茨城、常城に関する一考察

山城志:第16集」より

寺崎 久徳

はじめに

われわれの郷土である備後国南部が、続日本紀にでてくる数少ない記事の一つに「備後国安那郡茨城芦田郡常城停」というのがある。続日本紀の養老三〔七一九〕年一二月一五日付けの、たった一行、一四文字の記事である。これはいったい何を意味するのだろう。私が茨城、常城に魅せられた、これがそもそもの動機である。
私がまだ若い頃、先輩から「音なきを聴き、形なきを観よ。書いてある文字だけを読んで判断するのは小学生でもできる。眼に見えない文字を読み、聞こえない声を聴かないと本当の真実は見えないぞ」と口やかましく言われたものである。それ以後私は一つのものを判断するにしても前後、左右、そして上からも下からも方向、角度をかえて観察することを知った。
「備後国安那郡茨城芦田郡常城停」。これだけをそのまま読んで判断すれば、安那郡にある茨城と芦田郡にある常城を停めたことは容易に理解できる。しかしそれだけでは意味が通じない。ここで、もう一つの真実解明の原則に当てはめる必要が出てくるのである。それは「七何の法則」すなわち「何時」、「何処で」、「誰が」、「何故に」、「何を」「どうして」、「どうなったのか」という七つの?にあてはめてみることである。
まず最初の「何時か」については、続日本紀の記事の養老三〔七一九〕年からみて、時期の特定は間違いはない。次の「何処か」という場所が大きな問題点である。まずは朝鮮式山城だという前提のもとに常城についてはこれまでも備後郷土史研究先達の諸先生たちが府中市の七ツ池付近から新市の常方面、そして茨城については、豊元国先生などは福山市の蔵王山と推定されたが特定はされていない。「誰が」については、これは続日本紀にでてくる元正天皇〔女帝、在位七一五―七二三年〕に間違いない。「何故に」これはあまりにも問題が大きすぎるから後回しにしよう。次の「何を」「どうして」「どうなったのか」については、これはおそらく常城、茨城の築城に着手したものの、なんらかの理由で中止したものであろう。さてそうすると問題は、元正天皇が?この時期に、備後南部の芦田川沿いにしかも二ヶ所も「何故に」常城、茨城を造りかけたのだろうか。これがこのテーマの出発点である。

これまでの定説

同盟国であった朝鮮半島の百済が、六六〇年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。残った百済の残留部隊は、各地で百済の復興をめざしてゲリラ戦を展開しながら、日本が人質としてとっていた王子豊璋の返還と救援部隊の派遣を要請してきた。斉明天皇は王子豊璋に織冠〔天皇が部下に与える最高位の官位〕を与えて帰国させ、その翌年には百済王の称号までも与えている。その後六六三年、二回に分けて三二、〇〇〇人の軍隊を派遣した。斉明天皇にしてみれば、運よくこの戦いに勝利して百済が復興すれば百済は日本の属国となり、かつての任那日本府のような日本の勢力が朝鮮半島の一部に及ぶとみたのではなかろうか。しかし日本軍は白村江の戦いで全滅した。
大和朝廷にとっては大変なことになったわけである。対外的には唐と新羅の反撃を恐れて、百済の亡命将軍、軍人などにより対馬から北九州瀬戸内海沿岸さらには倭国に高安城等のいわゆる朝鮮式山城を多く築いた。また内政面では、対馬から九州の太宰府へ、そして大和までへと烽〔とぶひ、のろし台〕の制度を作り、対馬、壱岐、北九州一帯に防人を置いた。それでも安心ができなかったのであろう。中大兄皇子〔後の天智天皇〕は都を飛鳥から近江の大津京に遷都までしている。これまでの定説によれば、茨城と常城はそういう国際的な緊張関係によって、大和防衛のために備後国に築かれた朝鮮式山城であるといわれてきた。

私の見方

私は、茨城と常城はこの白村江の戦いはまったく関係なく、また朝鮮式山城ではないとみる。
大和朝廷は六八一年飛鳥浄御原令や七〇一年の太宝の令を中心とした新しい法令の施行や施策など中国の唐を手本とした近代的な律令国家作りに努めてきた。その過程のなかで大和朝廷はいまだ完全に服従していなかった吉備国の弱体化を謀り、これを完全に併呑する一手法としてまずは備後の国の分離、独立を狙った。
さらには備後国を安芸国以西のいわゆる遠国を押さえる拠点と位置付けて備後地方には中央から強力なエネルギーが投入されたが、茨城、常城はその流れのなかで登場してきたものである。すなわち茨城、常城は唐及び新羅からの反撃に備えた朝鮮式山城ではなく、大和朝廷が律令国家体制作りの一施策として備後国に設けたものである。
その理由を述べよう。

理由のその一
年代の推移、国際関係及び軍備の状況など

六六〇年の百済滅亡から七元年の茨城、常城停む迄には、およそ六〇年の歳月が流れている。その間へ日本には斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正と天皇は八代、唐は高宗、叡宗、則天武后、中宗、叡宗、玄宗と六代、また新羅でも武烈王、文武王、神文王、孝昭王、聖徳王と五代の元首が代わっている。
その間、唐にあっては吐蕃が六七〇年と七一〇年の二回、突厥は六九一年にそれぞれ唐国内に侵攻し、また渤海は高句麗滅亡後の遣民と共に唐に反抗して震国を建国した。さらには六八〇年代後半には国内が内乱状態になり、唐王朝唯一の女帝則天武后が即位するなど、西戎、南蛮、北狄の外敵の対応などに逐われて、とても日本にかまっていられる状態ではなかった。
一方新羅は、唐と連合して六六三年百済を、続いて六六八年に高句麗を滅ぼしたものの、唐がそのまま朝鮮半島に居座ってしまったために新羅は六七一年日本と和睦して後顧の憂いを断ったのち唐と戦い、朝鮮半島から唐を追出して六七六年に大同江以南の統一新羅国を誕生させた。それ以後七一九年までの間、新羅からの使者来日は二八回、日本から新羅への使者は一三回と、各々緊密な国際関係が維持されており、その後八世紀後半までは新羅と日本の間で、戦争がおこるような緊張関係は存在していない。したがって六六三年の白村江の敗戦に備えて七一九年に茨城、常城を築城したというのは、いかにも間が抜けている。
その証拠にその間の大和朝廷の軍備の増強整備の状況をみてみよう。前記のとおり白村江の戦い以来大和朝廷は、唐と新羅の連合軍による反撃を恐れて各地に朝鮮式山城を築き、烽〔とぶひ、のろし台〕を置き、そして防人の制度を創った。また近江の大津京に遷都までしている。このような防衛線の確立は六七〇年迄である。
一方反対に軍備を縮小しているのは、まず続日本紀に

