1996年06月22日

千田村の宮座証文について(権利の性格・変遷)

備陽史探訪:71号」より

出内 博都

千田町宮座証文

この古文書は旧千田村(福山市千田町)の庄屋に伝わった文書で、中世から近世にかけて、公領・荘園が国人領主の支配による新しい村に成長する過程で、在地土豪が村の自治権の根拠として、人々の精神的よりどころである鎮守の祭礼を運営するために「宮座」の制を作ったが、この文書はその宮座の権利を売った証文で、内容の概略は次のとおりである。

永代売り渡し申し候う宮座の事、
一、当村中村八幡宮八月十五日御祭礼の時、宮座并に御膳壱膳小池谷○○分、先年私相求め置き候う所当年より貴殿江永代に売り渡し、代銀百目慥に請取申し候う處実正明白に御座候う。然上は御宮座御膳永く御頂戴なさるべく候う、若し又脇方へ御譲りなされ候う共、如何様共勝手次第になさるべく候う。子々孫々に至る迄、○御如在申すまじく候う、一口一升万より何等之違乱申す者御座候はば、私罷りいで急度(きっと)埓明申すべき候う。少しも御苦労貴殿江加希(かけ)申す間鋪(まじく)候う、証拠と為て加判一札如件(くだんのごとし)。
 元文四年未四月。 千田村銀請座主 佐右衛門 印
          同村神主證人  加兵衛  印
   庄屋 久六殿

一部読解不十分のところがあるが、判りやすい丁重な文書である。今日ほど貨幣流通の経済体制でないだけに、現金の授受には丁重な証文を取り交わしたことがうかがえる。

宮座について国史辞典には

村氏神をまつる組織の一形態およびそれを構成する人々の集会をいう。宮仲間、宮講………などその呼び名は多い。これは氏子が同等な権利や義務をもって祭りに参与するのではなく、氏子のうち一部の者が独占的に神事執行に携わるもので全国的にみられる。しかし、座という名称は近畿・中国・九州北西部のみに見られる………宮座は中世後期十五世紀前後から顕著になる………村に新しく入村し人々が増加し氏神が単一の同族のものといえなくなってから、旧来の祭杷者たちが、神社との伝統的関係を維持しようとして、閉鎖的な内部集団をつくり、ついで神事頭人の慣行と結び付いて、祭杷組織をなすに至ったのが宮座であると考えられている。………座は氏神を祭る独占的組織であるから一社一座であったが、新入村者が増加すると、従来の宮座から排除されていた層が新座を組織する動きもみられ、複数の官座が組織される場合もある。……近世村落成立期においては、それ以前の荘園を基盤としたものから、村落単位に再編成され、年頭の行事とか、秋祭りとかに神事を執行して直会(なおらい)をする。このときの座順は座によって厳格に定められている……その運営上共有財産としての山林や座田・宮田などといった田畑を所有することもある

と記されている。荘園公領制にもとずき中央の政治的支配の強い体制のなかで、十五~六世紀ころから生産条件に対応した自然村落を形成する動きがみえてくる。こうした中から新しい村「惣村」が、寄合、村掟などの新しい仕組みをもってうまれてきた、このうねりの中心が宮座であった。

千田の宮座が、どんな組織で、いつ頃できたかはわからない。この地方で宮座について、比較的多くの文書の残っている木之庄八幡社の宮座について岡本家文書を参考にして考えてみたい。

木之庄八幡の宮座について、文書の解説書は

木之庄村へ入植してきた草分け農民たちは、八幡社を村民共同連帯の精神的支柱として、それをもりたて、自治組織を固めてきたものとおもわれる。当時の神仏習合の時代には、それを支配した別当・法印の権力は神主の上位にあって、種々の問題がおこり紛争に発展するすることも予想された。これを防ぐために、八幡社の神事の中には、仏者の介入を許さず、宮座を組織してこれにあたり、また同時にこれを村政運営の中枢としたものと思はれる

