2010年09月01日

正戸山城跡(福山市御幸町大字上岩成)

福山の遺跡一〇〇選」より

坂本 敏夫

正戸山城跡

正戸山城跡

国道一八二号線を北上し県道新市御領線(古代山陽道)との交差点を左折すると約四〇〇m先に見える小山が正戸山城跡である。

遺構の概略は、山頂部から主郭、主郭東側に第②郭、主郭西北部に第③郭、東の第②郭に接して第④郭、通路を挟んで第⑤郭、主郭北側切岸下に井戸跡と井戸郭の残欠遺構らしきものが残っている。なお東北部には、かつて郭を含めて各種の遺構があったものと考えられるが土砂の採掘により尾根全体が消滅しており、遺構は不明。大手口は、現在の登坂道を登ると第⑤郭入り口に、違い虎口らしき痕跡が残存しており、この場所と考えられる。

主郭の虎口は、主郭東側中央に痕跡が存在し、②郭を経由して主郭に至ったものと考える。主郭上部は神社・簡易水道水源槽・昭和天皇行幸等により改変破壊されており、主郭上と主郭外辺部の遺構残存状態が極めて悪く、現在の登山道は、神社建立・天皇行幸時に整備改変された道であり、当時の登城道としては疑間が生ずる。西側は、簡易水道本管の敷設・管理により、改変と花崗岩質の風化に伴う自然崩落によって、また、東側と南西部は、崩落防止工事により、遺構が不鮮明となっており、如何なる構築がなされていたか不明である。

山頂からは、神辺平野西部・南部、東部・加茂谷筋等が一望にでき、その上、麓を古代山陽道が東西に走り、古代山陽道からは、備北神石郡方面への道が近接地で分岐していた。城が使用されていた当時は、南約一kmで芦田川と高屋川・加茂川が合流する水運の要の地が望め、城の北側水田字地名は、湿田を表す「池田」となっており、東側山麓部分には、昔の加茂川流路を示す古川地名が伝わり、地理地形的に築城地として適地であった事が窺える。

正戸山城については、「三吉鼓家文書」に見える中世の「勝戸城」「岩成上下城」の下城に比定されている。現在は「深安団地」となった往時の洲成山には、北東部分(現在の一八二号部分)に五段の郭、道上西組共同墓地(通称新墓地)との間が堀切状となっており、幅約一m・長さ三m程の土橋が残存していた。新墓地には郭跡と思しき段差と平地が存在していたが、現在は切り取られて国道一八二号線となってしまった。地名として「勝負側」も伝わっており、その上新墓地の小字地名は「勝戸」となっている。以上から「三吉鼓家文書」に見える「勝戸城」と正戸山城が同一とは考えられない。

城主、築城者については、江戸時代に記された『備後古城記』『西備名区』などに、宮人道正味、宮刑部少輔信政、栗原左衛門尉信教、高橋権右衛門種義などが記されているが、何れも確証はない。

【正戸山城跡】