蔵の「深津郡古検畝書出張」に地詰が写されており、水害の年と地詰の年は奇しくも草戸村と同年であった。被害に遭った新開村は何れも寛文年中に造成された新開で、軟弱な新堤防に植えられた竹や松は、根を張る暇も無く高潮と洪水に襲われ決壊したのである。水害に遭った村々は鍬下年季で救われ、延宝九年の地詰が新たな村造りの出発点となった。 草戸村及び草戸千軒関連の編年史料年表 1601慶長六年『福山領高辻村々帳』草戸村 三百五十七石余 1639寛永十六年『水野記』報恩寺弘伏。古来草戸村在家七(者)千軒 1673寛文十三年『備陽六郡志』水押し入り、千軒の町家ともに押し流し 1674延宝二年『列K里予言己』昔は草戸に千家なり、延宝二年の洪水説 1681延宝九年『草戸村地詰帳』作付面積四十四町余・百五十九石余 1697元禄十年『草戸村地詰帳』作付面積七十九町余。三百四十三石余 1716享保初年頃『水野記』吉田秀元。延宝二年の洪水を記録 1741寛保元年『一本福山語伝記』女性りん。草戸千軒と申すは毛利福嶋の頃か 1760宝暦十年『備後太平記』室町時代法華一乗。草戸に千間(千軒)町有り 1774安永三年頃『備陽六郡志』宮原直伽。寛文十三年の水害説を記録 1789寛政元年頃『西備名区』馬屋原重帯。寛文十三年の水害説 1809文化六年『福山志料』寛文十三年の水害説 1913大正三年『まこと』浜本鶴賓。草戸千軒・寛文十三年水害説 1913大正三年『尚古』52号 浜本鶴賓。備後国府址考・水野記には七千軒 1914大正三年『沼隈郡明細全図』浜本鶴賓。地図・草戸中洲に「千軒町址」挿入 1923大正十二年『沼隈郡誌』浜本鶴賓。草戸千軒町家は戦国時代中葉以前 1930昭和五年『よみがえる中世』芦田川改修作業。埋れた遺蹟草戸千軒を発見 1936昭和十一年『備後史談』「明王院と草戸中州の変遷」最初の草戸千軒研究論文説備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです