宮氏の素性(新資料から考察する備後国人衆)

備陽史探訪:98号」より

田口 義之

室町戦国期、備後で最も勢いのあった国人衆は、宮一族であった。宮氏の名は、『太平記』巻三を初見として各種の記録に散見し、南北朝時代には既に大きな勢力を持っていた。中でも、足利尊氏・義詮(よしあきら)方として活躍した宮兼信(下野入道道仙)は、貞治二年(一三六三)九月、尊氏に敵対した足利直冬の軍勢をその城下に破り、翌年には備中国の守護職を拝領している。

つまり、宮氏は一時的に守護家の家格を獲得していたのであり、その備後国内に於ける勢力は他の国人衆を圧倒していた。戦国期、毛利元就は、その備後進出にあたって宮氏の勢力と衝突し、激闘を繰り返すことになるが、それは故なきことではない。備後を支配しようとする者はこの宮氏を屈服させることがその前提として必要であったのである。

さて、このように中世備後の歴史に大きな足跡を残した宮氏の一族であるが、その出自は杳(よう)として謎に包まれている。

宮氏自身がそれを記録に残さなかった訳ではない。永正一六年(一五一九)、宮親忠はその父政盛の画像を画工に命じて描かせたが、その賛文によると、宮氏は藤原北家の小野官実頼の子孫であって、「小野宮」の小野を略して「宮」と称したとある。

しかし、一方で源姓を称した者もあった。すなわち、応永度大嘗会(だいじょうえ)記録によると、宮氏兼は源「氏兼」として称光天皇の大嘗会に奉仕している。これは、『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』八三有地(あるじ)右衛門家譜に、「先祖氏信は、軍功によって尊氏公より屋形号と源姓を名乗ることを許された」とあることや、備北西城の浄久寺に蔵する『宮景盛寿像』に、「宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とあるように、軍功によって恩賞として与えられたり、宮氏自身の「必要性」によって藤原姓を源姓に変えたのであって、宮氏が本来藤原氏の一派小「野官」氏の後裔であるとする伝承と矛盾しない。

実は、私自身は、これらの記録や伝承にあまり信を置いていなかった。宮氏の本拠は芦品郡新市町一帯であって、宮氏は備後の一宮「吉備津神社」と深く結びついて勢力を伸ばしていった在地武士と考えていたからである(これが現在の学会の定説である)。宮氏が自身で「藤原姓」を名乗っていたかどうかは、それほど問題ではない。吉備津神社という古代以来の有力神社を祭祀していた古代豪族の転身していった姿に違いない、と考えていたからだ。

ところが、である。最近とんでもない史料に出くわし、この考えに再検討を迫られることになった。近年発刊された『東城町史』資料編に収録された『庶軒(しょけん)日録』の次の記載である。

平将門の乱の恩賞の廟議(びょうぎ)で、小野官殿(藤原実頼)は、征東将軍藤原忠文の功を認めなかった。そのため忠文は怨んで餓死した。忠文の怨霊は小野宮殿にとりつき、その子孫は九条家(実頼の弟の系統、後の摂関家)の「奴子(やっこ)」となり、武家に転身した。これが備後の宮氏である。また、『平家物語』に出てくる奴可入道西寂(ぬかにゅうどうせいじゃく)は宮氏の先祖である…

(同日録文明一八年四月二七日の条)

奴可入道は、『平家物語』に平家の部将として、源氏方の伊予河野氏によって討ち取られたとされる人物である。『源平盛衰記』には「奴可入道高信法師」ともある。

もしこの伝えが正しいとすると、どういうことになるか。奴可入道西寂は奴可を名乗っているように備北奴可郡(現在の比婆郡の東半分)を本拠とする在地武士と考えられるから、この伝えを信ずるならば宮氏の本拠もまた旧奴可郡一帯ということになるのである。

これは今までの考えを一八〇度転換させる重大な事実である。今日までの官氏の研究は、宮氏の本拠が備後南部にあることが前提となっていた。吉備津神社との関係もこれがそもそもの前提であった。これが覆されるのである。

