1996年02月17日

大工と棟梁(古代から近世までの変遷について)

備陽史探訪:69号」より

木下 和司

『大工』(だいく)という言葉の語源を調べてみると、その成立は古代の律令制まで遡る。

律令体制下で官殿及び社寺の造営を掌る官庁として『大工寮』(こだくみのつかさ)があり、ここに属する工匠の最高指導者が『木工大工』(こだくみのおおいたくみ)であった。現在の職制で言えば建設局の技師長にあたる高官で、官位も工匠としては最高の従五位を与えられていた。

また、律令体制下では現代の大工にあたる職業は、前述の造営官庁名にあるように『木工』と呼ばれるか、もしくは、『番匠』と呼ばれていた。中世では『番匠』の呼び名が一般的になる。

日本の建築史で言う中世は、一一八〇年の平重衡による南都焼打より始まる。この焼打により焼亡した東大寺・興福寺の再建を契機として、古代建築とは一線を画する中世建築の萌芽が始まると共に、造営組織にも新しい体制が生まれ始める。

平安時代末には律令体制の衰退に伴い、中央の大きな工匠集団は各社寺に抱えられた血縁を中心とする小集団に分裂を始めていた。このため大規模な建築現場では多くの小集団が集まって造営組織が形成された。多数の小集団によって作られた組織で統一的に仕事を行うためには、階層的組織を作り集団の意思統一をはかる必要がある。ここに中世的な建築造営体制が登場した理由がある。中世的な造営組織は、建築現場毎に作られる臨時の階梯組織であり、この階梯組織の頂点に立つ工匠の指導者が『大工』と呼ばれた。

古代から中世への『大工』の変化は、建築造営組織の体制変化を伴っていた。また、中世から近世にかけて工匠指導者の名称が、『大工』から『棟梁』へと変化する。古代から中世への変化と同様に、この過程にも造営組織の変化を伴っていた。次項からこの変化について述べる。

中世前期には、工匠達は座をつくって自分たちが働く職場(寺院・神社)を確保していた。しかし、この時代は職場間の行き来が比較的自由であったため、異なった集団と共同で仕事をすることも多かった。また彼等は新しい職場を求めて積極的に地方にも進出しており、中世には地方の名建築が多い。しかし、十四世紀になるとこのような集団間の自由な交流が制限されてくる。

例えば法隆寺を例にとって、十三世紀後半以前の工事を担当している工匠名を調べると、藤井・平・源・三国・丹波・宇治・刑坂・橘等の姓が認められ寺外の工匠がかなりの数参加していたと考えられる。しかし、十四世紀以降になると法隆寺の工事に参画している工匠の指導者は、秦・橘・平・藤原の四姓に限られてきて、寺外の工匠の活躍が見られなくなる。

これは、社寺への恒常的な奉仕と引替に造営を独占する契約の成立に起因している。この権利を『大工職』(だいくしき)と呼ぶ。法隆寺の『大工職』の成立は、かなり早い例であるが、以降、同様の独占権が十四世紀から十六世紀にかけて各社寺で成立していく事になる。

『棟梁』の率いる工匠集団は『大工職』が成立した十五世紀中頃からその独占権を脅かす形で登場する。『棟梁』の名称が棟札等に表われてくるのは、十五世紀中頃からで、当初は『大工』の次に置かれたり、併記されたりしている。ところが、十六世紀末になると『大工』は使用されなくなり、『棟梁』がこれに変わる事になる。

『棟梁』の率いる工匠集団は中世的な血縁関係を持たず、徒弟制度を基本として恒常的な身分制度を持っていた。さらに、『大工職』による制約を受けず、その技能によって造営組織に参画していたと考えられる。ここに中世の工匠集団との大きな相違点がある。ではなぜ『棟梁』は、『大工職』とは無関係に職場を獲得できたのであろうか。

これは、中世後期に発展した大名領国制と深い関係がある。大名は、その領国支配において築城・城下町の形成等のために工匠達の技能を必要としていた。しかし、中世後期には『大工職』が存在し、これが大名の工匠に対する直接支配を妨げる大きな要因となっていた。このため、大名達は優秀な技能を持ち『大工職』に縛られない工匠集団を必要としていた。この要求に基づいて創られたのが『棟梁』を指導者とする工匠集団であり、中世的な座の制度(『大工職』)の破壊を目的としていたと考えられる。

『棟梁』は大名の勢力を背景として、『大工職』とは無関係にその技能によって造営工事に呼ばれるためその言葉の中に個人の技能に対する尊敬の念を含んでいる。ここに、古代・中世の工匠集団の指導者を指す『大工』との間の微妙なニュアンスの差が存在する。また、『棟梁』が工匠の指導者を差すようになると、『大工』は現代と同じく建築に従事する技能者を指す言葉として使用されるようになる。