2007年12月10日

文雅大名毛利元康(連歌と文芸)

備陽史探訪:139号」より

小林 定市

毛利博物館所蔵

毛利博物館所蔵

1、毛利元康の文芸と神辺領石高

城郭部会の六月の例会で、(『毛利元就と地域社会』中国新聞社刊)を入手し、帰って同書を開くと第4章に県立広島大学の西本寮子先生の労作、「毛利氏一族の文芸活動」の研究文の中に、毛利元就の八男毛利元康の文芸関係史料が多く紹介されていた。領主元康の治世の足跡を懸命に追い続けていたのであるが、日本国内では武将元康より、和歌・連歌大名元康の知名度の方が遥かに高かったことは驚きである。

桃山時代の十年間、神辺城と深津城の城主として福山地方の政治を動かしてきた元康は、四百年後の今日まで事績を消去封印されていた謎の武将である。毛利家中の最強武将元康の軍歴は、文禄の役での壁蹄館の戦いに続く、関ヶ原合戦での東軍方の大津城攻略でも明白である。

徳川政権にとって「精強な毛利軍・軟弱な徳川軍」と侮られては治世が難しく、領民に猛将元康の事跡を隠し通して現代に至ったようである。そのため福嶋正則や水野勝成の武勇が特に強調され、元康の事績を意図的に隠滅する暗黙の画策が進められた可能性が濃厚である。

文禄元年(一五九二)十二月十五日、元康軍は開城から京城北方の高陽に陣替となり、同地に四十五日間宿陣ののち明軍十万が南下してきた為京城に撤退した。後日決戦場となった壁蹄館は高陽の中心地にあり、地形を熟知していた元康は兄の隆景と綿密な作戦行動を練っていた。

壁蹄館の戦いでは小早川。毛利軍が先頭軍団として進み、兼ねてからの手筈通り、元康と秀包は合戦中に壁蹄館東方の山中に伏兵となり敵軍中に残る。日本軍の作戦を知らない明の先遣軍団は日本軍を追って山間を進撃、隆景の合図で元康。秀包軍は明の先遣軍団の中に駆け下り、後続部隊を分断して包囲挟撃することに成功し明軍十萬を潰走させた。

明・朝鮮軍は、敗戦の原因を元康・秀包軍の側面攻撃「伏兵」に依ると総括している。「壁蹄館の日本軍大勝利」との捷報を受けた秀吉は歓喜して、隆景・元康・立花宗茂の三名を激賞し、同文の朱印状と馬一頭宛を朝鮮の陣に送り届けている。

次に元康は関ヶ原の戦役では、毛利輝元の代将として家康(東軍)方の大津城を短期間に攻略している。大津の領主京極高次は最初西軍方として行動していたが、突如東軍に寝返り大津城に籠城して東海道を封鎖し西軍を窮地に追い込んだ。

即刻大津の陸路再開を迫られた輝元は、大阪から元康を陣代として大津に急派し攻略作戦を案出させた。大津に到着した元康は、三重の濠に囲まれ金箔瓦の天守閣と三千の城兵が死守する水軍城を、陸と湖から攻囲し長等山から日本最初の大砲を用いた城郭攻撃を開始した。

九月十二日には増援軍が到着、元康指揮下の顔ぶれは十三万石以上の大名として、弟の小早川秀包。立花宗茂・宮部長熙の三名と、その他の大名は十四家に及んでいた。渡濠の準備万端を整え翌十三日の未明に月明かりのもと、一万五千の軍勢が四囲から総攻めを敢行すると、同日の夕刻に天守閣のみの裸城となった高次は耐えられず降伏を申し出た。

以上が厚狭毛利家文書や関連文書に依る武将元康の実像である。戦場での元康は大局的先見性に明敏で、戦略にも優れ信義に厚く周辺の大名や部下をも心服させていた。特に輝元から家中一番と厚い信頼を寄せられた元康は、三度の大合戦に大活躍をして見事期待を裏切らなかった。

元康の文芸活動は現在まで全く不明で、福山からはその痕跡が何一つ見出されず、そのため和歌・連歌の究明が後回しとなった。元康の連歌や文芸活動は想定外の究明課題で、此の機会に福山地方の中世文学の再検討が必要となった。

一般に戦国武将は必須の教養として、連歌等を習得していたことが明らかにされている。しかし、残念なことに福山では、

福山の文学は、福山築城の主水野勝成に始まる

(『福山市史』中巻第四章三)