この史料の出現によって宮氏の研究は新たな段階に入ったと言える。私も二十一世紀を迎えるにあたって、気持ちを引き締めてこの問題に取り組んでいきたいと思う。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/64a8f7c136aad261b52a8786198ae99f.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/64a8f7c136aad261b52a8786198ae99f-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:98号」より 田口 義之 室町戦国期、備後で最も勢いのあった国人衆は、宮一族であった。宮氏の名は、『太平記』巻三を初見として各種の記録に散見し、南北朝時代には既に大きな勢力を持っていた。中でも、足利尊氏・義詮(よしあきら)方として活躍した宮兼信(下野入道道仙)は、貞治二年(一三六三)九月、尊氏に敵対した足利直冬の軍勢をその城下に破り、翌年には備中国の守護職を拝領している。 つまり、宮氏は一時的に守護家の家格を獲得していたのであり、その備後国内に於ける勢力は他の国人衆を圧倒していた。戦国期、毛利元就は、その備後進出にあたって宮氏の勢力と衝突し、激闘を繰り返すことになるが、それは故なきことではない。備後を支配しようとする者はこの宮氏を屈服させることがその前提として必要であったのである。 さて、このように中世備後の歴史に大きな足跡を残した宮氏の一族であるが、その出自は杳(よう)として謎に包まれている。 宮氏自身がそれを記録に残さなかった訳ではない。永正一六年(一五一九)、宮親忠はその父政盛の画像を画工に命じて描かせたが、その賛文によると、宮氏は藤原北家の小野官実頼の子孫であって、「小野宮」の小野を略して「宮」と称したとある。 しかし、一方で源姓を称した者もあった。すなわち、応永度大嘗会(だいじょうえ)記録によると、宮氏兼は源「氏兼」として称光天皇の大嘗会に奉仕している。これは、『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』八三有地(あるじ)右衛門家譜に、「先祖氏信は、軍功によって尊氏公より屋形号と源姓を名乗ることを許された」とあることや、備北西城の浄久寺に蔵する『宮景盛寿像』に、「宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とあるように、軍功によって恩賞として与えられたり、宮氏自身の「必要性」によって藤原姓を源姓に変えたのであって、宮氏が本来藤原氏の一派小「野官」氏の後裔であるとする伝承と矛盾しない。 実は、私自身は、これらの記録や伝承にあまり信を置いていなかった。宮氏の本拠は芦品郡新市町一帯であって、宮氏は備後の一宮「吉備津神社」と深く結びついて勢力を伸ばしていった在地武士と考えていたからである(これが現在の学会の定説である)。宮氏が自身で「藤原姓」を名乗っていたかどうかは、それほど問題ではない。吉備津神社という古代以来の有力神社を祭祀していた古代豪族の転身していった姿に違いない、と考えていたからだ。 ところが、である。最近とんでもない史料に出くわし、この考えに再検討を迫られることになった。近年発刊された『東城町史』資料編に収録された『庶軒(しょけん)日録』の次の記載である。 平将門の乱の恩賞の廟議(びょうぎ)で、小野官殿(藤原実頼)は、征東将軍藤原忠文の功を認めなかった。そのため忠文は怨んで餓死した。忠文の怨霊は小野宮殿にとりつき、その子孫は九条家(実頼の弟の系統、後の摂関家)の「奴子(やっこ)」となり、武家に転身した。これが備後の宮氏である。また、『平家物語』に出てくる奴可入道西寂(ぬかにゅうどうせいじゃく)は宮氏の先祖である… (同日録文明一八年四月二七日の条) 奴可入道は、『平家物語』に平家の部将として、源氏方の伊予河野氏によって討ち取られたとされる人物である。『源平盛衰記』には「奴可入道高信法師」ともある。 もしこの伝えが正しいとすると、どういうことになるか。奴可入道西寂は奴可を名乗っているように備北奴可郡(現在の比婆郡の東半分)を本拠とする在地武士と考えられるから、この伝えを信ずるならば宮氏の本拠もまた旧奴可郡一帯ということになるのである。 これは今までの考えを一八〇度転換させる重大な事実である。今日までの官氏の研究は、宮氏の本拠が備後南部にあることが前提となっていた。吉備津神社との関係もこれがそもそもの前提であった。これが覆されるのである。 この史料の出現によって宮氏の研究は新たな段階に入ったと言える。私も二十一世紀を迎えるにあたって、気持ちを引き締めてこの問題に取り組んでいきたいと思う。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む