七〇一年八月二六日 高安城を廃止し、その建物や種々の貯蔵物を大倭、河内の二国に移貯した

とでてくる。この高安城というのは六六七年に唐と新羅の反撃に備えて大和と河内の境の高安山に築かれた朝鮮式山城である。これを廃止しているが、その理由はよく判らない。
さらにまた続日本紀にはもうひとつきわめて重要な記事がある。

七一九年一〇月一四日 京、畿内および七道の諸国の軍団と大毅〔部下千人を持つ指揮官〕、少毅〔部下五百人を持つ指揮官〕、兵士などの定数を地域に応じて減少させた。ただ志摩、若狭淡路の三国の兵士はそれぞれ廃止した。

という記事である。ここにある畿内および七道の諸国というのは、大宝の令制で定められた全国五八国三島〔ここでいう国とは、たとえば備後では安那国、品治国を指し、三島は対馬、壱岐、佐渡である〕を指している。また茨城、常城停むの記事は同年の一二月一五日付けであるからわずか二ヶ月前のことである。それからみるとこの二つの記事は、その刻の大和朝廷すなわち元正天皇がうちだした兵士を削減、廃止し、そして茨城、常城の軍事施設の維持も止めたという全国的な大軍縮政策を意味しているのである。
それらを総合的に判断すれば、さきの高安城の廃止と共に、その頃の日本は北の蝦夷、南九州の隼人族の問題は別として、大和朝廷の勢力範囲内においては一応の律令国家体制が整い、治安も確立して主力を軍備の増強、整備から内政の充実と、方針を大きく切替えたものではなかろうか。

理由のその二
地元伝承に残る、朝廷軍の備後進攻など

備後の国南部にある名峰蛇円山〔標高五四五、八㍍〕周辺には、その頃大和朝廷〔元正天皇〕が大軍を送りこんで王命に叛いた賊党を平定したこと、またその後複数の城を築いたことなどを伝える諸々の伝説が残っている。これを次に紹介しよう。
伝説その一 猿ケ城伝説  出典 西備名区 五三巻

山谷に古城地の如き処あり。語り伝。古へいつの頃にや、此処に古猿住みてその友を集め、人を誘い誑かし、終に大家を構え、数百の大猿人と化し、遠近の夫人をたぶらかし、唱誘ひ入れて、帝王の如く王号を称し、夫人をば皇妃と称す。また四方の山賊これをよき事とし、此処に入りて手下となり、畜生を主として恥とせざるの溢れ者集まり、近郷に災いをなす。国司、是れを聞きおわされ、軍兵を向かいたまわりしかども、山岳重畳にして、その居巣を攻めることあたわず。幸いなるかな、この山方三四里、草木大いに生ひしげり、斧鉱をいれる事なければ枯枝枯葉満々たり。ここに四方より火をかけたれば、満山一面の炎となりてその居巣に吹きかけたれば、溢れ者も猿も煙にむせび、炎に焦れ、城内一面に焼体倒れ臥す。 〜 以下略 〜

これは、西備名区五三巻、すなわち芦田郡藤尾村の条に載っている記事である。今でも新市町金丸の北はずれ、神谷川の向かいに猿ケ城という山があり、ここでは神谷川の蟹をもじって地元では猿蟹合戦の伝説が伝わっている。この伝説によれば年代は判然としないが、備後の国司と地元の勢力者との間に戦いがあったことが伺われる。
伝説その二 吉備国賊王命に叛き都より討手の事  出典 備後太平記 二巻

〔備中府志に載〕 人皇四四代元正天皇、養老元丁己〔七一七〕年、備州の賊党共、王化の命に叛いて国中に横行す。頗る庶民騒動に及ぶ。急ぎ討手の御大将下さるべしとありきれば、帝叡聞きまして、即夷□□□□□□宣旨を下して、按察使恵美朝臣朝獦、見雲真人等諸勢を率いて節度使進発す。その時備州の賊党、軍を分けて迎え戦うといえども官軍の勇鋭にもみ立てられ、一戦に討ち負け散々に敗走す。その逃げるを追ひしたうて悉く討ち取る。賎乱もすみやかに静謐にて諸人悦びをなす。既に各々城廓を築き、居城したまひける。またの日神亀甲子元〔七二四〕年按察使兼守将軍従四位上大埜朝臣東人をおくところなり。

この伝説は重大な意味を持つ。すなわち茨城、常城停むの二年前に元正天皇が備州に軍隊を派遣し、王命に叛いた者を討伐したこと。またその後、各々城廓を築き、討手の大将をそこに居城させたこと。さらには七二四年に大埜東人を按察使としてそこに置いたという。〔この大埜東人は天武朝の朝臣大埜果安の子とみなされ、七一四年新羅の使者来朝時に、平城京門外で騎兵隊一七〇騎を率いてこれを迎えている。七四二年従三位で没。また按察使の制度ができたのは七一九年である。恵美朝臣朝獦とは、藤原不比等の孫押勝の子である。また見雲真人については秦性不明である。〕ところでこの記事によれば、この戦いは吉備の国のどこであったのか不明である。ところが次の伝承があった。
伝説その三 神石郡父尾龍王由来之事   出典 備後太平記
松浦大明神伝説 出典  西備名区
両者共に伝承の内容は同一であり、また備陽六郡志にも同様の記事がある。この文章は人王三代安寧天皇即位元年から始まって、代々の備後の藤尾村父尾谷の歴史を延々と説くものであるが、その中に

その頃恵美朝臣国造を賜り、見雲真人、大野東人等此国に下りて守護し給う

とある。よってそれをみると、前述の「吉備国賊王命に叛き都より討手の事」は場所は福山市北部の名峯蛇円山の西から北側の山麓付近であったことは明白である。

理由のその三
その頃備後の国が独立

上記のとおり、「地元伝承に残る、朝廷軍の備後進攻」があったと認められる頃に、備後が吉備国から独立している。それを見てみよう。六七二年、壬申の乱のとき吉備国守当摩公広嶋が大友皇子の手の者に殺されている。よってこの年にはまだ吉備国であった。
六七三年、三月一七日、備後国司が自雉を亀石〔神石〕郡でとらえて朝廷に奉った。目出度いということでその郡の課役が免除され、全国に大赦令が出されている。これが日本書紀では備後国の初見である。それでは、それ以後備後国が続くのかといえばそうではない。
六七九年、吉備太宰石川王が病で吉備で薨じた。この石川王については項を改めて後述する。そして六八二年には、信濃国、吉備国が共に五穀不作と報告したと依然として吉備国が続く。ところが六九七年、播磨、備前、備中、周防、淡路等、国飢えたとあり、これからみると当然に備後国も誕生していたと思われる。これが備前へ備中の初見である。
また藤原京跡〔六九四―七一〇〕出土の木簡には、六九九年一〇月の日付で「吉備道中国加夜評」、さらには「吉備中国下道評二万里」とあるのも見つかっている。
備後国の独立については記録はなにも残っていないが、それらを総合的に検討してみると、日本書紀に最初に備後国名が出てくる六七三年顔ら六九〇年代始め頃迄の間に、吉備国から分離独立したというのが現在は定説になっている。

