神石郡油木町の馬塚古墳について

備陽史探訪:54号」より

篠原 芳秀

一、はじめに

本年三月一日に、当会の古墳城郭研究部会を中心とする会員と地元の人達の協力で、古墳時代後期に築造された馬塚古墳の墳丘測量を行いましたので紹介します。

第1図 位置図(油木 1:50000)
第1図 位置図(油木 1:50000)

1.馬塚古墳 2.八鳥古墳

馬塚古墳は、神石郡油木町油木高水池にある、標高六一〇メートル余りの通称「二子山」の頂部に位置します。この付近は、水田との比高が約一〇〇メートルもあるかなり山の中に入ったところで、斜面は急峻です。ただ、二子山の高所から約一〇メートル下がった北側の裾部は、油木町の中心部から東の豊松村、さらには岡山県川上郡川上町に所在する備中高山市(穴門山神社)などへの古い幹線の山道が通っており、また、周囲は山に囲まれてはいるものの立ち木がなければ北西方面に油木の町が望め、かつては重要な地点であったものと思われます。

古墳の現状は、盛り上がった地形の中央部に入口を南西方向とする横穴式石室が築かれていますが、石室内は土砂が充満し、天井石と側石の一部が取り去られ、残っている四個の天井石も露出し、このうちの入口側の一個は西よりに動かされています。石室の規模は、長さが八七メートルと推定され、幅は側壁上端で約一メートルです。入口部の側壁の石は急斜面にあり、石室に遺体などを運び込むことは困難な状態なので、石室前面は少し崩落しているものと考えられます。

二、これまでの研究略史

本古墳は占くから知られ、調査及び記述がなされてきましたので、管見に触れたものを取り上げて整理しておきます。最初の文献は一九二七年に刊行された『神石郡誌』と思われます。ここには、

神石町高水池二子山上にありて瓢形高塚前方後圓なり、前面に石槨開けり。周囲三百間、濠の跡あり・・・・

とあります(一)。瓢形高塚前方後圓と判断されたのは、明治三〇(一八九七)年、坪井正五郎氏によって発掘調査が実施された豊松村のふたご(※1)東方古墳(その後、拝山古墳、そして双子山古墳またはふたご(※1)山古墳と名称変更)の影響によるものと考えられます。

ついで、西川宏氏は一九四八・一九四九年に神石郡内の古墳の分布調査をされました(二)。その記録を見ますと、所在地に続き

円墳径一二メートル、横穴式石室奥行四・五メートル幅〇・五メートル高未詳、石室破壊

とあります(三)。この後しばらくは、当資料が引用されました(四)。

ところが、村上正名氏は一九六三年に分布調査され、

(前略)八(やい)鳥二号墳は馬塚といわれ、山は二子山といわれ、前方後円墳ではないかと思われましたが、封土の現状では中円双方墳とも見なされて今後の精査がのぞましいものです。中央直径一二・四メートルの円墳形のところに南向きに奥行八・七メートル、巾一・一メートルの横穴式石室が存在し、天井石も三個が現存し、内部は理もれて実測不可能です。

と記し、墳丘の断面図と横穴式石室の現状図を載せておられます(六)。そして、最近までこの資料の中で特に「中円双方墳(七)の可能性」が引用されてきました(八)。

三、今回の調査成果

私たちが作成した墳丘測量図は第2図の通りです。

 第2図 神石郡油木町 馬塚古墳実測図(1:200)
第2図 神石郡油木町 馬塚古墳実測図(1:200)

二子山と呼称されるだけに、頂部には西と東に二つの円丘があります。上述したように、この二つの円丘は一つの古墳とみられたこともありましたが、頂部において二つの円丘の境には切り離すような溝状のくぼみが見られ、墳丘の下方部で接続を示す痕跡は見られないことから、それぞれ独立したものであることが明らかになりました。横穴式石室を有する西側のものは円墳と考えられ、大きさは径一五~一八メートル、墳丘の南からの現高約四メートルです。東側の円丘も円墳の可能性がありますが、明瞭な墳形とならず、西側の古墳を築く際に掘られた溝により切り離されて残っただけのものと思われます。もし円墳であれば、大きさは径約一一メートル、墳丘の東側からの高さ約一・五メートルです。

