1999年06月11日

中山田城測量調査報告(福山市熊野町)

備陽史探訪:89号」より

坂本 敏夫

城郭研究部会

去る二月二八日(日)と三月二一日(日)の二日間、城郭研究部会有志で「中山田城」の平板測量を実施したのでその成果を報告したい。

中山田城は福山市熊野町の標高一六三m、比高六〇mの丘陵(民有地)に立地。「甲谷城」「夕免城」「夕目城」ともいう。旧沼隈郡山田村中山田と下山田との境、「甲谷」という集落の奥、南東に伸びた丘陵上に築かれた山城である。

主郭には神社が祀られている。主郭の広さは約九〇〇㎡、山城としては中規模である。

縄張り(設計)は連郭式山城である。主郭である一郭から南西へ下る大手道に沿って三郭、三郭、四郭を配置している。その先は二本の堀切で尾根を断ち切り、さらに先に小規模な飛び郭を置いている。

裏手(からめて)は、一郭背後の北東部を土塁で囲み、その先を高さ約一岸としている。

切岸の裾(すそ)部には二本の堀切を設け、ともに一方を南東に伸びる竪堀としており、谷筋の備えとしている。主跡の北側後方は、堀切より続いて畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)を設け、さらに腰郭を構えて谷筋の備えとしている。

大手道の虎回は一郭と四郭に明確に残っている。その虎口には防禦のためと考えられる腰郭が設けられている。また、現状では明らかではないが、南側の二郭、三郭、四郭の接合部にも、竪堀と思える遺構と一体の虎口があったように見える。

一郭の北側に畝状竪堀群上部に通じる裏手虎口がある。また、一郭南東側にも裏手虎口と思われる痕跡が残る。両方の裏手も堀切に通じていたような跡がある。また、畝状竪堀群上部にも帯郭が設けられていたと思われる跡がある。

遺構は全体としてよく残っており、総合的に判断して中世後期(戦国期)の山城跡と考えられる。 

「夕免」とは「免田」からくる地名ではないかと思う。これが夕免城、夕目城という城名に転化したのではないだろうか。城の近接地には、今は池となっているが、「光林寺」という地名が伝わっており、かつての寺跡だという。

城の南西を昔の鞆街道が通り、街道周辺には軍原(いくさばら)、千人坪(墓地)等の戦いに関係すると思える地名が伝わっている。近くに備後の中世豪族宮氏の一族と思われる「宮近門」の墓石と伝える宝篋印塔がある。

中山田城に関係する武将については不明。今後の調査研究を待ちたい。

中山田城跡

《山城を理解するための註》

大手・裏手

大手は追手とも表記。街道や城下に面した城郭の正面で、大手に開かれた門を大手門、それに続く道を大手道という。裏手は揚手とも表記し、大手の反対。一般に崖、川、海等の要害の地形である。

郭(曲輪)

山頂部、鞍部、山腹部等で平らに整地された代表的な城郭の遺構。その用途や形状によってそれぞれ個別に名称がある。

帯郭

帯状に削平された郭。一般に広い郭の下周りに築かれる。

堀切(横堀)

城郭への通路を断ち切るために地表面を堀状に掘削し、その両側または片側に掘削したさいに出た土を積み上げた構築物。

竪堀

山腹斜面を攻め上ってくる敵兵が横に移動するのを防ぐための構築物。斜面を縦に掘削し、堀の両側に掘削した土を盛り上げてある。

畝状竪堀群

竪堀を数列平行に構築したもので、堀と堀の間の盛土が田畑の畝に似ていることからこう呼ぶ。

虎ロ

城郭の出入り口。防禦施設で最も重要な構築物。

《中山田城測量調査参加者》

備陽史探訪の会会員

飯泉義晴、石田利夫、出内博都、小林浩二、小林さなえ、黒木日出人、坂本敏夫、塩出基久、高端辰巳、田口義之、中山幸枝、七森義人、平井優三、平川寿水、平田雅郁、寶龜雍郎、宮宗昭子、三輪康嗣、安原誉佳

地元の参加者

岸田皓行、小山章、小山稔、宮本博、元井泉市、柳井昌登

敬称略・五十音順(トレース・文責 坂本敏夫)