理由のその四
初代の国司は備中より備後国司が上位である

律令国家体制がようやく整った七〇八年に、各国に初めて国司が任命派遣された。それをみると備後国司の佐伯宿祢麻呂は正五位上で、備中国司多治比真人吉備は従五位上にすぎない。七一九年按察使が設置された。この按察使とは、全国を三、四ヶ国に区切り、その中の最上位の国司を按察使として部下の国司を観察し、非違があれば譴責、徒罪以下を断決し、それ以上の罪は記録して奏上する、また併せて各国司の勤務評定も行なうことを職務とするものである。初め播磨国司が按察使として備中国司をみていたが、備中国司は二年後の七二一年には安芸、周防を管掌していた按察使の備後国司傘下に組み込まれている。また七三二年備後国司は従五位上であるのに対し、備中国司は七三四年従五位下であり備後国司が依然として上位であることはその後も変わってはいない。これをみてもその頃の備中国より備後国が、格が一枚上であったことが充分伺われる。

理由のその五
最大の決め手、「横口式石槨墳」及び「八角墳」等の存在

備後国南部には、古墳時代の終末期古墳に含まれる謎の横口式石槨墳や八角墳等が存在する。即ち

  • 福山市加茂町下加茂 猪の子一号墳
  • 福山市芦田町下有地 曽根田白塚古墳
  • 芦品郡新市町常芦浦 尾市古墳

がそれである。さらにはやはり同時代の畿内型古墳である花崗岩切石を使った横穴式石室を持つ古墳も、大佐山白塚古墳、大坊古墳、北塚古墳などその周辺に多々存在している。
なかでも尾市古墳は、整美な花崗岩切石による石組みや、石面全体に漆喰を塗布していること、前面は八角形を指向した多角形であり、なかでも最大の特長としては単次葬における複数埋葬施設である三石槨〔前の羨道を加えると十字形となる〕を持つなど、きわめて異質な古墳である。なぜ古墳時代の終末期にこのような特異な横口式石槨墳や八角墳が出現したのだろうか。その理由を説明しよう。
大和朝廷における六世紀後半から七世紀始めにかけての政治形態は、大王家を中心とした多くの有力貴族や豪族による古い部族連合的な政治体制であった。彼らは各人が小さいながらも古墳を造り得るような実力を持ち、それは必然的に個人墓から家族的、同族的な群衆墳への造営という形で現れた。それが六世紀後半から六四五年の大化の改新による物部家や蘇我家の解体などにより、政治体制が大王家による直接的な屯倉の設置など王権の中央集権的な直接支配へと移行するにつけて、自らの大王墓をも含めた群小古墳の造営規制となってくるのである。
六四六年三月に大化の薄葬令といわれる長文の葬制、墓制に関する詔が発せられた。これは身分によって墳丘や石室の大きさ、役夫の数などを規制するものである。これによると例えば

皇族以上の者の墓は、玄室の長さ九尺、巾五尺。外域は縦、横共に九尋、高さ五尋、役夫は千人、七日で終了。
上臣の墓は、玄室は皇族以上の者に準じる。外域は縦横共に七尋、高さ三尋、役夫は五百人、五日で終了。
大仁、小仁の墓は、玄室の長さ九尺、巾高さ四尺、封土なく平坦、役夫は百人、一日で終了。
庶民の死者は、土中に埋めよ。一日もとどめることなくすぐに葬れ。

というものであり、この禁令を犯した者は必ずその一族を処罰するという徹底したものであった。これにより従来の古墳に比べると、古墳はいちじるしく縮小、簡素化され、また群衆墳も逐次終末の方向へ向うのである。そしてその結果は大王家の古墳なども、埋葬施設は順次前室や羨道を欠いた石棺式石室、すなわち横口式石槨へと変化している。
またその頃から墳丘の造り方にもおもしろい傾向が現れてくる。すなわち蘇我系の王や貴族たちは競って方墳を造るのに対して、大王家の血統の純粋性を維持しょうとする王族にあっては、墳丘が八角墳化してくるのである。はっきりと八角墳だといえるものは

  • 段の塚古墳 三四代 舒明天皇陵
  • 御廟野古墳 三八代 天智天皇陵
  • 野口王墓古墳 四〇代四一代 天武持統合葬陵

また八角境の可能性の高いものとしては

  • 中尾山古墳 四二代 文武天皇陵
  • 束明神古墳 天武持統の子で文武天皇の父である草壁皇子陵
  • 岩屋山古墳 三七代 斉明天皇陵との説がある

がある。以上これらの古墳はすべて奈良、京都に所在するが、これ以外の地方では、主なものとして

  • 中山荘園一号墳 宝塚市
  • 神保一本杉古墳 群馬県吉井町
  • 尾市古墳 広島県新市町

などが八角墳と指摘されている。
この八角墳出現の理由としては、古墳の造営が種々規制された中であっても、大王ないし大王家は一般の豪族からははるかに超越した存在であることを明確に意識して、八角墳こそが大王家固有の墳墓形式であることを対外的につよく主張したものとみられている〔白石太一郎「古代を考える古墳」ほか〕。また八角墳造営の背景的思想としては、仏教思想説、道教思想説、および四角四隅説など多様である。
このように尾市古墳は、八角墳そして三石槨をもつ横口式石石槨墳〔斉明天皇陵といわれている牽牛子塚古墳は二石槨である〕であることを思えば、まったく大王家に匹敵する得意な古墳といえよう。しかもその周辺には、前記のとおり他にも多くの機内式そのものと認められる横口式石槨墳や横穴式石室を持つ古墳が存在している。旧吉備国の備前、備中では類をみないこれらの古墳が何故に備後国南部に多く残っているのだろうか。それはその頃、大和朝廷から大王家に属する人をはじめ多数の有力官人がこの地方に派遣されて没したことを意味しているのである。

