1990年02月03日

時宗と草戸千軒・吉備津神社

備陽史探訪:46号」より

堤 勝義

吉備津神社

一、はじめに

時宗(じしゅう)、今日ではあまり聞きなれない名前だと思いますが、中世の時代には一大勢力を誇った宗教宗団です。

時宗の開祖は、一所不在(いっしょふざい)をモットーとした一遍で、個々の信仰者達を時衆と称しました。鎌倉時代に出現した宗教の中ではもっともおそく創唱された宗教集団です。

ここでは、一遍の出自から教義について簡単に書き、草戸千軒、吉備津神社についても書いてみたい。

二、時宗とは

一遍坊智真は一三三九年(延応元年)に伊予国で生まれた。父は河野通信の子通広で、承久の変の時に朝廷側についた為に、祖父の通信は、奥州江刺に流され、父の兄弟通政は斬首、通末は信濃国伴野荘に配流された。

父の通広のみは出家して如仏と号して、道後宝厳寺の寺内に隠棲していた。

十歳のときに母を失い、出家して随縁と称した。建長二年(一二五〇)に、大宰府の聖達を訪れ、浄土宗の証空が開祖となった西山義(せいざんぎ)を学ぶことになった。

浄土宗の開祖法然の弟子は親鸞を初めとして多くの問弟がいたが、浄土宗を受けつぎ、教義を変えながら発展したのが、証空の西山派と聖光坊弁長の鎮西派であった。

京都の智恩院は最初は西山派であったが、現在は鎮西派の総本山である。

西山派の教義は、心を一つにして修する善でも、迷いの心そのままで修する善であっても、阿弥陀仏の名を称えれば、救われると説くのに対して、鎮西派は念仏を多くとなえるのみでなく法然の否定した行(ざょう)をも重視し、それによって救われると説いた。後の一遍の教義をみると、西山派の考えが大きく一遍に影響を与えていることがわかる。

弘長三年(一二六三)父如仏の死を機会として、伊予国に帰国して、文永八年(一二七一)に善光寺に参詣する間は、彼の消息は明らかでない。

その後、再び出家したと思われる一遍は、熊野へ参籠の途中で、五人の道者とひとりの僧にゆきあい、そこで、「南無阿弥陀仏」決定往生六十万人のふだをわたそうとしたが僧は「弥陀を信ずる心もおこらなければ、念仏をとなえられない。」といって、受取ることを拒否した。それを信がなくても、念仏をとなえなくてもよいからといって無理矢理にふだを渡した。

しかしながら、信のない念仏をとなえない僧に札を与えた事を反省し、熊野本宮の証誠殿に参籠して、権現の啓示を仰ぎたいと願った。その願いがかなったのか、自装東に長頭巾をかぶった山伏すがたの熊野権現があらわれて、

融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめらるるぞ、御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところなり。信・不信をえらばず、その札をくばるべし。

と教示した。その意味するところは、「融通念仏をすすめておられる聖よ、念仏をどうして間違えてすすめているのか。御房のすすめたことによって、一切衆生がはじめて往生すると思っているのは間違いだ。衆生が弥陀の浄土に往生できることは、すでに阿弥陀が法蔵菩薩といった十劫の昔、誓ったものであって、今にはじまったことではない。したがって信じたとか信心の心がないということもなければ、良と賎、僧と俗、男と女を区別することもなく、縁ある人たちには誰彼の差別なく、その札をくばりなさい。自らのはからいにより阿弥陀仏を信じさせて、念仏をさせその上で往生を約束するがごときは、思いあがりもはなはだしい。すでに阿弥陀によって往生は保証されているのだ。」

すなわら、一遍は、法然や親鸞、日蓮等よりも一段と易(い)を追求して簡略化していったのである。

三、草戸千軒の時衆

備後地方の時宗をみてみると、鞆には本願寺(現存)があり、尾道には常称寺や西郷寺を初めとして多くの時宗寺院が今もある。

草戸千軒にも時衆がいたのではないかと、想像していたのであるが、昭和四十四年十一月に発行された『時衆過去帳』(現神奈川県藤沢市の総本山清浄光寺)を手に入れることが出来、それをみていると、建武年間の所に裏書として、「備後草津」とあり表書には唯阿弥陀仏とみてとることが出来る。備後草津とは何処であろうかという事には多くの意見があるかとも思われるが、当時、備後で草津と名乗っていたのは、草井津等草戸千軒の名からみて、草戸千軒に間違いなかろうと思う。もうひとつは、永享十一年から永享十二年にかけて書かれた過去帳の裏書に「草出」とあり、これは地名がない。それゆえ、これは何処であるのかは、わからないのであるが、草出の下に「尾道岸寮」とあり、全国的なものであるか、『太平記』等の記述からみても、私は「草出」とは草戸千軒のことであろうと確信している。