と記されている。宮座がいつ頃できたかは分からないが、慶長十五年(一六一〇)八月の「酉当村八幡宮御祭り次第不日之表」によると、壱番惣兵衛以下十番善五郎まで十家の当主の名がみえるが、これを「由緒釣引写書上帳」と対比してみると、慶長十五年の時点で、上座丹弥屋敷の場合、丹弥―丹右衛門―忠兵衛―九左衛門と四代も経過しているのに、善五郎屋敷や四郎衛門屋敷の場合は初代である。これから考えられることは、西氏場(別に東氏場の宮座もある)の十人座持ちがはじめからあったのではなく、何人かで宮座ができていた。それが次第に増加して、毛利時代に十人持座にまでなったのであろう。上座丹弥屋敷の場合、慶長十五年の時点で四代も経過しているので、仮に一世代二十五年としても十六世紀はじめ(戦国時代)ということになる。

この官座は同じ木之庄八幡の座でも東氏場と西氏場の二座に分かれ、二村に分かれていた「釣引写」によれば、古志氏の甥五良左衛門が浪人して、木之庄に来住し文禄三年(一五九四)東西両村の家数廿四軒を支配したとある。この頃の宮座は東氏場拾弐軒・西氏場拾軒あったことがみられる。宮座も時代が経過すると家が断絶することもあった、この場合は大体親類、縁者が跡をついでいたが、寛文期(一六六一)以降その様相が変化して、無縁の者に渡る場合が多くなってくる。慶長期に廿四軒あった宮座が、寛文十一年(一六七一)には三十三軒になっている。その内十九軒が本家、十三軒が間わき。下人、一軒が祢宜となっている。寛文地詰以降、脇百姓・下人の独立化の傾向がみえ、元禄の高度成長のはしりがうかがえる。この時の規定の中に「庄屋役人たり共神座之無き者堅く座居致す間敷事」という一条があり、中世末期の自然村落形成期の在地勢力(おとな・総代)などが、産土神の信仰を中核に宮座組織をつくり、外からの政受支配に対抗する村の自治権を確立した歴史の流れがうかがえる。千田村の元文四年(一七二九)の売渡証文が、座主佐右衛門から庄屋久六宛になっていることも、体制的な庄屋が必ずしも最初から自然村落の土着勢力でなく、近世村落を形成する過程で上からの政治的権力を背景にしたものであったことをうかがわせる。

こうした宮座の性格の変化、座の移動の一つの要因として、相続者の断絶、他所への転出のほかに、年貢未進による借金のため、宮座が現金と同様に評価されたことである。宝永頃(一七〇四~)の岡本家文書に

添証文之事(略)
一、宮座証文一通代六十日右之通火急之義二付、三品相預ケ其代銀二百四拾目御借被下恭奉存候、然ル上者年壱割半利息を加わえ三ケ年之内、受け得申さず候ハバ、貴殿御作配下さるべく候う、依って如件(くだんのごとし)略

という文書がある。ここでは代銀六拾目になっているが、千田村の場合は代銀百日である、座の権利が地域によって異なるとともに、その時の経済事情や、売買と質入れとの差であろう。こうした歴史のなかで、中世末期の栄光ある宮座の伝統は新興の本百姓・体制的村役人の手にうつり、近世的封建村落の支配機構に転化させられるのである。

さて、代銀百目とは一体どのくらいの経済価値があるものだろうか、当時の金・銀・銅の三貨制度のもとでは、金一両が銀五十日(後に六十目)銭(銅銭)四貫文(四千文)という一応の目安がある。銀百目は金二両である。日常一文銭で生活している庶民には二両なんていうお金は実感としてはつかめなかったであろう。なお、銀の単位は匁・分・厘であるが、十・百・千(貫)のように、一~九までの端数が付かないときは匁のかわりに目を使用している、当て字が多い当時の文書のなかで、経済上の表記としてのこの原則はきちんと守られていたようである。