なお、西側の円墳から北西に延びた部分は、前方後円墳の前方部ともみることができますが、北東側は後円部との接続部分にくびれの痕跡がなく、下方部の墳形を形作ることが急斜面のため困難なことなどにより、古墳とは無関係の自然地形と考えられます。

墳丘西側裾部の地表面(第2図の×印地点)で、須恵器の甕(第3図)を採集しました。口縁部から胴部上半までの破片で、口縁部は少しゆがんでいます。大きさは口径一六・三~一六・六センチ、残存高一一・三センチ、胴部最大径二八・三センチです。粘土紐の巻き上げ成形で、口頸部は「なで肩」の肩部からゆるやかに外反し、口縁端部は肥厚して丸くおさめますが、その上部は連続のヘラ押えによりわずかくぼみ(半周くらいは後の回転ナデのためかくばまないで丸みをもつ)、先端はやや尖り気味です。また、肥厚した部分の下端も連続のヘラ押えがみられます。口頸部は回転ナデ、胴部は外面が回転クシナデ、内面が同心円タタキの後に弱い回転ナデを施しています。ただ、胴部外面の回転クシナデ下に斜め方向の平行タタキのかすかな痕跡と頸部内面の回転ナデ下に同心円タタキの痕跡が観察されることから、粘土紐巻き上げ後に胴部から頸部まで平行タタキと同心円タタキが表裏同時に行われたものと思われます。なお、同心円タタキの順は概ね時計回りです。色調は内外面・断面ともに明灰色で、胎土には少し砂粒を含み、中には最大長六ミリのものもあります。

第3図 須恵器実測図(1:3)
第3図 須恵器実測図(1:3)

以上をまとめてみると次のようになります。

馬塚古墳は径一五~一八メートル、墳丘の南からの現高約四メートルを計る円墳で埋葬施設として南西方向に開口する横穴式石室を築いています。横穴式石室の規模は、長さが八・七メートルと推定され、幅は側壁上端で約一メートルです。古墳の築造年代については考察する資料がほとんどありませんが、長方形の横穴式石室であることと石室の規模から、六世紀後半から七世紀前半の間であることは間違いないでしょう。また、採集した須恵器は甕の破片で、現段階では詳細な年代は明かでありませんが、この古墳にともなった遺物と思われます。

石室の規模は当地域では比較的大きなもので、油木の町を望むと共に山道とはいえ幹線に面した重要な地点に造られており、これらは被葬者の生前における地位を反映したものでしょう。すなわち、馬塚古墳は所在する「高水池」のみならずもう少し広い地域に勢力をもっていた小豪族の奥津城と考えられます。

一、広島県神石郡教育会『神石郡誌』一九二七年 頁五六五・五六六
二、西川宏「神石郡の古墳についての覚書」『芸備地方史研究』No.3、芸備地方史研究会、一九五三年 頁一
三、豊元国編「附編 広島県古墳綜覧」『三ツ城古墳―広島県賀茂郡西条町―』広島県文化財調査報告第一輯(人文編)、広島県教育委員会、一九五四年 頁一〇五
  豊元国編『広島県古墳綜覧』第一輯、府校学報I、広島県府中高等学校地歴部、一九五四年 頁四一
四、広島県教育委員会『広島県埋蔵文化財包蔵地地名表』広島県文化財資料シリーズ第三、一九六一年、頁一七九
  文化財保護委員会『全国遺跡地図(広島県)」一九六七年 頁四八
  文化庁文化財保護部『全国遺跡地図広島県』一九八二年 頁四三
五、馬塚古墳がいつの時点で八鳥二号墳とも呼称されたか明かでないが、ほかの文献にはなく、また八鳥一号墳は豊松村にあって以前から八鳥古墳と呼称されており、村上氏が調査時につけられた仮称の可能性もあります。
六、村上正名「油木町のなりたち―原始・古代前期の文化―」『油木町のなりたち―原始古代前期の文化―』油木町史シリーズNo.1、油木町教育委員会、一九七〇年 頁五七
七、最近の考古学界の用語では、「双方中円墳」の方がよく用いられています。
八、広島県神石郡誌続編刊行会『神石郡誌続編』一九七四年頁八六・八七
  出内博都「神石郡」『広島県の地名』日本歴史地名大系第三五巻、平凡社、一九八二年 頁三八
  堤正信「油木町地誌」『角川日本地名大辞典』三四広島県 角川書店、一九八七年 頁一一六九

