2014年02月01日

藪路大峠に残る牛馬の供養碑と両備軽便鉄道の橋脚

備陽史探訪:176号」より

根岸 尚克

千田の歴史遺産

藪路大峠の碑
神辺町の国分寺裏山裾にある牛馬の供養碑群(犬もある)は良く知られているが、千田町の旧藪路街道から大峠に至る間にも十基許の牛馬の供養碑が点在している。

江戸時代、北部方面から府中神石の薪や米、炭等の物資を城下に運ぶには、横尾町の北端の鶴が橋を渡り、横尾町を通り、広畑医院の前から藪路街道に入り、更に藪路天神坂を登り(中程の山中に天神社が在る)榎木峠を下って惣門に向った。積荷は藪路街道入口で待機する「かけ馬」によって約一kmの坂道を駆け登っていた。千田村には「馬子宰(まごさい)」という荷馬車を管理する役所があった。

陸上運送の花形「馬車」は一日に何回となく通う急な坂道で馬の消耗も激しかったのであろう、いつしか「藪路天神坂馬殺し……」の伝承が聞かれる様になる。その証としてこの街道には馬の供養碑が多く残っている訳である。

まず広畑内科の前を少し南に進み山陽自動車道ガード下の少し手前、三軒屋に平成二十年八月十三日に倒れたお堂があり、この中に馬に碑一基と牛の碑四基があった。馬の碑は高さ68cm幅32cm、牛の碑は高さ30cm幅20cmのものが三基と六匹の牛が刻まれている高さ80cm幅32cmのものが一基で、このお堂が建てられた文久元(一八六一)年に近くに点々と在ったものをまとめたものと思われる。

牛が六頭刻まれている一際立派な碑

牛が六頭刻まれている一際立派な碑

広畑医院前の道の反対側には両備軽便鉄道の鉄橋の橋脚が一基残っている。大正三(一九一四)年両備軽便鉄道が福山・府中間に開通した。横尾駅からは田んぼの盛土線路を南進し、奈良津トンネル、吉津、胡町、福山駅に到着した。後に国鉄の福塩線となり、同時に西回り路線となり、本庄駅が出来て、昭和十(一九三五)年廃止となった。両備軽便鉄道の橋脚は、大峠のガードでも二ヵ所あるが、橋脚の一面しか見られない。千田町のものは橋脚全部が見られる貴重なもので、当時の石積み技術の高さに感嘆させられる。

山陽自動車道ガード下を更に南に進み、子供スポーツ広場に入る道の反対側の道を入り、天神社に登る道に一基、街道に戻り、にごり池附近(福山志料に「本谷池 周三丁六間」とある)迄に三基馬の碑が八十八ヵ所と交互に点在している。内一基は二頭の馬が刻まれていて高さ40cm幅30cm程、他は高さ40cm幅28cm程。福山志料には、深津郡北部では最多の馬一八頭とある(牛もけっこう多く百一となる)。共に生活を闘った動物を偲んだ人々の愛惜の情が一入偲ばれる供養碑である。尚、にごり池の反対側の国道脇にも須屋の中に八十八ヵ所の石像と一基同居している。高さ30cm幅22cmの牛の供養碑で「十一月十六日」と刻まれているが、年が刻まれていない。

日付のある牛の碑

日付のある牛の碑