尾道ベッチャー祭り 迫る鬼…号泣・歓声

備陽史探訪:74号」より

吉備津彦(一宮)神社の奇祭ベッチャーとは

柿本 光明

尾道ベッチャー祭り

菊花の薫る十一月、鬼が子どもを追い回して厄を払う吉備津彦(一宮)神社=尾道市東土町宝土寺境内=の奇祭「ベッチャー」祭りが今年も三日に行われた。

「ベッチャー」と称するのは、神輿渡御のとき、その先被い役として獅子頭が、天狗猿(田彦)の面に鳥兜をつけたショーキー、鼻の低い武悪面のベタ、自い磐若面のソバを従えて行列するからであり、「ベッチャー」は、そのベタ、ソバ、ショーキーが訛って祭名になったものといわれている。

『一宮社由来』によれば、文化四(一八〇七)年、尾道浦に悪疫が流行したので、時の町奉行南部藤右衛門が管内の各神社に病魔退散を祈願したとき、吉備津彦神社でも桐官平田志摩守忠安が祭事をおこない、満願成就の日、御輿を奉じて病家を見舞ったが、その先被いとして獅子頭をはじめ、異様装束の三人(ショーキー、ベタ、ソバ)が先導をもとめたのが始まりと伝えられている。

また『松木家文書』によると、文化年間(一八〇四~一八一八)、尾道の豪商松木伝兵衛が、祭りを盛り上げて、祭神の吉備津彦命への敬神の念を厚くするとともに、町の印象を強いものにしようと、諸国の祭りを参考にして、「ベッチャー」を考え出し、それを一宮社に寄進したのが始まりとも伝えられている。

この吉備津彦神社(通称)一宮さんの由来は、備中の吉備津神社の什器が当地尾道浦に故なくして来り、信者がこれを備中の同社に奉遷したが再びこの地に帰って来たので、社殿を造営して奉杷したと伝えられている。その後次第に信者が増し、境内が狭かったので宝土寺境内に遷座したと古老の伝承もある。明治四年、十四日町の良神社に御神体を奉還し土堂町山下友太郎所有の旧社地の寄附があり本殿改築復座した。なお小早川隆景が祈願のため日供料を別当に寄附した文書が宝土寺に伝わっている。

祭りの当日は、神社周辺は朝早くから子供たちが集まって騒然となる。午前八時、氏子から選ばれたショーキー、ベタ、ソバ役の若者たちが、それぞれに面や衣装を着け、太鼓と鉦のはやしに乗り、獅子舞と御典を引き連れて神社を出発すると、ショーキーはササラ竹を手にし、ベタとソバは紅自の紙で飾られた祝い棒を持って、旧市街地の路地から路地へと子供たちを追いかけ回し、手当り次第に突いたり叩いたりする。子供たちは口々に、「ショーキーベッチャー」「ショーキーベタ」と大声で囃したてながら逃げ回る。そして、祭りの雰囲気を盛り上げるかのように速いテンポの笛、チャンギリ(鉦)締太鼓の音が、子供たちの叫び声とともに町全体を異様な興奮の坩堝へとかきたてる。

祝い棒は”神の宿る棒”であり、これで突かれたり叩かれると、一年中病気にならない、風邪をひかないといわれ、またササラ竹で叩かれると、丈夫になる、良い子に育つとの言い伝えから、親は、子供をショーキーやベタ、ソバに近づけようとするが、子供は怖がって逃げ回り、幼児は恐れおののいて、親の胸にしがみついて泣き叫ぶ。本来、人を突いたり叩いたりするのは許されることではないが、ここでは演じる者と見る者とがまさに一体となり、神のなせる業として許し、認め合うことによって厄を払い、子供の健やかな成長を願うのである。今年も、秋晴れのよい一日であった。