謎の石川王について

ここで問題になるのが石川王である。日本書紀によれば六七九年三月九日の条に

規模太宰石川王は病で吉備に薨じた。天皇〔天武〕はこれを聞いてたいへん悲しまれ、恵みふかい言葉を賜れて、諸王二位を贈られた

とある。石川王とは出自ははっきりとしないが、おそらく何れかの天皇が妥女に生ませた皇子だったのではなかろうか。壬申の乱では大海人皇子〔天武天皇〕側についていた。当時は律令国家の創造時であり、初期の国司制度を補強する目的で各地の政治的拠点となるところに数カ国を統括る総領制度が設けられた。これを太宰という。筑紫太宰〔後世には遠つ都と呼ばれていた太宰府の前身〕、周防太宰、伊予太宰及び吉備太宰などがそれである。この時石川王は吉備太宰として備前、備中、備後〔一部播磨も所管したとの説あり〕を統括していた。そしてその拠点は備後に置き、備後で亡くなったとの説が強い。西備名区によれば石川王は吉備太宰として備後国の国司も兼ね、備後府中で善政をひいた。死亡後人々はその遺徳をしのんで府中の近くに祠を建て、国司の社として祭ったとあり、その神社が福山市芦田町の国司神社だと伝わっている。
石川王は吉備太宰としての拠点を何故備後に置いたのだろうか。考えられるのは次の諸点であろう。まず備中と備後の力関係である。なるほど政治形態が天皇はただ祭祀権のみを持ち、有力な豪族は連合体制により行なわれていた時代では吉備王国の力関係は圧倒的に備後より備中のほうが優勢であった。ところが時代が代わり、大化の改新で蘇我氏の滅亡後は天智天皇以降律令国家体制がとられて直接天皇が政治を牛耳ることとなった。この時代では備中と備後の力関係は明らかに逆転をして落日の備中と旭日の備後となったはずである。その証拠には、その頃時代を同じくして備中の国に茨城、常城に比較すればはるかに巨大な鬼城、大回り、小回りという山城が築かれているが、これは続日本紀にも全く書かれていない。当時の大和政権には備中の国は眼中になかったのである。つぎは住民対策としてである。律令国家体制づくりは社会制度そのものを大変革させることであり貴族、豪族そして庶民の生活は大変化した。まずは公地公民制で土地や民は国有化された。庚午年籍が作成されて郷里制となり、民には調、庸、租の物納税や雑徭、兵役等が課せられ各地で住民の逃亡や暴動が起きた。それらの鎮圧、そして安芸国以西の遠つ国に脱みをきかせて、かつ九州との往来を確保するためには、石川王は地形的にも備中より備後を選んだのではなかろうか。

まとめ

以上長々と茨城、常城についての私の観方、及びその理由を述べてきた。私はこれらの理由、判断要素から白紙の観点で「音なきを聴き、形なきを観て」茨城、常城は白村江の戦いには関係なく、大和朝廷が律令国家創成の一手法として備後国に設けたものとみたのである。
それでは最後に茨城、常城は何処に有ったのだろうか。もちろんその場所が今日まで特定されていない以上、あくまでも推定の域を脱し得ないが私の見方を述べておこう。私は茨城、常城は吉備王国と西国との交通、連絡を断つ要所に有ったと観る。というのは常城は陸路の要点、そして茨城は海路の押さえとして有ったのではなかろうか。
まず常城は当時の陸路、山陽道の要点にあったと観た場合を考えてみよう。ポイントは、前述の理由のその五「横口式石槨墳や八角墳等の存在」で述べた古墳の位置がヒントである。芦品郡新市町常の芦浦谷にある尾市古墳の周辺が、大和朝廷派遣軍最高指揮官が所在していた場所つまり常城である。この芦浦という地名は、広島県史〔原始、古代編〕に

古代畿内に、葦浦臣あり〔新撰姓氏録〕、その一族の居住によるものであろうか。

と由来が載っている。そこと出雲街道の押さえには福山市加茂町下加茂に所在する猪の子古墳の被葬者が、さらに松永湾方面に通じる街道の押さえとして同市芦田町下有地の曽根田白塚古墳の被葬者が前線指揮官として部隊配置されていたとの推定はどうだろうか。
さらに海路の押さえとしての茨城は何処に有ったのだろうか。それを解明するためには、まず当時の海岸線を把握しなくてはならないが、どなたかご存じのお方は居られないか。ちなみに七一二年に、備後国の安那郡が分割されて深津郡が置かれているから、現在の深津郡を含めて調べなければならないが、広島県史〔原始、古代編〕に大変おもしろいことが載っている。それは深津郡は中海、大野、大宅の三郷で独立したが、この大野という地名について

大野と称する地名は郡、郷だけでも全国に三十余に及ぶ。新撰姓氏録の大野朝臣の一族の居所というのも付会の説であろう。

という記事である。これは前述の理由のその二の中の、伝説その二「吉備国賊王命に叛き都より討手の事」を見て戴きたい。そこには

元正天皇が備後に軍隊を派遣し、賊を平らげ、各々城を築き、またの日、七二四年大野朝臣東人を置いた

とある。もしこれが同一人物ならば茨城の蔵王山説が断然有利となる。それはさておき日本書紀によれば

六五〇年倭漢直県などを安芸国に遣わせて百済船二隻を造らせた
六五八年沙門智踰が指南車を造った
六六〇年皇太子〔天智天皇〕が初めて漏刻を作った

とある。指南車とはつねに南を示す機械を車に積んだものであり、漏刻とは水時計のことである。この頃人々は方位、方角と時間の観念を知り航海術が非常に発達した。したがってこの茨城の頃には陸路よりむしろ海路の押さえが重要であった。現在の私の知識では茨城の場所は、豊元国先生の指摘された福山市蔵王町の蔵王山説が魅力的である。その山麓には、六世親後半と言われているから多少年代はずれるが、千田町大迫の千塚古墳群〔現在は消滅〕がある。福山市史上巻には、そこに接続する一地に

広範囲に布目瓦が分布し奈良期の火葬墳の骨壷の出土をみるなど、寺院跡と推測される点が多い。

とある。さらにその南には茨城の守護寺だったのか、東に塔、西に金堂を配した伽藍配置の法起寺式の国史跡の海蔵寺跡といわれる宮の前廃寺と、その寺の鎮守であった生土八幡があり、その付近一帯は門前町として深津市が大繁盛をみせていた。そこには常城を守る兵士達が多く詰めていたのであろう。彼らは紀州の出身だったのか、そこには夫の無事を願って奉納された「紀臣石女」、「紀臣和石女」、「軽部君黒女」などの名を書いた文字瓦が多く出土している。黒岩重吾さんは古代史への旅のなかで

その頃、紀氏は物部氏、穂積氏と共にきわめて有力な軍事氏族として代々の大王家に仕えていた。

と云っている。またその西側、蔵王山の山麓に原山遺跡がある。現在は畑作地であるが、ここに南北に五、五㍍で四個、東西七、六㍍の間隔で二列に基礎石が並び、布目瓦と共に発掘されている。福山市史上巻では

