2010年10月22日

今大山城の城名について(判明した遍照寺山城の山号)

今大山城跡

 

神辺町西中条の遍照寺裏山に所在する中世山城跡を、「今大山城」として紹介したのは、平成二二年九月、備陽史探訪の会創立三〇周年記念誌『福山の遺跡一〇〇選』が最初である。『神辺の歴史と文化』(神辺郷土史研究会)、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』(広島県教育委員会)などの先行書では「遍照寺山城跡」として報告されている。

今回我々がこの城跡を「今大山城跡」として紹介したのには理由がある。

まず、伝承だが地元で城跡の存在する山が「今大山」と呼ばれていたとする古老の証言があることだ。次に、城跡の中に位置すると言って良い遍照寺の山号が、かつては「今大山」であったことである。

現真言宗遍照寺の山号は「黄龍山」だが、寛永一六(1639)年に同時が福山藩に提出した由緒書の控えである『水野記』所収「寛永寺社記」によると、

遍照寺は「今大山遍照寺 真言宗 西中条村にあり、元久年快知法師の開く地なり、古来寺領八十貫兵乱によって破壊、それ以後宮忠興再興すなわち弐拾五貫を寄す、福嶋氏に至って之を没収す」とあり、「今大山」が本来の山号であったことがわかる。

「今大山遍照寺」は、文明三(1471)年六月の「西国寺不断経修行勧進並びに上銭帳」(西国寺文書)に「今大山寺衆 壱貫文 惣中」とある「今大山寺」と同じ寺を指すと考えられ、起源は室町中期にさかのぼる。

なお、この西国寺文書に見える「今大山寺」を神辺町川北の大仙坊薬師堂に比定する考えもあるが誤りであろう(高垣敏男『神辺町史』前編)。川北の薬師堂の寺号は「御浜山長福寺」であって、廃寺になった後、残存した薬師堂の「堂守」が「山伏大仙院」であった。西国寺の「不断経修行勧進並びに上銭帳」では、「今大山寺衆」は同じ神辺町東中条の「広山寺衆」、同町西中条の「寒水寺衆」の間に記載され、川北の「長福寺」とするよりも西中条の現遍照寺とする方が自然である。

更に、この城を「今大山城」とすることによって、城の遺構の特異性と地域の歴史を無理なく理解出来る利点がある。

実は、「今大山」城の名は中世文書にただ一点だけ登場する。しかも備後宮氏の惣領筋の家の一つ、「宮上野介家」の居城としてだ。『萩藩閥閲録』巻六七「高須惣左衛門書出文書」中の六月七日付渋川義陸書状がそれだ。

この文書は、永正十四(1517)年夏、出雲尼子氏の備後侵入で起った混乱に対して、御調八幡の渋川義陸が芸備の有力国衆と共にその鎮圧にあたった際に出されたものである。その中で義陸は「今太山へも今朝人を遣わし、宮上自身出馬される事が肝要だと申し遣わした」と述べている。「宮上」、すなわち「宮上野介実信」のことである。義陸の妻は宮上野介の娘であったから(天文日記)、これは婿が舅に援軍を要請したことを伝えたもので、「今大山(ここでは今太山とあるが)」は舅宮上野介の居城と見ていい。

以前に述べたように、今大山城の縄張りは宮氏の居城に特徴的な「二つの本丸」を持っている。また、周辺の中条、道上(石成庄)一帯は、戦国期まで宮氏の強い影響力下にあった地域である。渋川義陸書状に見える「今太山」が神辺町西中条の「今大山城跡」であることはまず間違いないであろう。