加茂町 姫谷

備陽史探訪:196号」より

山口 哲晶

焼き物に興味を持ってから四十年近くになる。当初は古墳時代の須恵器であったが、その系譜をひくといわれる備前焼に惹かれるようになった。

知人に備前焼の作家と懇意な方がいたので一緒に備前の工房を訪ねた。三十年ほど前のことである。窯出しを終えたばかりの作品から数点を求めたが、作家に須恵器との関係を質問したところ、二基ある登り窯の一つに案内され内部にも入らせていただき、お話を伺った。

昼食をご馳走になり、帰り際、のれんの奥に呼ばれて入ると「これを差し上げますので使ってください」と徳利とぐい呑みを二セットいただいた。火襷の面白い、ふっくらとした胴回りの徳利の底には作家のサインがあり、ご自身用だったのかもしれない。

その後、志野焼にも興味をそそられた。桃山時代に岐阜で焼かれ、その後途絶えて久しかったが、数十年前に加藤唐九郎により復活したやきものである。赤い地にふっくらとした白い釉、所どころに入る気泡がアクセントとなり柔らかく温かみがあり、私には水仙と同じく茶の席を連想させる。

国道一八二号線を東城に向かうと加茂町の北端に姫谷がある。色絵磁器三古窯の一つともいわれる姫谷焼の窯跡が道の脇にひっそりと眠っている。江戸時代末期の文献に記述があるものの、長く「まぼろしの姫谷焼き」として知られていたが、陶工市右衛門により江戸時代初期の短い間に焼かれていたことがわかってきた。作品には径二十センチほどの色絵皿が知られ、有田の影響を受けているともいわれている。私には有田は白が強すぎ冷たさを感じるが、やや乳白色をした白地の姫谷のほうが温かみを感じ、心に沁み入るのである。

以前訪れた時には紫陽花の花が咲いていたように記憶していたが、今は見あたらなかった。この風景には紫陽花が似合うと私の勝手な思いだったのかもしれない。

もう少ししたら雨に濡れる紫陽花を眺め、姫谷焼きと陶工を思いながら我が家で備前焼の徳利に酒を酌むことになるだろう。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2025/09/0cbd62fb27b2dd3af4785d2a2aafc5d6.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2025/09/0cbd62fb27b2dd3af4785d2a2aafc5d6-150x100.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:196号」より 山口 哲晶 焼き物に興味を持ってから四十年近くになる。当初は古墳時代の須恵器であったが、その系譜をひくといわれる備前焼に惹かれるようになった。 知人に備前焼の作家と懇意な方がいたので一緒に備前の工房を訪ねた。三十年ほど前のことである。窯出しを終えたばかりの作品から数点を求めたが、作家に須恵器との関係を質問したところ、二基ある登り窯の一つに案内され内部にも入らせていただき、お話を伺った。 昼食をご馳走になり、帰り際、のれんの奥に呼ばれて入ると「これを差し上げますので使ってください」と徳利とぐい呑みを二セットいただいた。火襷の面白い、ふっくらとした胴回りの徳利の底には作家のサインがあり、ご自身用だったのかもしれない。 その後、志野焼にも興味をそそられた。桃山時代に岐阜で焼かれ、その後途絶えて久しかったが、数十年前に加藤唐九郎により復活したやきものである。赤い地にふっくらとした白い釉、所どころに入る気泡がアクセントとなり柔らかく温かみがあり、私には水仙と同じく茶の席を連想させる。 国道一八二号線を東城に向かうと加茂町の北端に姫谷がある。色絵磁器三古窯の一つともいわれる姫谷焼の窯跡が道の脇にひっそりと眠っている。江戸時代末期の文献に記述があるものの、長く「まぼろしの姫谷焼き」として知られていたが、陶工市右衛門により江戸時代初期の短い間に焼かれていたことがわかってきた。作品には径二十センチほどの色絵皿が知られ、有田の影響を受けているともいわれている。私には有田は白が強すぎ冷たさを感じるが、やや乳白色をした白地の姫谷のほうが温かみを感じ、心に沁み入るのである。 以前訪れた時には紫陽花の花が咲いていたように記憶していたが、今は見あたらなかった。この風景には紫陽花が似合うと私の勝手な思いだったのかもしれない。 もう少ししたら雨に濡れる紫陽花を眺め、姫谷焼きと陶工を思いながら我が家で備前焼の徳利に酒を酌むことになるだろう。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い