この遺跡より出土する軒平瓦が海蔵寺跡と同型でなんらかの関係を暗示するが、廃寺跡なるやも断定下しえない。少なくとも海蔵寺塔同時の建立で、天平期の建築は間違いない

としている。
どう考えてみてもこの蔵王山付近が臭い。茨城の匂いがぷんぷんしてくる。この千塚古墳群付近、海蔵寺跡、原山遺跡などほどの説でも廃寺跡との見方をしているが、いずれにしてもこの付近を茨城に詰めていた兵士達の屯した集落跡、陣営跡と見てはどうだろう。ここら辺りの年代は何れも白鳳期や天平時代であり、常城、茨城停むの七一九年前後に矛盾はまったくない。常城の推定地を含めて、なんらかの手がかりでも発見されれば大成功である。なんとか我々の手でその断片だけでも発見したいと思っている。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/04/69886a0a0e5e4fe62671f98ada3f286b.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/04/69886a0a0e5e4fe62671f98ada3f286b-150x100.jpg管理人古代史「山城志:第16集」より 寺崎 久徳 はじめに われわれの郷土である備後国南部が、続日本紀にでてくる数少ない記事の一つに「備後国安那郡茨城芦田郡常城停」というのがある。続日本紀の養老三〔七一九〕年一二月一五日付けの、たった一行、一四文字の記事である。これはいったい何を意味するのだろう。私が茨城、常城に魅せられた、これがそもそもの動機である。 私がまだ若い頃、先輩から「音なきを聴き、形なきを観よ。書いてある文字だけを読んで判断するのは小学生でもできる。眼に見えない文字を読み、聞こえない声を聴かないと本当の真実は見えないぞ」と口やかましく言われたものである。それ以後私は一つのものを判断するにしても前後、左右、そして上からも下からも方向、角度をかえて観察することを知った。 「備後国安那郡茨城芦田郡常城停」。これだけをそのまま読んで判断すれば、安那郡にある茨城と芦田郡にある常城を停めたことは容易に理解できる。しかしそれだけでは意味が通じない。ここで、もう一つの真実解明の原則に当てはめる必要が出てくるのである。それは「七何の法則」すなわち「何時」、「何処で」、「誰が」、「何故に」、「何を」「どうして」、「どうなったのか」という七つの?にあてはめてみることである。 まず最初の「何時か」については、続日本紀の記事の養老三〔七一九〕年からみて、時期の特定は間違いはない。次の「何処か」という場所が大きな問題点である。まずは朝鮮式山城だという前提のもとに常城についてはこれまでも備後郷土史研究先達の諸先生たちが府中市の七ツ池付近から新市の常方面、そして茨城については、豊元国先生などは福山市の蔵王山と推定されたが特定はされていない。「誰が」については、これは続日本紀にでてくる元正天皇〔女帝、在位七一五―七二三年〕に間違いない。「何故に」これはあまりにも問題が大きすぎるから後回しにしよう。次の「何を」「どうして」「どうなったのか」については、これはおそらく常城、茨城の築城に着手したものの、なんらかの理由で中止したものであろう。さてそうすると問題は、元正天皇が?この時期に、備後南部の芦田川沿いにしかも二ヶ所も「何故に」常城、茨城を造りかけたのだろうか。これがこのテーマの出発点である。 これまでの定説 同盟国であった朝鮮半島の百済が、六六〇年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。残った百済の残留部隊は、各地で百済の復興をめざしてゲリラ戦を展開しながら、日本が人質としてとっていた王子豊璋の返還と救援部隊の派遣を要請してきた。斉明天皇は王子豊璋に織冠〔天皇が部下に与える最高位の官位〕を与えて帰国させ、その翌年には百済王の称号までも与えている。その後六六三年、二回に分けて三二、〇〇〇人の軍隊を派遣した。斉明天皇にしてみれば、運よくこの戦いに勝利して百済が復興すれば百済は日本の属国となり、かつての任那日本府のような日本の勢力が朝鮮半島の一部に及ぶとみたのではなかろうか。しかし日本軍は白村江の戦いで全滅した。 大和朝廷にとっては大変なことになったわけである。対外的には唐と新羅の反撃を恐れて、百済の亡命将軍、軍人などにより対馬から北九州瀬戸内海沿岸さらには倭国に高安城等のいわゆる朝鮮式山城を多く築いた。また内政面では、対馬から九州の太宰府へ、そして大和までへと烽〔とぶひ、のろし台〕の制度を作り、対馬、壱岐、北九州一帯に防人を置いた。それでも安心ができなかったのであろう。中大兄皇子〔後の天智天皇〕は都を飛鳥から近江の大津京に遷都までしている。これまでの定説によれば、茨城と常城はそういう国際的な緊張関係によって、大和防衛のために備後国に築かれた朝鮮式山城であるといわれてきた。 私の見方 私は、茨城と常城はこの白村江の戦いはまったく関係なく、また朝鮮式山城ではないとみる。 大和朝廷は六八一年飛鳥浄御原令や七〇一年の太宝の令を中心とした新しい法令の施行や施策など中国の唐を手本とした近代的な律令国家作りに努めてきた。その過程のなかで大和朝廷はいまだ完全に服従していなかった吉備国の弱体化を謀り、これを完全に併呑する一手法としてまずは備後の国の分離、独立を狙った。 さらには備後国を安芸国以西のいわゆる遠国を押さえる拠点と位置付けて備後地方には中央から強力なエネルギーが投入されたが、茨城、常城はその流れのなかで登場してきたものである。すなわち茨城、常城は唐及び新羅からの反撃に備えた朝鮮式山城ではなく、大和朝廷が律令国家体制作りの一施策として備後国に設けたものである。 その理由を述べよう。 理由のその一 年代の推移、国際関係及び軍備の状況など 六六〇年の百済滅亡から七元年の茨城、常城停む迄には、およそ六〇年の歳月が流れている。その間へ日本には斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正と天皇は八代、唐は高宗、叡宗、則天武后、中宗、叡宗、玄宗と六代、また新羅でも武烈王、文武王、神文王、孝昭王、聖徳王と五代の元首が代わっている。 その間、唐にあっては吐蕃が六七〇年と七一〇年の二回、突厥は六九一年にそれぞれ唐国内に侵攻し、また渤海は高句麗滅亡後の遣民と共に唐に反抗して震国を建国した。さらには六八〇年代後半には国内が内乱状態になり、唐王朝唯一の女帝則天武后が即位するなど、西戎、南蛮、北狄の外敵の対応などに逐われて、とても日本にかまっていられる状態ではなかった。 