2014年06月01日

備中高松城水攻戦 ~地名から見た水攻め~

備陽史探訪:178号」より

佐藤 貴洋

お昼は有名な高松城址で

 天下統一を目指す織田信長は羽柴秀吉を中国方面軍総司令官に任命し、毛利氏征討戦を行った。秀吉軍は備中にまで進出し、高松城を二度に渡って攻撃するがこれを攻めあぐねた。そこで秀吉の軍師・黒田官兵衛孝高が、城の南が開けた地形を生かしてそこに堤防を築き、西側の足守川から水をせき止める「水攻め」を進言した。黒田家の公式記録書である『黒田家譜』にはこうある。「此城の形勢を察し見るに、地形ひくくして二方は山近く、中に川流れたればせき止めて水攻にするにしかずとて、城の二方三十余が間に提をつかせらる」。官兵衛は備中へ進出するにあたり、前々から当地の地勢を詳しく調べさせていたという。また『溝江文書』五月十九日付の羽柴秀吉書状には、「廻に提を丈夫につかせ水責に申付候 はや端城の土居を水打越候」と水攻めの様子を鮮明に伝えている。

 水攻めを行う際に水を引き取る方法について『高松城攻之物語』に二つの説がある。一つは約二千人が手をつないで水中に入り、水圧を弱めて、すかさず土俵を積み上げてたちまちダムを築くというもの。二つ目は『黒田家譜』によると、石を積んだ舟を鎖のように隙間なくくっ付けてつなぎ、舟底に穴をあけて沈没させ、そこへ補強を施したというものである。堤防を築くのに十二日間に及ぶ長期の大土木工事を必要として、工費も米六万三千五百石、永楽銭で六十三万五千四十貫文という莫大な数字であったという。使用した土俵数も六百三十五万個といった途方もない数であった。一俵につき銭百文、米一升という好条件で人夫を募ったため、大勢の土民が集まったとある。

 また『武将感状記』には五月十九日、足守川は増水しており、工事は門前町から蛙ヶ鼻まで二千六百メートル、高さ六・五メートル、基底二十メートルの堤防をわずか十二日間で完成させ、(築堤は上流部分と下流部分だけだったという説がある)足守川の上流を塞き止め水を流し込み、わずか一日で城は湖に浮かぶ島のようになったとある。

 この時の様子を秀吉の下にいた佐久間常円という人物が、秀吉は一夜のうちに塀をかけ、五十間(90.5m)ごとに櫓を設け、城兵の妨害に弓鉄砲で応戦しながら、塀の陰で作業していた、と後に語っている。障子に白紙を貼ったものを並べて白壁に見せかけたとも言っているが、これは後年小田原攻めで使ったとされている手である。また毛利の家臣・玉木吉保は自伝のなかで、秀吉の陣所に忍び込んだところ、五重の天守があったなど突拍子もないことを書いている。要するに、この戦いで秀吉軍は山のない西南部にだけ大きな提を築き、毛利の軍勢が向かってくる側には厳重に備えがされ、兵士が隙間なく配置されていたとある。また、内側は大海のようになって、たくさんの船が運び込まれ大小砲が撃ち込まれていた、という。城内側からは蛙ヶ鼻からの築堤工事は見ることが出来ても堤防上の塞き止め工事は見ることが出来ないからいったい何の工事をしているのか見当がつかなかったのであろう。

地名・地勢から水攻めを探る

 江戸時代の儒学者・小瀬甫庵の『太閤記』には、「かくて城の廻り三里か間提をつかせられけるに」とある。12㎞もの大堤防をわずか12日間で築いたという。『太閤記』の記す12㎞は誇張にしても、秀吉の築いた堤防はおよそ2、3㎞という伝承が伝わっていた。しかし、近年の研究ではその説すらも覆され、実際の堤防はそれよりさらに小規模なものであったという。その理由についてはいくつかある。

 まず、一つ目は12日から19日間という短期間であること。二つ目は、付近が盆地状の地形になっており海抜高算出では盆地の隙間300m提を築けば十分であること、などである。それをよく表すのが、『吉川家文書』の一節にある。そこには「下口をつき塞ぎ候て責申候」とある。下口とは蛙ヶ鼻をあらわす。

 そしてこの戦いでよく言われるのが高松城の一帯は低湿地であるため羽柴軍が攻めあぐねた、ということである。なぜ高松一帯は低湿地であったのか。私は中学生の頃より高松城の水攻めについて、高松一帯の地名から探ってきた。

 まず高松から東には板倉村、西は中島・原古才両村、北は平山村に接している。そもそも「高松」という名前の由来は、岡山平野一帯が古代より「吉備の穴海」と呼ばれる海で、高松は「多賀間津」と呼ばれる港であったという。高松から東に行くと吉備津神社で有名な吉備津という地がある。これも「津」という名前があることから古代吉備国の時代の主要な港であったことが窺えられる。また、西側の原古才という地名は古代朝鮮語で「パラ(パル)コシャ」、(上陸)という意味だといわれる。渡来系集団がこの地に上陸していたのであろう。他に蛙ヶ鼻堤防遺跡で有名な蛙ヶ鼻は、古代から陸地化して、川が形成されてゆく段階で、「川の津」が、「蛙」に変化したのではと思われる。鼻というのは突端を意味する。つまり、蛙ヶ鼻の堤防は山の先端を利用して新たに人口の提を築き繋げたのではないかと私は思う。この周辺は「水越」とも呼ばれ、前々から雨や洪水で流れた水がこの辺りを通っていたことになる。そして高松の戦いでは羽柴秀長陣であった鼓山は、海岸線であったときにこの山から津々を見ることが出来るため津々見山になり、鼓山になったといわれる。立田という地は低湿地が多く、立田沖は葦が多く生えていて、昔は鶴が生息していたため多鶴田が立田に転化したのではないかと思われる。以上、地名から考察した高松一帯の地勢についてである。

 このように高松一帯は元来より低湿地な地勢であり、『吉川家文書』にある下口、つまり蛙ヶ鼻及び水越から南300mほどを提で塞げば良かったのである。高松城より南西で現在では180号線沿いのかつての堤防は、河川の流路に沿い土砂が堆積した自然堤防であり、その背後、つまり高松城一帯は水はけの悪い後背湿地として広がっていたのである。このことから秀吉軍は蛙ヶ鼻以外の堤防は自然地形の提を利用したものと思われる。地元出身の江戸時代の地理学者・古川古松軒が、築かれた堤は三百メートルくらいであったと、図上で説明している。かれは現地をよく知っていたということだけでなく実証的な学風で知られた人で、鋭い指摘をすることで有名であった。

 また昭和60(1985)年に高松地区は大雨により冠水状態となったが、それはまさしく秀吉の水攻めの再現と言える。降雨の際には排水ポンプで水害を防ぐほどである。この洪水では足守川からの流れ込みはなく、城跡周辺が洪水を招きやすい地形と地質であることを証明する。 水攻めは時間と手間がかかる。堤防を築き、城が水没するまで水を溜めなければならない。この水攻めの効果が上がる前に、毛利軍の主力が後詰に来て、秀吉軍を襲う可能性がある。秀吉軍には、毛利主力の後詰軍を牽制しつつ、高松城包囲を行える実力があったからこそ、長期攻略策をとることが可能であった。秀吉は備中高松城での水攻めがよほど気に入ったのか、尾張竹ヶ鼻城、紀州太田城と三回実行しており、武蔵忍城では石田三成に指示してやらせている。天下へと駆け上がる節目ごとにこの“水攻め”を行っているように思えてしまう。それほど秀吉にとって高松の水攻めは思い入れが深かったのであろう。