2008年04月30日

福山古墳ロードBコース

備陽史探訪:138号」より

会長 田口 義之

昨年度の「福山古墳ロード」Aコースに続いて、今年度も古墳ロードのB・Cコースを整備することになった。Aコースの終点である福山市駅家町の服部大池の土手を基点に、加茂町の「猪子古墳」までを「Bコース」、北の駅家町服部の「泉山城跡」までが「Cコース」である。

Bコースは、服部大池の土手東詰めから、県道を渡って東の山道に入り、峠を越えてまず「門田朴斎」の墓地に向かう。朴斎の墓は、門田家の広壮な墓地の南端にあり、江戸後期の典型的な儒教墓の形式だ。朴斎は加茂町百谷の山手家で生まれ、父の死後母の実家である法成寺の門田家に引き取られ「門田」氏を称した。若年で菅茶山の後継者に擬され廉塾の塾頭となった。のち福山藩に儒者として召され、藩主阿部正弘を補佐した。次に南に五百メートルほど進んで須佐能表神社に向かう。同神社は西法成寺の産土で、一説に式内深津郡一社「須佐能袁能神」に比定される古社である。

ここから東に徒歩2分で広壮な旧大庄屋「門田家」の屋敷跡に着く。門田朴斎の母の実家で、朴斎自身もここで少年期を過ごした。かつては邸内に母屋や離れ座敷、蔵が立ち並んでいたが、現在は長屋門が残るのみである。周囲に土塁が見られ、屋敷の起源は中世にさかのぼると考えられる。また、この地は古瓦の出土地としても知られ、小字「古江木」から山陽道の「駅家跡」の可能性も指摘されている。

次に東へ三百㍍歩いて県史跡の「山の神古墳」向かう。山の神古墳は平野の中に取り残された小さな丘で、その形状から全長三八㍍の前方後円墳と言われたが、前方部が不自然に長いことから円墳とする見解もある。後円部?に南に開口した横穴式石室があり、中に入る。石を横長にアーチ状に積んだ備後南部では今津町の長波古墳に次ぐ古式の横穴式石室だ。

山の神古墳から法成寺公民館の前を通って法成寺八幡神社に向かう。距離七百㍍、徒歩一五分というところか。神社は丘陵の中腹に南面して建ち、見晴らしがいいし、トイレもあり、ここで一休みだ。境内の東隅に三百㍍離れたところに立っていたという鳥居の石材が置かれ、最初見たときは「これは古代寺院の中心礎石では…」と一瞬色めきたった。結局鳥居の基礎石ということに落ち着いたが、探せばまだまだ何が出てくるか分らない地域である。

ここから東へ北部工業団地への新道を渡って小糸城跡に向かう。西南に伸びた小さな尾根の先端部に設けられた中世の城館跡だが、周囲は削られ「落城寸前」といった様子だ。この城跡で注目したいのは古墳時代の円筒埴輪が出土していることだ。埴輪は南の胸壁工事に際してと、東北五〇㍍の畑の中から出土していて、同じ古墳のものとすると相当大規模な古墳で、しかも畑の中から出た埴輪は東西に直線状に並んでいたというから、前方後円墳の可能性もある、今後目が離せない遺跡の一つである。

次に掛迫第6号古墳と掛迫城跡に向かう。加茂へ通ずる旧道を歩き、小糸城から五百メートルの地点で左手の山道に入る。コンクリート舗装された道で、突き当りを左に行けば掛迫古墳、右に行けば掛迫城跡だ。

掛迫第6号古墳は、我々の会で一三年前に測量調査と地中レーダー調査を実施した思いで深い古墳で、円墳とも前方後円墳とも言われていたが、我々の調査で前方後円墳の可能性が高まった。後円部に二基の竪穴式石室が露出し、三角縁神獣鏡が出土した注目される古墳である。

掛迫城跡は、小糸城跡と共に宮氏の一族宮法成寺氏が拠点とした城で、三段の曲輪と空掘が残り、中々見ごたえのある城だ。本丸は地元の町内会の手で公園化され、桜が植えられているのもうれしい。小規模な山城だが、城主宮法成寺尾張守は使者を大坂石山本願寺に送り、証如上人から「綿把」を贈られている(天文日記)。小城主といっても侮ることは出来ない。

掛迫城跡からは旧道を通って北部工業団地内の「粟塚古墳の丘」に向かう。コースの中で一番の難所で、暑い夏の盛りの予備調査では顎が出てしまった。古墳の丘には移築された狼塚四号墳と正福寺裏山一号墳の竪穴式石室があり、古墳の種類を見るにはもってこいの場所だ。

古墳の丘公園から駅家東第二公園まで団地内の舗装道路をとおり、第二公園から東の山際の旧道を北に進み、新道を渡って更に服部から加茂に向かう旧道に入る。東の出口が最終目的地の「猪子古墳」だ。コースで一番長い区間で約二キロ、徒歩三十分と言ったところか、何もないが旧道沿いの自然が目を楽しませてくれる。

猪子古墳は、福山に三基存在する七世紀後半の「横口式石槨」の一つだ。南に羨道が開口し、以前は自由に見学できたが、天井石に亀裂が入ったことから、現在入り口に柵が設けられている。
以上、約六キロ、半日のコースだ。今後、整備事業は、看板の設置やマップの作成などいよいよ山場に差し掛かる。会員の皆様のご協力をお願いしたい。