一方新羅は、唐と連合して六六三年百済を、続いて六六八年に高句麗を滅ぼしたものの、唐がそのまま朝鮮半島に居座ってしまったために新羅は六七一年日本と和睦して後顧の憂いを断ったのち唐と戦い、朝鮮半島から唐を追出して六七六年に大同江以南の統一新羅国を誕生させた。それ以後七一九年までの間、新羅からの使者来日は二八回、日本から新羅への使者は一三回と、各々緊密な国際関係が維持されており、その後八世紀後半までは新羅と日本の間で、戦争がおこるような緊張関係は存在していない。したがって六六三年の白村江の敗戦に備えて七一九年に茨城、常城を築城したというのは、いかにも間が抜けている。 その証拠にその間の大和朝廷の軍備の増強整備の状況をみてみよう。前記のとおり白村江の戦い以来大和朝廷は、唐と新羅の連合軍による反撃を恐れて各地に朝鮮式山城を築き、烽〔とぶひ、のろし台〕を置き、そして防人の制度を創った。また近江の大津京に遷都までしている。このような防衛線の確立は六七〇年迄である。 一方反対に軍備を縮小しているのは、まず続日本紀に 七〇一年八月二六日 高安城を廃止し、その建物や種々の貯蔵物を大倭、河内の二国に移貯した とでてくる。この高安城というのは六六七年に唐と新羅の反撃に備えて大和と河内の境の高安山に築かれた朝鮮式山城である。これを廃止しているが、その理由はよく判らない。 さらにまた続日本紀にはもうひとつきわめて重要な記事がある。 七一九年一〇月一四日 京、畿内および七道の諸国の軍団と大毅〔部下千人を持つ指揮官〕、少毅〔部下五百人を持つ指揮官〕、兵士などの定数を地域に応じて減少させた。ただ志摩、若狭淡路の三国の兵士はそれぞれ廃止した。 という記事である。ここにある畿内および七道の諸国というのは、大宝の令制で定められた全国五八国三島〔ここでいう国とは、たとえば備後では安那国、品治国を指し、三島は対馬、壱岐、佐渡である〕を指している。また茨城、常城停むの記事は同年の一二月一五日付けであるからわずか二ヶ月前のことである。それからみるとこの二つの記事は、その刻の大和朝廷すなわち元正天皇がうちだした兵士を削減、廃止し、そして茨城、常城の軍事施設の維持も止めたという全国的な大軍縮政策を意味しているのである。 それらを総合的に判断すれば、さきの高安城の廃止と共に、その頃の日本は北の蝦夷、南九州の隼人族の問題は別として、大和朝廷の勢力範囲内においては一応の律令国家体制が整い、治安も確立して主力を軍備の増強、整備から内政の充実と、方針を大きく切替えたものではなかろうか。 理由のその二 地元伝承に残る、朝廷軍の備後進攻など 備後の国南部にある名峰蛇円山〔標高五四五、八㍍〕周辺には、その頃大和朝廷〔元正天皇〕が大軍を送りこんで王命に叛いた賊党を平定したこと、またその後複数の城を築いたことなどを伝える諸々の伝説が残っている。これを次に紹介しよう。 伝説その一 猿ケ城伝説  出典 西備名区 五三巻 山谷に古城地の如き処あり。語り伝。古へいつの頃にや、此処に古猿住みてその友を集め、人を誘い誑かし、終に大家を構え、数百の大猿人と化し、遠近の夫人をたぶらかし、唱誘ひ入れて、帝王の如く王号を称し、夫人をば皇妃と称す。また四方の山賊これをよき事とし、此処に入りて手下となり、畜生を主として恥とせざるの溢れ者集まり、近郷に災いをなす。国司、是れを聞きおわされ、軍兵を向かいたまわりしかども、山岳重畳にして、その居巣を攻めることあたわず。幸いなるかな、この山方三四里、草木大いに生ひしげり、斧鉱をいれる事なければ枯枝枯葉満々たり。ここに四方より火をかけたれば、満山一面の炎となりてその居巣に吹きかけたれば、溢れ者も猿も煙にむせび、炎に焦れ、城内一面に焼体倒れ臥す。 〜 以下略 〜 これは、西備名区五三巻、すなわち芦田郡藤尾村の条に載っている記事である。今でも新市町金丸の北はずれ、神谷川の向かいに猿ケ城という山があり、ここでは神谷川の蟹をもじって地元では猿蟹合戦の伝説が伝わっている。この伝説によれば年代は判然としないが、備後の国司と地元の勢力者との間に戦いがあったことが伺われる。 伝説その二 吉備国賊王命に叛き都より討手の事  出典 備後太平記 二巻 〔備中府志に載〕 人皇四四代元正天皇、養老元丁己〔七一七〕年、備州の賊党共、王化の命に叛いて国中に横行す。頗る庶民騒動に及ぶ。急ぎ討手の御大将下さるべしとありきれば、帝叡聞きまして、即夷□□□□□□宣旨を下して、按察使恵美朝臣朝獦、見雲真人等諸勢を率いて節度使進発す。その時備州の賊党、軍を分けて迎え戦うといえども官軍の勇鋭にもみ立てられ、一戦に討ち負け散々に敗走す。その逃げるを追ひしたうて悉く討ち取る。賎乱もすみやかに静謐にて諸人悦びをなす。既に各々城廓を築き、居城したまひける。またの日神亀甲子元〔七二四〕年按察使兼守将軍従四位上大埜朝臣東人をおくところなり。 この伝説は重大な意味を持つ。すなわち茨城、常城停むの二年前に元正天皇が備州に軍隊を派遣し、王命に叛いた者を討伐したこと。またその後、各々城廓を築き、討手の大将をそこに居城させたこと。さらには七二四年に大埜東人を按察使としてそこに置いたという。〔この大埜東人は天武朝の朝臣大埜果安の子とみなされ、七一四年新羅の使者来朝時に、平城京門外で騎兵隊一七〇騎を率いてこれを迎えている。七四二年従三位で没。また按察使の制度ができたのは七一九年である。恵美朝臣朝獦とは、藤原不比等の孫押勝の子である。また見雲真人については秦性不明である。〕ところでこの記事によれば、この戦いは吉備の国のどこであったのか不明である。ところが次の伝承があった。 伝説その三 神石郡父尾龍王由来之事   出典 備後太平記 松浦大明神伝説 出典  西備名区 両者共に伝承の内容は同一であり、また備陽六郡志にも同様の記事がある。この文章は人王三代安寧天皇即位元年から始まって、代々の備後の藤尾村父尾谷の歴史を延々と説くものであるが、その中に その頃恵美朝臣国造を賜り、見雲真人、大野東人等此国に下りて守護し給う とある。よってそれをみると、前述の「吉備国賊王命に叛き都より討手の事」は場所は福山市北部の名峯蛇円山の西から北側の山麓付近であったことは明白である。 理由のその三 その頃備後の国が独立 上記のとおり、「地元伝承に残る、朝廷軍の備後進攻」があったと認められる頃に、備後が吉備国から独立している。それを見てみよう。六七二年、壬申の乱のとき吉備国守当摩公広嶋が大友皇子の手の者に殺されている。よってこの年にはまだ吉備国であった。 六七三年、三月一七日、備後国司が自雉を亀石〔神石〕郡でとらえて朝廷に奉った。目出度いということでその郡の課役が免除され、全国に大赦令が出されている。これが日本書紀では備後国の初見である。それでは、それ以後備後国が続くのかといえばそうではない。 六七九年、吉備太宰石川王が病で吉備で薨じた。この石川王については項を改めて後述する。そして六八二年には、信濃国、吉備国が共に五穀不作と報告したと依然として吉備国が続く。