進化する縄張図―山手町の銀山城を例に―

備陽史探訪:177号」より

田口 義之

銀山城跡縄張図4(福山市山手町)

中世山城の研究者が争って手がけるのが山城の「縄張図」だ。筆者も高校生の頃から、山城に登るたびに自分なりの縄張図を画いたものである。今それらを見直してみると、稚拙なもので、研究者としてそれらの縄張図を自慢げに発表したのが恥ずかしいくらいである。

だが、こんな稚拙な縄張図でも、次に登る研究者にとっては貴重なものである。先ず、大まかな情報が手に入る。もし、これらの縄張図が無かったらどうなるか。全山くまなく歩きまわった後、図を作成しなければならず、大変な労力と手間がかかる。現在最新の縄張図として公表されているものは、こうした先人たちの縄張図を叩き台として、その成果の上に描き上げられたものなのである。これは、他の学問と変わらない。先人の業績を無視して成果を独り占めするのはルール違反といわれても仕方がない。例を山手町の銀山城で見てみよう。

管見の限り、銀山城の縄張図を最初に発表したのは、松永の藤井高一郎氏を中心とした備後古城址調査研究会である。同会は「郷土に散在する古城址の実態を現況測量」「学究の基礎資料」とすることを目標として結成された郷土史団体で、昭和五二年一月六日、トランシツトを担いで銀山城に登っている。同会が作成した縄張図(図①)を見ると、山頂主稜線の曲輪群は正確に捉えられているが、東側尾根上の曲輪群は未記入である(注1)。
銀山城跡縄張図1(福山市山手町)

県内の山城研究に一期を劃した昭和五五年の「日本城郭体系」(注2)でも、銀山城の曲輪群は主稜線上のみ描かれている(図②)。備後古城址調査研究会作成の縄張図が同書に影響を与えたかどうかは不明である。1983年、小都氏が中心となって発刊された芸備友の会の「広島県の主要城跡」には銀山城跡は収録されていない。
銀山城跡縄張図2(福山市山手町)

東側の曲輪群を縄張図に記入したのは当会の前身福山ユースドマップクラブである(図③)。だが、この縄張図には「竪堀群」は一切記入されていない。当時(一九七二)はまだ畝状竪堀群は注視されておらず、山城の調査は稜線上の曲輪群を略測するのが通例であった(注3)。銀山城の縄張図に竪堀群が追加されるのは1995年、当会が発刊した『山城探訪』を待たねばならない。
銀山城跡縄張図3(福山市山手町)

なお、1995年3月に刊行された「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」第3集にも銀山城跡の略測図は収録されているが、この報告書では「備南中世山城跡の現状」は参考資料として挙げられているが、『山城探訪』は取り上げられていない。

先日の銀山城徒歩例会で、我々が最新だと思っていた『山城探訪』の縄張図も、完全なものではなく不備があることが分かった。地元の方のご協力によって山上の一部の雑木が伐採され、城跡の実態がより明らかになったためである。

山城の調査はより完全な縄張図を作成するための悪戦苦闘の歴史である。我会の中世史部会では、この銀山城を改めて調査し、より完全な縄張図を作成する企図があると聞く。是非、実行に移し、より精密な縄張図を公表してもらいたいものである。

【補注】

  • (注1)福山市立福山城博物館友の会だよりNo7「中世の古城調査―本郷城と銀山城―」藤井高一郎1977
  • (注2)新人物往来社刊、広島県内の山城は13巻に収録され、福山市内の山城は小都隆氏が執筆された。
  • (注3)この図面は1973年7月、「備南中世山城跡の現状」に収録されたものだが、一般には流布せず、「山城志 第8集」に収録されて一般に知られるようになった。
進化する縄張図―山手町の銀山城を例に―(福山市山手町)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b1976e7a375768e166e20b0c91bb4685.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/b1976e7a375768e166e20b0c91bb4685-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:177号」より 田口 義之 中世山城の研究者が争って手がけるのが山城の「縄張図」だ。筆者も高校生の頃から、山城に登るたびに自分なりの縄張図を画いたものである。今それらを見直してみると、稚拙なもので、研究者としてそれらの縄張図を自慢げに発表したのが恥ずかしいくらいである。 だが、こんな稚拙な縄張図でも、次に登る研究者にとっては貴重なものである。先ず、大まかな情報が手に入る。もし、これらの縄張図が無かったらどうなるか。全山くまなく歩きまわった後、図を作成しなければならず、大変な労力と手間がかかる。現在最新の縄張図として公表されているものは、こうした先人たちの縄張図を叩き台として、その成果の上に描き上げられたものなのである。これは、他の学問と変わらない。先人の業績を無視して成果を独り占めするのはルール違反といわれても仕方がない。例を山手町の銀山城で見てみよう。 管見の限り、銀山城の縄張図を最初に発表したのは、松永の藤井高一郎氏を中心とした備後古城址調査研究会である。同会は「郷土に散在する古城址の実態を現況測量」「学究の基礎資料」とすることを目標として結成された郷土史団体で、昭和五二年一月六日、トランシツトを担いで銀山城に登っている。同会が作成した縄張図(図①)を見ると、山頂主稜線の曲輪群は正確に捉えられているが、東側尾根上の曲輪群は未記入である(注1)。 県内の山城研究に一期を劃した昭和五五年の「日本城郭体系」(注2)でも、銀山城の曲輪群は主稜線上のみ描かれている(図②)。備後古城址調査研究会作成の縄張図が同書に影響を与えたかどうかは不明である。1983年、小都氏が中心となって発刊された芸備友の会の「広島県の主要城跡」には銀山城跡は収録されていない。 東側の曲輪群を縄張図に記入したのは当会の前身福山ユースドマップクラブである(図③)。だが、この縄張図には「竪堀群」は一切記入されていない。当時(一九七二)はまだ畝状竪堀群は注視されておらず、山城の調査は稜線上の曲輪群を略測するのが通例であった(注3)。銀山城の縄張図に竪堀群が追加されるのは1995年、当会が発刊した『山城探訪』を待たねばならない。 なお、1995年3月に刊行された「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」第3集にも銀山城跡の略測図は収録されているが、この報告書では「備南中世山城跡の現状」は参考資料として挙げられているが、『山城探訪』は取り上げられていない。 先日の銀山城徒歩例会で、我々が最新だと思っていた『山城探訪』の縄張図も、完全なものではなく不備があることが分かった。地元の方のご協力によって山上の一部の雑木が伐採され、城跡の実態がより明らかになったためである。 山城の調査はより完全な縄張図を作成するための悪戦苦闘の歴史である。我会の中世史部会では、この銀山城を改めて調査し、より完全な縄張図を作成する企図があると聞く。是非、実行に移し、より精密な縄張図を公表してもらいたいものである。 【補注】 (注1)福山市立福山城博物館友の会だよりNo7「中世の古城調査―本郷城と銀山城―」藤井高一郎1977 (注2)新人物往来社刊、広島県内の山城は13巻に収録され、福山市内の山城は小都隆氏が執筆された。 (注3)この図面は1973年7月、「備南中世山城跡の現状」に収録されたものだが、一般には流布せず、「山城志 第8集」に収録されて一般に知られるようになった。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む