※測量参加者名
 田口、山口、篠原、七森、中村、馬屋原、高端、杉原、出内(以上会員)
 徳良、槙内(地元協力者)

※1「孑孑」で1文字

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/07/10bc68904af6e7af60518760753eec19.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2002/07/10bc68904af6e7af60518760753eec19-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:54号」より 篠原 芳秀 一、はじめに 本年三月一日に、当会の古墳城郭研究部会を中心とする会員と地元の人達の協力で、古墳時代後期に築造された馬塚古墳の墳丘測量を行いましたので紹介します。 1.馬塚古墳 2.八鳥古墳 馬塚古墳は、神石郡油木町油木高水池にある、標高六一〇メートル余りの通称「二子山」の頂部に位置します。この付近は、水田との比高が約一〇〇メートルもあるかなり山の中に入ったところで、斜面は急峻です。ただ、二子山の高所から約一〇メートル下がった北側の裾部は、油木町の中心部から東の豊松村、さらには岡山県川上郡川上町に所在する備中高山市(穴門山神社)などへの古い幹線の山道が通っており、また、周囲は山に囲まれてはいるものの立ち木がなければ北西方面に油木の町が望め、かつては重要な地点であったものと思われます。 古墳の現状は、盛り上がった地形の中央部に入口を南西方向とする横穴式石室が築かれていますが、石室内は土砂が充満し、天井石と側石の一部が取り去られ、残っている四個の天井石も露出し、このうちの入口側の一個は西よりに動かされています。石室の規模は、長さが八七メートルと推定され、幅は側壁上端で約一メートルです。入口部の側壁の石は急斜面にあり、石室に遺体などを運び込むことは困難な状態なので、石室前面は少し崩落しているものと考えられます。 二、これまでの研究略史 本古墳は占くから知られ、調査及び記述がなされてきましたので、管見に触れたものを取り上げて整理しておきます。最初の文献は一九二七年に刊行された『神石郡誌』と思われます。ここには、 神石町高水池二子山上にありて瓢形高塚前方後圓なり、前面に石槨開けり。周囲三百間、濠の跡あり・・・・ とあります(一)。瓢形高塚前方後圓と判断されたのは、明治三〇(一八九七)年、坪井正五郎氏によって発掘調査が実施された豊松村のふたご(※1)東方古墳(その後、拝山古墳、そして双子山古墳またはふたご(※1)山古墳と名称変更)の影響によるものと考えられます。 ついで、西川宏氏は一九四八・一九四九年に神石郡内の古墳の分布調査をされました(二)。その記録を見ますと、所在地に続き 円墳径一二メートル、横穴式石室奥行四・五メートル幅〇・五メートル高未詳、石室破壊 とあります(三)。この後しばらくは、当資料が引用されました(四)。 ところが、村上正名氏は一九六三年に分布調査され、 (前略)八(やい)鳥二号墳は馬塚といわれ、山は二子山といわれ、前方後円墳ではないかと思われましたが、封土の現状では中円双方墳とも見なされて今後の精査がのぞましいものです。中央直径一二・四メートルの円墳形のところに南向きに奥行八・七メートル、巾一・一メートルの横穴式石室が存在し、天井石も三個が現存し、内部は理もれて実測不可能です。 と記し、墳丘の断面図と横穴式石室の現状図を載せておられます(六)。そして、最近までこの資料の中で特に「中円双方墳(七)の可能性」が引用されてきました(八)。 三、今回の調査成果 私たちが作成した墳丘測量図は第2図の通りです。 二子山と呼称されるだけに、頂部には西と東に二つの円丘があります。上述したように、この二つの円丘は一つの古墳とみられたこともありましたが、頂部において二つの円丘の境には切り離すような溝状のくぼみが見られ、墳丘の下方部で接続を示す痕跡は見られないことから、それぞれ独立したものであることが明らかになりました。横穴式石室を有する西側のものは円墳と考えられ、大きさは径一五~一八メートル、墳丘の南からの現高約四メートルです。東側の円丘も円墳の可能性がありますが、明瞭な墳形とならず、西側の古墳を築く際に掘られた溝により切り離されて残っただけのものと思われます。