備陽史探訪:75号」より

田口 義之

待望のドラマが始まった。もちろん、NHKの大河ドラマ「毛利元就」である。歴史好きの皆さんのことだから、毎週固唾を呑んでテレビの前に座っておられることであろう。

このドラマの焦点は、言うまでも無く、今まで画面に登場することの少なかった元就や、尼子経久・大内義興・義隆といった中国地方の武将たちの生き様がいかに描かれるかにあるのだが、それにも増して私達備後人の気になることは、身近な地名や武将が何時、どのような形で紹介されるかであろう。

歴史を紐解いて見ると、毛利氏と備後の関係は、鎌倉時代にさかのぼることがわかる。鎌倉中期以降、備後の守護を勤めた長井氏は、毛利氏の同族で、その本家【惣領家】にあたるのである。毛利氏は、大江広元の四男季光が相模国毛利荘を本拠にしたことに始まるが、広元の家督は次男の時広が相続し、出羽国長井荘【下野或いは武蔵の長井とも言う】を名字の地として「長井」氏を称した。備後守護を勤めた長井氏はその有力な庶家である。また、その一族は備後の各地に土着し国人に成長するが、その内の一家、信敷荘【庄原市】を本拠とした長井氏は、南北朝時代の後期に毛利氏から養子を迎え吉田荘内福原村を譲られ、「福原」氏を称した。これが元就の母の実家福原氏である。福原長井氏は長和荘【福山市瀬戸町】の地頭職を持っていたから、直接の関係はないにしても、間接的には、福山も毛利氏と大いに関係があることになる。

安芸毛利氏の歴史は、南北朝時代の始め、季光の孫にあたる時親が一族を引き連れて吉田荘に土着したことに始まり、備後との関わりもその直後に始まっている。貞治二年【1363】、足利幕府に敵対した足利直冬は大軍を率いて備後宮内【芦品郡新市町】に陣し、宮入道道仙の拠る宮城を攻めたが、この直冬の陣中に時親の孫毛利備中守親衡もいたのである。合戦は宮氏の勝利に終り、「太平記」巻三八によると、この時親衡が真っ先に逃亡したとして、

楢の葉の、ゆるきの森に、いる鷺は、深山風に、音おや鳴らん

という落首が路傍に立てられたという。

この毛利氏の勢力が直接備後及ぶのは、元就の祖父豊元の代である。豊元は、「応仁の乱」に際して、初めは東軍に属していたが、途中で西軍方に寝返り、東軍方の備後守護、山名是豊追放作戦では大きな役割を果たした。その恩賞として備後守護山名政豊から与えられたのが「備後三千貫」と呼ばれた所領である。備後三千貫は、現在の世羅郡西部にあたり、元就登場以前、すでに毛利氏は備後に橋頭堡を確保していたのである。

また、元就の兄興元も、意欲的に備後の政情に関わりを持っていた。永正九年【1512】九月、大内氏の命を受けた興元は備後に出兵し、尼子方の古志氏を攻撃し、一時はその居城、松永本郷の大場山城の切り崩しに成功している。この時は古志氏の反撃が功を奏し、興元は兵を引いたが、その直後には、備後の有力国人山内氏と木梨氏の争いに介入し小早川氏と共に、両氏に兵を引かせることに成功している。

元就の備後制圧は、こうした祖父や兄の切り開いた基盤を引き継いで行われたわけで、決して元就一人の功ではない。

例えば、元就の備後南部経略に大きな役割を果たした国人に熊野の渡辺氏がいるが、天正十九年の小早川隆景の書状【譜録渡辺三郎左衛門】によれば、熊野に一乗山城を築いた渡辺兼は、興元に招かれて「久しく吉田」に滞在し、「その節、日頼様【元就】は未だ田治比殿にて御座候つる間、兄弟の如く御取り組み候て逗留」していたと言う。元就の備後南部進出にあたっては、渡辺兼が毛利氏の為に大馬の労を惜しまなかったことは言うまでもない。

待望のドラマの中で、こうした元就と備後の関わりがどんな形で描かれるか、期待したい。