福山の遺跡一〇〇選」より

神谷 和孝

宮の前廃寺跡
宮の前廃寺跡

福山市中から東方に向って行くと福山東インターチエンジに入る手前の右側(東側)に小高い丘がある。そこに鎮座する蔵王八幡神社の参道の石段を登って行くと左側に金堂跡・右側に塔跡と宮の前廃寺の遺構が見えてくる。

かつてこの八幡さんの建つ小高い丘陵地帯と、それに対峙するようにそびえる蔵王山の麓の間には波静かな入海が形成されていて、宮の前廃寺跡あたりの前面は入海の最奥部で、港として発展した地域であった。このことは、昭和三一(一九五六)年に福山市に合併するまで、この地が「市」という村であったことからも推察される。

さかのぼれば『日本霊異記』光仁天皇の宝亀九(七七八)年の頃に記されている備後国深津市、「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」に見られる備後深津庄などとの関連も考えられ、中央ともつながる繁栄が偲ばれる。

この繁栄した地域の中で中心的役割を果たしていたのが宮の前廃寺であり、深津市はその問前市として栄えたと考えるべきであろう。

さて、この廃寺跡については、その名称、建立年代など、それを確証するものはみあたらない。ただ、江戸時代後期、福山藩士宮原直倁によって記された『備陽六郡志』に、

往古海蔵寺という寺有。當村の生土八幡は海蔵寺の廃跡、八幡の境内にありて礎、今に残れり

とあるのが唯一つの記録である。かつてはあたりの地名を字海蔵寺と言っていたこともあったと土地の古老は言う。

寺跡の存在が知られるようになったのは、昭和五年、早稲田大学の西村真次博士が奈良時代の「深津市」の調査のため来福の折にかつて寺の塔が存在したことを示す心礎を確認し、別の場所にあった礎石をもとの場所にもどすように指示してからで、昭和一八年に広島県史跡に指定され、戦後の昭和二五年最初の発掘が行われ、その後も度重なる調査によってその全容が明らかとなった。

調査の結果、塔跡は塼(セン・土で焼き固められた正方形のレンガ)で積み重ねられた縦・横ともに一二・六m、高さ一。二mの基壇で、東・西。南の三方に階段が設けられている。基壇上には塔の心礎が存在する。金堂跡からも埠で囲まれた東西二五・三m、南北一五・五mの基壇が確認された。出土した軒丸瓦、平瓦は府中市広谷の伝吉田寺跡、同市栗生町来栖廃寺のものと同一系統のものである。また、塔・金堂の配置が法起寺伽藍配置様式であることからその建立は七世紀後半の白鳳期だと推定された。

この寺院は金堂が平安時代に焼失、その後、塔も倒壊して再建されることはなかった。昭和四四(一九六九)年に国の史跡に指定され、小高い丘の上から眼下の蔵王町(かつての市村)の変りゆく様子を見つめている。

【宮の前廃寺跡】