もし円墳であれば、大きさは径約一一メートル、墳丘の東側からの高さ約一・五メートルです。 なお、西側の円墳から北西に延びた部分は、前方後円墳の前方部ともみることができますが、北東側は後円部との接続部分にくびれの痕跡がなく、下方部の墳形を形作ることが急斜面のため困難なことなどにより、古墳とは無関係の自然地形と考えられます。 墳丘西側裾部の地表面(第2図の×印地点)で、須恵器の甕(第3図)を採集しました。口縁部から胴部上半までの破片で、口縁部は少しゆがんでいます。大きさは口径一六・三~一六・六センチ、残存高一一・三センチ、胴部最大径二八・三センチです。粘土紐の巻き上げ成形で、口頸部は「なで肩」の肩部からゆるやかに外反し、口縁端部は肥厚して丸くおさめますが、その上部は連続のヘラ押えによりわずかくぼみ(半周くらいは後の回転ナデのためかくばまないで丸みをもつ)、先端はやや尖り気味です。また、肥厚した部分の下端も連続のヘラ押えがみられます。口頸部は回転ナデ、胴部は外面が回転クシナデ、内面が同心円タタキの後に弱い回転ナデを施しています。ただ、胴部外面の回転クシナデ下に斜め方向の平行タタキのかすかな痕跡と頸部内面の回転ナデ下に同心円タタキの痕跡が観察されることから、粘土紐巻き上げ後に胴部から頸部まで平行タタキと同心円タタキが表裏同時に行われたものと思われます。なお、同心円タタキの順は概ね時計回りです。色調は内外面・断面ともに明灰色で、胎土には少し砂粒を含み、中には最大長六ミリのものもあります。 以上をまとめてみると次のようになります。 馬塚古墳は径一五~一八メートル、墳丘の南からの現高約四メートルを計る円墳で埋葬施設として南西方向に開口する横穴式石室を築いています。横穴式石室の規模は、長さが八・七メートルと推定され、幅は側壁上端で約一メートルです。古墳の築造年代については考察する資料がほとんどありませんが、長方形の横穴式石室であることと石室の規模から、六世紀後半から七世紀前半の間であることは間違いないでしょう。また、採集した須恵器は甕の破片で、現段階では詳細な年代は明かでありませんが、この古墳にともなった遺物と思われます。 石室の規模は当地域では比較的大きなもので、油木の町を望むと共に山道とはいえ幹線に面した重要な地点に造られており、これらは被葬者の生前における地位を反映したものでしょう。すなわち、馬塚古墳は所在する「高水池」のみならずもう少し広い地域に勢力をもっていた小豪族の奥津城と考えられます。 註 一、広島県神石郡教育会『神石郡誌』一九二七年 頁五六五・五六六 二、西川宏「神石郡の古墳についての覚書」『芸備地方史研究』No.3、芸備地方史研究会、一九五三年 頁一 三、豊元国編「附編 広島県古墳綜覧」『三ツ城古墳―広島県賀茂郡西条町―』広島県文化財調査報告第一輯(人文編)、広島県教育委員会、一九五四年 頁一〇五   豊元国編『広島県古墳綜覧』第一輯、府校学報I、広島県府中高等学校地歴部、一九五四年 頁四一 四、広島県教育委員会『広島県埋蔵文化財包蔵地地名表』広島県文化財資料シリーズ第三、一九六一年、頁一七九   文化財保護委員会『全国遺跡地図(広島県)」一九六七年 頁四八   文化庁文化財保護部『全国遺跡地図広島県』一九八二年 頁四三 五、馬塚古墳がいつの時点で八鳥二号墳とも呼称されたか明かでないが、ほかの文献にはなく、また八鳥一号墳は豊松村にあって以前から八鳥古墳と呼称されており、村上氏が調査時につけられた仮称の可能性もあります。 六、村上正名「油木町のなりたち―原始・古代前期の文化―」『油木町のなりたち―原始古代前期の文化―』油木町史シリーズNo.1、油木町教育委員会、一九七〇年 頁五七 七、最近の考古学界の用語では、「双方中円墳」の方がよく用いられています。 八、広島県神石郡誌続編刊行会『神石郡誌続編』一九七四年頁八六・八七   出内博都「神石郡」『広島県の地名』日本歴史地名大系第三五巻、平凡社、一九八二年 頁三八   堤正信「油木町地誌」『角川日本地名大辞典』三四広島県 角川書店、一九八七年 頁一一六九 ※測量参加者名  田口、山口、篠原、七森、中村、馬屋原、高端、杉原、出内(以上会員)  徳良、槙内(地元協力者) ※1「孑孑」で1文字備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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