と、根拠の曖昧な通説が現在まで主流となり、中世文芸史は見向きもされず自虐的史観に終始している。

福山には全国レベルの古墳や山城も築かれており、記録が残されていなくても古墳や山城が築かれていたのと同様、連歌などの中世文化も古記録が残されていなくても存在したことは確実と見なされる。しかし、福山は水野氏文化の解明には積極的でも、毛利氏の事績や文化の検証になると冷淡である。

紙面を元に戻して、早速西本先生と尾道大学(元山口県立大学)の熊本守雄先生に、厚かましく「元康に関する研究資料の伝授」をお願いしましたところ、貴重な研究の基礎資料を送付して頂きました。

そこで今年の夏は、青春切符を使って元康の資料収集を開始。先ず防府の毛利博物館と山口県立図書館に三度通い、更に京都の総合資料館に京都府立図書館を歴訪。十月には鉄道記念切符で京都の国立国会図書館まで調査の足を伸ばした。

国会図書館では元康関係の文芸資料収集の前に、館員さんに文禄の役で明軍と日本軍が戦った経緯を説明し、「京城北方の壁蹄館」の地図調査を依頼。ハングル文字の地図は読まれず、二時間余り掛けて「大正五年測量・朝鮮総督府発行」の壁蹄館地図をやつと探し出して頂いた。

其の後館員さんから親切に、国立国会図書館のホームページの出し方を教えられと同時に、慶長二年(一五九七)六月の毛利家出征軍役表を表示して頂いた。出典は毛利輝元の養子毛利秀元の文書とされ、元康の神辺領の石高は六万六千五百十六石で、兵員数は三千三百十一人に及んでいた。

2、元康の連歌と文芸

戦国時代から安土桃山時代に、連歌の第一人者として活躍したのが里村紹巴(一五二四~一六〇二)であった。紹巴は元就の時代から毛利家一門と深い関係にあり、毛利家の中で特に関係が深かったのが元康であった。何の理由で紹巴と元康が堅く結び付いたのか、明らかにする史料は伝えられていない。

紹巴は連歌師の師としてしばしば連歌論書を求められていた。その相手は豊臣秀吉・黒田如水・毛利元康・下間少進等であった。紹巴は理論家や学者でなくて実際的な指導者で多くの連歌論書を残している。

元康は大阪木津の毛利屋敷で、慶長六年(一六〇一)正月十三日に四十二歳の生涯を終えている。法名は「天徳寺院殿石心玄也大居士」で、法号の中の「玄也」は紹巴から授けられた雅号らしく、紹巴には二人の子息がいたが兄弟に玄の字を用い玄仍・玄仲と名付けている。

元康と紹巴の結びつきは存外早く、紹巴は天正八年(一五八〇)に出雲末次城主(現在の松江城)であった二十一歳の元康のために、連歌の作法書で連歌の作り方の実際的指導書『私用抄』を書写して贈っている。

年月未詳の(『吉川家文書』一四五五号)に元康の連歌の寫が載せられている。紹巴の発句「山や雪 都は今日を 花の春」に始まり、玄阿(玄仍ヵ)と名前を解読されている脇句「年越し 今日さへ春を となり哉」、元康の第三句「花の春 さそう色とや 今朝の雪」。続いて三日之、元康の発句「門松に 引きそう今日の子日かな」以下脇句と三句の花押の特定ができず作者不詳で省略。

下瀬七兵衛尉頼介が筆記した『朝鮮渡海日記』の中に、文禄二年(一五九三)三月十九日、午後雨が降った際の連歌を伝えている。元康の発句「夜の雨に 立や哉畳の 朝霞」だけを頼介は記している。

元康の義弟吉見元頼配下の武士は連歌に堪能で、朝鮮の地で月次の連歌の会を催し正月・節句・七夕にも歌作している。連歌は武士が協力して作品の完成に努力することから、戦陣で催された場合は結束力を高めることに効果的とされている。

当時は武将やその配下の武士の間で連歌が大流行した時代で、武士達は実用的な連歌の入門書を求めていた。連歌を嗜むものは和歌と『源氏物語』に接近して行き、連歌と和歌と『源氏物語』は武将の必須教養とされていた。

文禄四年四月十六日、紹巴は「毛利元就親類衆」の注文した『源氏物語』の書写を京都の北野社松梅院禅輿に依頼している。その「親類衆」は未詳であるが、その頃元康は在京中であったことから元康であった可能性が高い。