ところが六九七年、播磨、備前、備中、周防、淡路等、国飢えたとあり、これからみると当然に備後国も誕生していたと思われる。これが備前へ備中の初見である。 また藤原京跡〔六九四―七一〇〕出土の木簡には、六九九年一〇月の日付で「吉備道中国加夜評」、さらには「吉備中国下道評二万里」とあるのも見つかっている。 備後国の独立については記録はなにも残っていないが、それらを総合的に検討してみると、日本書紀に最初に備後国名が出てくる六七三年顔ら六九〇年代始め頃迄の間に、吉備国から分離独立したというのが現在は定説になっている。 理由のその四 初代の国司は備中より備後国司が上位である 律令国家体制がようやく整った七〇八年に、各国に初めて国司が任命派遣された。それをみると備後国司の佐伯宿祢麻呂は正五位上で、備中国司多治比真人吉備は従五位上にすぎない。七一九年按察使が設置された。この按察使とは、全国を三、四ヶ国に区切り、その中の最上位の国司を按察使として部下の国司を観察し、非違があれば譴責、徒罪以下を断決し、それ以上の罪は記録して奏上する、また併せて各国司の勤務評定も行なうことを職務とするものである。初め播磨国司が按察使として備中国司をみていたが、備中国司は二年後の七二一年には安芸、周防を管掌していた按察使の備後国司傘下に組み込まれている。また七三二年備後国司は従五位上であるのに対し、備中国司は七三四年従五位下であり備後国司が依然として上位であることはその後も変わってはいない。これをみてもその頃の備中国より備後国が、格が一枚上であったことが充分伺われる。 理由のその五 最大の決め手、「横口式石槨墳」及び「八角墳」等の存在 備後国南部には、古墳時代の終末期古墳に含まれる謎の横口式石槨墳や八角墳等が存在する。即ち 福山市加茂町下加茂 猪の子一号墳 福山市芦田町下有地 曽根田白塚古墳 芦品郡新市町常芦浦 尾市古墳 がそれである。さらにはやはり同時代の畿内型古墳である花崗岩切石を使った横穴式石室を持つ古墳も、大佐山白塚古墳、大坊古墳、北塚古墳などその周辺に多々存在している。 なかでも尾市古墳は、整美な花崗岩切石による石組みや、石面全体に漆喰を塗布していること、前面は八角形を指向した多角形であり、なかでも最大の特長としては単次葬における複数埋葬施設である三石槨〔前の羨道を加えると十字形となる〕を持つなど、きわめて異質な古墳である。なぜ古墳時代の終末期にこのような特異な横口式石槨墳や八角墳が出現したのだろうか。その理由を説明しよう。 大和朝廷における六世紀後半から七世紀始めにかけての政治形態は、大王家を中心とした多くの有力貴族や豪族による古い部族連合的な政治体制であった。彼らは各人が小さいながらも古墳を造り得るような実力を持ち、それは必然的に個人墓から家族的、同族的な群衆墳への造営という形で現れた。それが六世紀後半から六四五年の大化の改新による物部家や蘇我家の解体などにより、政治体制が大王家による直接的な屯倉の設置など王権の中央集権的な直接支配へと移行するにつけて、自らの大王墓をも含めた群小古墳の造営規制となってくるのである。 六四六年三月に大化の薄葬令といわれる長文の葬制、墓制に関する詔が発せられた。これは身分によって墳丘や石室の大きさ、役夫の数などを規制するものである。これによると例えば 皇族以上の者の墓は、玄室の長さ九尺、巾五尺。外域は縦、横共に九尋、高さ五尋、役夫は千人、七日で終了。 上臣の墓は、玄室は皇族以上の者に準じる。外域は縦横共に七尋、高さ三尋、役夫は五百人、五日で終了。 大仁、小仁の墓は、玄室の長さ九尺、巾高さ四尺、封土なく平坦、役夫は百人、一日で終了。 庶民の死者は、土中に埋めよ。一日もとどめることなくすぐに葬れ。 というものであり、この禁令を犯した者は必ずその一族を処罰するという徹底したものであった。これにより従来の古墳に比べると、古墳はいちじるしく縮小、簡素化され、また群衆墳も逐次終末の方向へ向うのである。そしてその結果は大王家の古墳なども、埋葬施設は順次前室や羨道を欠いた石棺式石室、すなわち横口式石槨へと変化している。 またその頃から墳丘の造り方にもおもしろい傾向が現れてくる。すなわち蘇我系の王や貴族たちは競って方墳を造るのに対して、大王家の血統の純粋性を維持しょうとする王族にあっては、墳丘が八角墳化してくるのである。はっきりと八角墳だといえるものは 段の塚古墳 三四代 舒明天皇陵 御廟野古墳 三八代 天智天皇陵 野口王墓古墳 四〇代四一代 天武持統合葬陵 また八角境の可能性の高いものとしては 中尾山古墳 四二代 文武天皇陵 束明神古墳 天武持統の子で文武天皇の父である草壁皇子陵 岩屋山古墳 三七代 斉明天皇陵との説がある がある。以上これらの古墳はすべて奈良、京都に所在するが、これ以外の地方では、主なものとして 中山荘園一号墳 宝塚市 神保一本杉古墳 群馬県吉井町 尾市古墳 広島県新市町 などが八角墳と指摘されている。 この八角墳出現の理由としては、古墳の造営が種々規制された中であっても、大王ないし大王家は一般の豪族からははるかに超越した存在であることを明確に意識して、八角墳こそが大王家固有の墳墓形式であることを対外的につよく主張したものとみられている〔白石太一郎「古代を考える古墳」ほか〕。また八角墳造営の背景的思想としては、仏教思想説、道教思想説、および四角四隅説など多様である。 このように尾市古墳は、八角墳そして三石槨をもつ横口式石石槨墳〔斉明天皇陵といわれている牽牛子塚古墳は二石槨である〕であることを思えば、まったく大王家に匹敵する得意な古墳といえよう。しかもその周辺には、前記のとおり他にも多くの機内式そのものと認められる横口式石槨墳や横穴式石室を持つ古墳が存在している。旧吉備国の備前、備中では類をみないこれらの古墳が何故に備後国南部に多く残っているのだろうか。それはその頃、大和朝廷から大王家に属する人をはじめ多数の有力官人がこの地方に派遣されて没したことを意味しているのである。 謎の石川王について ここで問題になるのが石川王である。日本書紀によれば六七九年三月九日の条に 規模太宰石川王は病で吉備に薨じた。天皇〔天武〕はこれを聞いてたいへん悲しまれ、恵みふかい言葉を賜れて、諸王二位を贈られた とある。石川王とは出自ははっきりとしないが、おそらく何れかの天皇が妥女に生ませた皇子だったのではなかろうか。壬申の乱では大海人皇子〔天武天皇〕側についていた。当時は律令国家の創造時であり、初期の国司制度を補強する目的で各地の政治的拠点となるところに数カ国を統括る総領制度が設けられた。これを太宰という。筑紫太宰〔後世には遠つ都と呼ばれていた太宰府の前身〕、周防太宰、伊予太宰及び吉備太宰などがそれである。この時石川王は吉備太宰として備前、備中、備後〔一部播磨も所管したとの説あり〕を統括していた。