「ササラ竹」で子供たちをたたくベッチャー祭りの鬼「ショウキ」
「ササラ竹」で子供たちをたたくベッチャー祭りの鬼「ショウキ」

【吉備津彦(一宮)神社=尾道市東土町宝土寺境内】

尾道ベッチャー祭り 迫る鬼…号泣・歓声(由来と歴史)https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/47847ec47f97e82e711f218fcd3285bb.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/47847ec47f97e82e711f218fcd3285bb-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:74号」より 吉備津彦(一宮)神社の奇祭ベッチャーとは 柿本 光明 菊花の薫る十一月、鬼が子どもを追い回して厄を払う吉備津彦(一宮)神社=尾道市東土町宝土寺境内=の奇祭「ベッチャー」祭りが今年も三日に行われた。 「ベッチャー」と称するのは、神輿渡御のとき、その先被い役として獅子頭が、天狗猿(田彦)の面に鳥兜をつけたショーキー、鼻の低い武悪面のベタ、自い磐若面のソバを従えて行列するからであり、「ベッチャー」は、そのベタ、ソバ、ショーキーが訛って祭名になったものといわれている。 『一宮社由来』によれば、文化四(一八〇七)年、尾道浦に悪疫が流行したので、時の町奉行南部藤右衛門が管内の各神社に病魔退散を祈願したとき、吉備津彦神社でも桐官平田志摩守忠安が祭事をおこない、満願成就の日、御輿を奉じて病家を見舞ったが、その先被いとして獅子頭をはじめ、異様装束の三人(ショーキー、ベタ、ソバ)が先導をもとめたのが始まりと伝えられている。 また『松木家文書』によると、文化年間(一八〇四~一八一八)、尾道の豪商松木伝兵衛が、祭りを盛り上げて、祭神の吉備津彦命への敬神の念を厚くするとともに、町の印象を強いものにしようと、諸国の祭りを参考にして、「ベッチャー」を考え出し、それを一宮社に寄進したのが始まりとも伝えられている。 この吉備津彦神社(通称)一宮さんの由来は、備中の吉備津神社の什器が当地尾道浦に故なくして来り、信者がこれを備中の同社に奉遷したが再びこの地に帰って来たので、社殿を造営して奉杷したと伝えられている。その後次第に信者が増し、境内が狭かったので宝土寺境内に遷座したと古老の伝承もある。明治四年、十四日町の良神社に御神体を奉還し土堂町山下友太郎所有の旧社地の寄附があり本殿改築復座した。なお小早川隆景が祈願のため日供料を別当に寄附した文書が宝土寺に伝わっている。 祭りの当日は、神社周辺は朝早くから子供たちが集まって騒然となる。午前八時、氏子から選ばれたショーキー、ベタ、ソバ役の若者たちが、それぞれに面や衣装を着け、太鼓と鉦のはやしに乗り、獅子舞と御典を引き連れて神社を出発すると、ショーキーはササラ竹を手にし、ベタとソバは紅自の紙で飾られた祝い棒を持って、旧市街地の路地から路地へと子供たちを追いかけ回し、手当り次第に突いたり叩いたりする。子供たちは口々に、「ショーキーベッチャー」「ショーキーベタ」と大声で囃したてながら逃げ回る。そして、祭りの雰囲気を盛り上げるかのように速いテンポの笛、チャンギリ(鉦)締太鼓の音が、子供たちの叫び声とともに町全体を異様な興奮の坩堝へとかきたてる。 祝い棒は”神の宿る棒”であり、これで突かれたり叩かれると、一年中病気にならない、風邪をひかないといわれ、またササラ竹で叩かれると、丈夫になる、良い子に育つとの言い伝えから、親は、子供をショーキーやベタ、ソバに近づけようとするが、子供は怖がって逃げ回り、幼児は恐れおののいて、親の胸にしがみついて泣き叫ぶ。本来、人を突いたり叩いたりするのは許されることではないが、ここでは演じる者と見る者とがまさに一体となり、神のなせる業として許し、認め合うことによって厄を払い、子供の健やかな成長を願うのである。今年も、秋晴れのよい一日であった。 【吉備津彦(一宮)神社=尾道市東土町宝土寺境内】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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