元康が神辺・深津城主時代に和歌・連歌と関連した史料が、長門國厚狭に運ばれ現在は防府の毛利報告会博物館に数点伝えられている。次に元康が関連した文書を紹介する。

★ 『連歌式目』

里村紹巴筆、山口県指定文化財。紙本墨書、列帳装、表紙は紺地に金泥で花鳥山水を描く。紙数二十七丁。二条良基の「連歌新式」とその追加、更に一条兼良の「新式今案」を合わせて一冊としたもの。天正九年(一五八一)三月に紹巴が書写して元康に贈与したが、所望により慶長三年(一五九八)二月五日に奥書を記した。

★ 『連歌新式注』

里村紹巴注筆、山口県指定文化財。紙本墨書、列帳装、表紙は黄蘖地に金銀泥で花に池水を描く。紙数三十六丁。本書は「連歌新式追加井新式今案等」に関する紹巴の註釈書であり、奥書に

此一冊者毛利七郎兵衛尉殿元康御所望依老筆染者也 文禄三年(一五九四)名月(九月)後日法眼紹巴(花押)

と書かれた紹巴自筆の原本で、元康のために作った連歌学書である。『連歌式目』と『連歌新式注』は溜塗の同じ箱に収まる。箱書き「紹巴筆判形有之連歌式目・連歌新式注二冊」と書かれている。

★ 『宗祇初学抄』

里村紹巴筆、山口県指定文化財。紙本墨書、列帳装、表紙は金銀泥で池水草木を描く。見返しは金銀泥・砂子・野毛で装飾を施す。紙敷三十二丁。室町時代の連歌師宗祇の著わした連歌書で、発句に詠むべき題材・詞等、後世の季題季語を十二ヶ月に分けて注し、更に四季を各月に亘って、その移り変る風物・情趣に古歌などを引用しながら、具象的に解説し発句詠吟の参考とするもの。奥書には

此抄者藝州御本所御歌道御熱心之間老筆染者也文禄二年(一五九三)仲冬望法橋紹巴(花押)

とあり、藝州御本所とは元康らしく、「宗祇初学抄」の写本としては最も古い伝本である。

★ 『九代抄』

毛利元康筆、列帳装、外題・奥書里村紹巴筆。後撰集から続後撰集に至九つの勅撰和歌集からの抜書きで千五百首が筆写されている。元康の所望に依り外題・奥書を紹巴が

文禄五年(一五九六)季秋(九月)中旬 紹巴(花押)

と奥判を記している。

★ 『鵜之本末』

里村紹巴筆、紙本墨書、袋綴冊子装・茶褐色の表紙、紙数四十四丁、本文は一面十一行書き。歌は一首二行書。奥に、紹巴が

此鵜之本同末毛利大蔵大輔殿元康御所望依一覧畢 干時慶長五年(一六〇〇)卯月上旬 紹巴(花押)

と記している。

次は大阪青山短期大学に所蔵されている元康本四冊。

★ 『狭衣物語』

写本全四冊、列帳装、表紙は黒地に金銀泥の表紙、巻一に春・巻二に夏・巻三に秋・巻四に冬の草木等を描く。表紙中央の朱地に金泥砂子に雲霞を描き、題簽を張付。見返しは金箔押し、本文は片面九行、和歌は改行二字下げ、三行の分かち書き。親本は紹巴所持本であり、京都に居た元康が紹巴から一冊ずつ借り出し書写した後、返却の際に奥書を書いて貰ったらしくその時期は十二月中旬から下旬であった。巻一から巻四の奥書は少しずつ異なり、巻四には

此の狭衣全部者以予本元康毛利大蔵大輔殿 御書畢一覧之次誌之者也 慶長四年(一五九九)臘月下旬紹巴(花押)

と書いている。紹巴が『下紐』を著述するため『狭衣物語』を収集して、狭衣本文を校訂していることを知った元康は、慶長四年六月『下紐』を書写した。

★ 『下紐』

宮内庁書陵部所蔵、毛利元康筆翻刻。一冊、「下紐全」の題察を表紙中央の上方に張付。紙敷八十九丁、一面十一行書。奥書は

此抄者元康御書寫之巳後一覧之次加奥書者也 慶長四年 林鐘朔紹巴(花押)