そしてその拠点は備後に置き、備後で亡くなったとの説が強い。西備名区によれば石川王は吉備太宰として備後国の国司も兼ね、備後府中で善政をひいた。死亡後人々はその遺徳をしのんで府中の近くに祠を建て、国司の社として祭ったとあり、その神社が福山市芦田町の国司神社だと伝わっている。 石川王は吉備太宰としての拠点を何故備後に置いたのだろうか。考えられるのは次の諸点であろう。まず備中と備後の力関係である。なるほど政治形態が天皇はただ祭祀権のみを持ち、有力な豪族は連合体制により行なわれていた時代では吉備王国の力関係は圧倒的に備後より備中のほうが優勢であった。ところが時代が代わり、大化の改新で蘇我氏の滅亡後は天智天皇以降律令国家体制がとられて直接天皇が政治を牛耳ることとなった。この時代では備中と備後の力関係は明らかに逆転をして落日の備中と旭日の備後となったはずである。その証拠には、その頃時代を同じくして備中の国に茨城、常城に比較すればはるかに巨大な鬼城、大回り、小回りという山城が築かれているが、これは続日本紀にも全く書かれていない。当時の大和政権には備中の国は眼中になかったのである。つぎは住民対策としてである。律令国家体制づくりは社会制度そのものを大変革させることであり貴族、豪族そして庶民の生活は大変化した。まずは公地公民制で土地や民は国有化された。庚午年籍が作成されて郷里制となり、民には調、庸、租の物納税や雑徭、兵役等が課せられ各地で住民の逃亡や暴動が起きた。それらの鎮圧、そして安芸国以西の遠つ国に脱みをきかせて、かつ九州との往来を確保するためには、石川王は地形的にも備中より備後を選んだのではなかろうか。 まとめ 以上長々と茨城、常城についての私の観方、及びその理由を述べてきた。私はこれらの理由、判断要素から白紙の観点で「音なきを聴き、形なきを観て」茨城、常城は白村江の戦いには関係なく、大和朝廷が律令国家創成の一手法として備後国に設けたものとみたのである。 それでは最後に茨城、常城は何処に有ったのだろうか。もちろんその場所が今日まで特定されていない以上、あくまでも推定の域を脱し得ないが私の見方を述べておこう。私は茨城、常城は吉備王国と西国との交通、連絡を断つ要所に有ったと観る。というのは常城は陸路の要点、そして茨城は海路の押さえとして有ったのではなかろうか。 まず常城は当時の陸路、山陽道の要点にあったと観た場合を考えてみよう。ポイントは、前述の理由のその五「横口式石槨墳や八角墳等の存在」で述べた古墳の位置がヒントである。芦品郡新市町常の芦浦谷にある尾市古墳の周辺が、大和朝廷派遣軍最高指揮官が所在していた場所つまり常城である。この芦浦という地名は、広島県史〔原始、古代編〕に 古代畿内に、葦浦臣あり〔新撰姓氏録〕、その一族の居住によるものであろうか。 と由来が載っている。そこと出雲街道の押さえには福山市加茂町下加茂に所在する猪の子古墳の被葬者が、さらに松永湾方面に通じる街道の押さえとして同市芦田町下有地の曽根田白塚古墳の被葬者が前線指揮官として部隊配置されていたとの推定はどうだろうか。 さらに海路の押さえとしての茨城は何処に有ったのだろうか。それを解明するためには、まず当時の海岸線を把握しなくてはならないが、どなたかご存じのお方は居られないか。ちなみに七一二年に、備後国の安那郡が分割されて深津郡が置かれているから、現在の深津郡を含めて調べなければならないが、広島県史〔原始、古代編〕に大変おもしろいことが載っている。それは深津郡は中海、大野、大宅の三郷で独立したが、この大野という地名について 大野と称する地名は郡、郷だけでも全国に三十余に及ぶ。新撰姓氏録の大野朝臣の一族の居所というのも付会の説であろう。 という記事である。これは前述の理由のその二の中の、伝説その二「吉備国賊王命に叛き都より討手の事」を見て戴きたい。そこには 元正天皇が備後に軍隊を派遣し、賊を平らげ、各々城を築き、またの日、七二四年大野朝臣東人を置いた とある。もしこれが同一人物ならば茨城の蔵王山説が断然有利となる。それはさておき日本書紀によれば 六五〇年倭漢直県などを安芸国に遣わせて百済船二隻を造らせた 六五八年沙門智踰が指南車を造った 六六〇年皇太子〔天智天皇〕が初めて漏刻を作った とある。指南車とはつねに南を示す機械を車に積んだものであり、漏刻とは水時計のことである。この頃人々は方位、方角と時間の観念を知り航海術が非常に発達した。したがってこの茨城の頃には陸路よりむしろ海路の押さえが重要であった。現在の私の知識では茨城の場所は、豊元国先生の指摘された福山市蔵王町の蔵王山説が魅力的である。その山麓には、六世親後半と言われているから多少年代はずれるが、千田町大迫の千塚古墳群〔現在は消滅〕がある。福山市史上巻には、そこに接続する一地に 広範囲に布目瓦が分布し奈良期の火葬墳の骨壷の出土をみるなど、寺院跡と推測される点が多い。 とある。さらにその南には茨城の守護寺だったのか、東に塔、西に金堂を配した伽藍配置の法起寺式の国史跡の海蔵寺跡といわれる宮の前廃寺と、その寺の鎮守であった生土八幡があり、その付近一帯は門前町として深津市が大繁盛をみせていた。そこには常城を守る兵士達が多く詰めていたのであろう。彼らは紀州の出身だったのか、そこには夫の無事を願って奉納された「紀臣石女」、「紀臣和石女」、「軽部君黒女」などの名を書いた文字瓦が多く出土している。黒岩重吾さんは古代史への旅のなかで その頃、紀氏は物部氏、穂積氏と共にきわめて有力な軍事氏族として代々の大王家に仕えていた。 と云っている。またその西側、蔵王山の山麓に原山遺跡がある。現在は畑作地であるが、ここに南北に五、五㍍で四個、東西七、六㍍の間隔で二列に基礎石が並び、布目瓦と共に発掘されている。福山市史上巻では この遺跡より出土する軒平瓦が海蔵寺跡と同型でなんらかの関係を暗示するが、廃寺跡なるやも断定下しえない。少なくとも海蔵寺塔同時の建立で、天平期の建築は間違いない としている。 どう考えてみてもこの蔵王山付近が臭い。茨城の匂いがぷんぷんしてくる。この千塚古墳群付近、海蔵寺跡、原山遺跡などほどの説でも廃寺跡との見方をしているが、いずれにしてもこの付近を茨城に詰めていた兵士達の屯した集落跡、陣営跡と見てはどうだろう。ここら辺りの年代は何れも白鳳期や天平時代であり、常城、茨城停むの七一九年前後に矛盾はまったくない。常城の推定地を含めて、なんらかの手がかりでも発見されれば大成功である。なんとか我々の手でその断片だけでも発見したいと思っている。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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