このことからみると、草戸千軒で死んだ時衆が二名いたことがわかり、草戸千軒に住み、そこを拠点として活動していた時宗僧がいたことがわかる。

時衆は、福山市駅家町とか新市町でも、その跡を残しているので、鞆の本願寺を拠点として、草戸千軒を中継して、駅家、新市にいったものと考えられる。網野善彦氏によれば、河原は無縁の場であったので、時衆が住んでいたのは当然のことであるとも思われる。

また、草戸千軒近くには常福寺があり、一時西大寺律宗であったが、港町や河原等の無縁所を拠点にして活動していったことを考えれば、この二宗の間には共通点があったことがわかる。

四、吉備津神社の一遍

弘安元年(一二七八)夏伊予に戻り、秋には安芸の厳島を訪れ、冬備前国に入り、福岡の市では吉備津宮の神主の息子を帰依し、「弥阿弥陀仏・相阿弥陀仏をはじめとして、出家をとぐるもの、惣じて二百八十余人」であったという。

弘安九年には、播磨国尼崎・兵庫を経て、印南野の教信寺に詣り、沙弥教信を追慕した。翌年の十月に姫路の書写山に詣で、国中を巡札して松原八幡宮に参詣した。そして備中国軽部、備後国一宮を賦算し、秋のころ厳島に詣でている。

『一遍聖絵』をみてみると、一遍が備後一宮(吉備津神社)を訪れた時のことを画いていて、吉備津神社の当時の様子をかいまみることができる。

非常に広大な伽藍の最奥に一遍一行がすわり、まわりに吉備津宮の供僧や神官等がすわっている。供僧の方がいい位置にすわっているので、神仏混合であっても神官に対する僧の位置が想像される。

一遍達はいったい何をみているのかというと、「奏皇破陣楽」(現在は廃絶)という奏の始皇帝ゆかりという舞楽をみているのである。

『一遍聖絵』の吉備津神社の伽藍と、現在新市町の資料館に所蔵されているずっと後の伽藍絵図をみくらべてみると、誇張があるとはいえ、前者の広大な伽藍が想像される。

舞楽については、尾道浄土寺の文書にも、吉備津宮の舞楽が出てきて、舞楽が近在に知られていたものと思われる。また、現在吉備津神社の宝物館には、舞楽の面が何点か所蔵されている。

さて、もう一度『一遍聖絵』に目をむけてみると、吉備津宮の門前であるが、自の浄広を着て靴をはいた武士が今まさに供を連れて入ろうとしているのであるが、供の者は裸足(はだし)であるのは注目される。宮本常一氏が書いている所であるが、他の絵図でも武士あるいは供の者が、裸足で書かれているものがあるのでどのようなことか、裸足の者もいたことが想像される。

そして、今まさに武士が入ろうとしている門の左右には随身が立っているので、このころには二名の随身が左右に立っていたことがわかる。

五、時衆の跡

駅家町や新市、府中、世羅等には時衆と関連あるであろうと思われる伝承や遺跡が残っている。

駅家町中島の最明寺(最明というのは北条時頼の出家名で、時宗によって各地に時頼伝説が伝播していった。最明寺と最明の関連については不明)には阿弥号の遺跡がある。

新市の日隈城跡にも阿弥号の遺跡がある。駅家町には、平家の斉藤実盛の遺跡がある。斉藤実盛は金沢の片山津の方で討ち死にしているので、駅家とは直接の関係はない。

斉藤実盛については時宗の遊行上人の前に亡霊となって現われたという伝説があり、時衆とは深いかかわりがあるのである。

また、世羅の青近には曽我兄弟の伝説が残っていたのであるが(今も残っていると思うが)、これも時宗と関係あり、曽我伝説を持って歩いたものと思われる。