と記している。

その他紹巴と元康が同座した百韻(一巻が百句)が、文禄四年(一五九五)から慶長三年の四年の間に十一回にも及んでいたことが知られている。他に紹巴と元康が関係していた文書として下記の文書がある。

天正十八年(一五九〇)十月中旬、元康所蔵の岩山尚書筆の★ 『拾遺基『八代集』に加証奥書を記す(東京大学史料編纂所撮影写真)。

文禄四年(一五九五)三月下旬★『若草記』を書写し元康に贈る(東京大学史料編纂所撮影写真)。

同年四月上旬、元康の依頼により★ 「毛利千句注」に加証奥書を記す(天理図書館本)。

同年四月二十三日★ 『称名院追善千句注』を元康に贈る(大東急記念文庫本)。

同年五月下旬元康書写の★ 『仮名遣(定家仮名遣)』に加証奥書を記す(明治大学本)。

慶長四年(一五九九)六月上旬玄仍筆★ 『出葉口伝抄』に奥書を加え元康に贈る(明治大学本)。

資料未確認年月未詳の★ 「紫塵愚抄」の語の割注に(京都大学国文研究室)と元康自筆紹巴加注本が記されていた。

3、附記 渡辺三代の文芸

戦国時代の武将は、文書の読書きが必須条件とされてきた。備後守護山名氏の被官人として、草戸の代官を勤めた渡辺越中守兼は、後に山田城(福山市熊野町。一乗山城)に移るのであるが、渡辺兼と次男の越中守幸(常)に孫の出雲守房は文芸的教養を身に付けていた。

渡辺兼は永正初期頃(一五〇四)、安藝の多治比で毛利元就と文武に励んでいたようである。渡辺兼は天文三年(一五三四)に、『先祖覚書』を書き次の歌三首を記載している。

猶変体仮名は理解しやすい文字に変換している。 

二つとも 三なき法の 不思議によ 身おハ任せて兎にも角にも

世の中は たゝ悪戯の 移しかわ 行末は煙 立つも歸らす

咲花の 散りしを言えハむへしかな 怨むハ悪しゝ 今日吹かすとも

と記している。

山田城二代目の渡辺越中守幸は、病弱であったためか活躍記録が少なく、同一人物でも福山の名前は「常」と記され、「廣島県史』の長州側のは「幸」と書かれている。

毛利元就は永禄四年(一五六一)三月、家臣を伴い沼田本郷の雄高山城を訪ねている。間三月二日には小早川隆景主催の連歌の会が城内の高之間に於いて催され、連衆十五名のうち筆頭が元就・三席が毛利隆元・三席に隆景が着座していた。四席に渡辺越中守幸(常)の名前が記され、五席は山南郷(福山市沼隈町)の領主渋川宮内少輔・次に桂能登守・粟屋備前守と続いているが、四席と五席に福山の領主が着座していた。

連歌は元就の発句「若木より 見ん世も久し 花の春」で始まり、隆景の脇句「霞の月に かはす松か枝」、第三句は隆元の「山風は 長閑なる夜の 明初て」だけが記録されていた。しかし、渡辺・渋川の両名は連歌記録こそ見当たらないが、列席していることから連歌に参加したことは確実で、水野氏が入部するより約六十年も以前の連歌会であった。

天文十七年(一五四八)、大内方が尼子方の安那郡村尾郷の村尾城(後の神辺城)を攻撃した際、渡辺幸・房の父子は大内氏の西條(東広島市)配下に属するよう強要されたが、渡辺一族は「縦へ山田城は失うとも、元就に従い西條の配下に属さず」と、大内側の下命を断り元就を信頼して渡辺の方針を崩さなかった。そのため山田城へ大内方から城番を差し向けられ、渡辺幸二房は無足(無所領)の状況に追込まれていた。

天文十八(一五四九)年三月、元就は大内義隆との関係修復を計る日的で山口に赴くのである。その際渡辺幸・房も元就に随行しており、此の山口行きが契機となり渡辺幸・房は、元就と主従関係を結んだと萩藩の渡辺系図は伝えている。

出雲守房は山口下向に先立ち同年二月八日、郡山城本丸に登り元就に面会の後『太平記』を借用して城下で読んでいたらしく、隆元は書状に「叉太平記を御随身候らへかし」と書き、本丸に再度の登城を要望し「待ち申し候」との書状(『廣島県史』中世・譜録・渡辺三郎左衛門直一〇)を出雲守房の許に送っている。