2000年10月21日

沼隈半島を歩く

ふるさと探訪」より

小林 定市

5万分の1 福山

福山駅前から鞆鉄バスの「松永方面行」に乗車して、国道二号線を西進し、芦田川の神島橋を渡り終えた所が西神島町の「明王台入ロバス停」である。

芦田川の変遷

中世の芦田川は現在の流れと異なり、郷分から旧山陽道沿いに山手沖を南進し、水路は神島古城山の西方から国道沿いに東方の福山駅方向に流れていた様であるが、江戸時代に入り福山城が築城され城下町と野上村が西方に拡張されると、芦田川の最下流に於いて進められた改修工事で、川は西神島の東側を流れ更に下流の草戸千軒の中心地は水害常襲地となった。

神島古城山

バス停の右手前方に見える山が神島古城山である。戦国時代末の天正四年(一五七六)、第十五代将軍足利義昭は鞆に来住し鞆城を御座所としていたが、やがて瀬戸内の各所で物騒な事件が続発した。鞆の安全性が問われ鞆から津之郷に御座所を移した際、敵の海上からの御座所攻撃に対応する事と将軍の取次をする為、その前方を防禦する目的で、筆頭家臣の真木嶋玄蕃頭昭光が、神島古城山に館城を構え遠国大名達の使者を引見した城館である。何時しか周辺地に多くの商人達が集まり市場を形成していたが、福山城が築城されると農民は残り商人達は城下町に移って行った。

桃山時代の地名は「かしま」と記され、福嶋検地の時に「鹿島(かしま)村」と新村名が付けられた。その後幕府が水野勝種に下付した寛文四年(一六六四)の「領知之目録」にも村名は鹿島村と記していて、通説となっている神島村と村名が変るのは寛文四年以降である。

草戸稲荷神社

バス停の左手約五百メートル南方の山麓に、朱塗りの近代的な鉄骨作りの高層な社殿が目に付く、開運招福・産業守護・商売繁盛・交通安全・入学・就職等の神として庶民から信仰され、参拝者は年間約五十万人を越す備後で最も参詣者の多い神社で、正月の三箇日と卯の祭の賑わいは特に有名である。

草戸稲荷の卯の大祭の始まりは、草戸常福寺と城下奈良屋町園光寺を合併して新たに明王院を開基し、明王院で卯の月に三代将軍徳川家光のために盛大な供養の儀式を執行した事に始まり、明王院の別当社である稲荷神社の「卯の大祭」として祭りが継承された。徳川家光の命日に当たる旧暦五月の「卯の祭」には、参道に多くの露店が立ち並び近郷近在から善男善女の参詣者がみられる。

明王院

草戸明王院

草戸明王院

国宝の観音堂は内海地域で最も古い貴重な建物で、南方に建つ国宝五重塔は和様の形態を整えた南北朝時代を代表する建築物である。前記の二国宝に建物の建立者名が残されていたが、建立者名より寺伝の「弘法大師に依る大同二年開創説」の縁起が重要視された為か、現在まで建築を推進した建立者は黙殺されてきた。観音堂の内陣蟇股に元応三年(一三二一)三月に書かれた「沙門頼秀」の墨書が有り、また五重塔の相輪伏鉢にも貞和四年(一三四八)十二月「住持沙門頼秀」と同名の陰刻銘が彫られている。

長和庄地頭長井頼秀に関する、鎌倉時代末以降の史料が地元に何も伝えられなかった為、長井頼秀は現在まで大変誤解されて来た地頭である。足利尊氏が多々良ヶ浜の戦いに勝利して入京した時、頼秀は南朝方に味方して京都防衛軍に属し、延元元年(一三三六)の『建武年間記』に「長井前治部少輔頼秀」と名を残している。当時頼秀と名乗った人物は長井頼秀をおいて他になく、地頭の財力をもって真言律宗常福寺は創建されていたのである。

頼秀の先祖は大江氏に始まり、大江広元の娘婿長井時広以後長井氏は備後国守護職を相伝し、その守護職家と同族の長井頼秀は長和庄の西(北)地頭で、御家人役として京都の四条烏丸(からすま)の篝屋番役を勤めている。長井氏は鎌倉時代から南北朝時代迄地頭を勤めた後、安芸に移住して福原氏を名乗るのであるが、後年福原広俊の娘は毛利弘元に嫁ぎ出生したのが松寿丸毛利元就である。

江戸時代に創作された寺伝の縁起は歴史的な事実と一致せず、常福寺が真言律宗寺院であった歴史的事実さえ伝えておらず、開創縁起の「大同二年弘法大師艸剏(そうそう)」の通説が定着するのは、享保十八年(一七四三)に記された『中道山由縁不忘記』である。合併後最初の住職宥仙は、明暦三年(一六五七)に釣鐘を鋳造させ、釣鐘に「沼隈郡草戸之精舎中道山圓光寺明王院、門説大同二年平城皇帝之嘉運我祖野山大師之開基也」と、寺の開基者は弘法大師と記さず、野山大師であったと陰刻銘文に彫らせており、釣鐘を見れば誰でも陰刻文の「野山大師」の文字を容易に確認できる。

常福寺の寺伝が絶えた背景を推考すると、水野家では家臣の石橋源右衛門が連座した承応事件の早期決着を計りたい時期で、徳川将軍家を祀るに相応(ふさわ)しい大寺社の新造を必要としていた。その難題解決の方法として、時の領主水野勝貞は領主権力を以て寺院合併を強行した様で、常福寺の住僧舜意は合併に不満であったが、領主の意向には逆らえず地頭分村の福成寺に移り寺主となった。舜意と共に常福寺の什宝や重物等が福成寺に運ばれると、明王院には旧記を伝えた史料が無くなり新寺伝が創作されたものと考えられる。

観音堂(本堂)の北隣には、尾道浄土寺の阿弥陀堂と同様に同時期頃に建立された重文級の阿弥陀堂が残っていたが、水野家時代に修復の遅れが要因で再建不能の建物となった為か、合併後に取壊され堂跡地に庫裏が移築されている。観音堂の本尊木造十一面観音立像(重文)は、平安時代初期の優れた作品であるが、本山の奈良西大寺本尊十一面観音像は有名な施入仏像である事から、末寺常福寺の本尊十一面観音立像も本山の本尊と同様施入仏像と考えられる。

草戸千軒町遺跡

明王院の東前方を流れる芦田川の中州に残された中世の遺跡であるが、寛文十三年(一六七三)の草戸千軒水害説を有名にした『備陽六郡志』の記載は疑間。草戸真言宗法音寺の住職弘伏は、寛永十六年(一六三九)福山奉行所に宛てて「昔から草戸村には在家が千軒あったが、大風雨の時大潮と重なり寺院と家屋悉く流された」と、村の伝承を提出しており、近世初頭には『備陽六郡志』の記載と異なり、草戸千軒は既に洪水で流されていた。

昭和三六年から発掘調査が始められ、その際出土したいろいろな遺物は、広島県立歴史博物館に保管ののち系統的に分類され瀬戸内の民衆生活を明らかにしている。草戸千軒が繁栄した大きな事由として、従来から常福寺の門前町と長和庄の年貢積出港の両説が再有力視されてきた。しかし、中世の声田川の本流は草戸千軒の東側を流れ、対岸の野上村側にも、草戸村村高の約三倍(八百石)という宏大な中州に中世村落が形成されていた。

野上村は室町時代に松隈庄と呼称された庄園で、福嶋検地により野上村と村名が付けられた。松隈庄の中心常興寺山の一郭の小山に竹が繁茂していた所の地名を福山と称しており、水野勝成は新城を完成させると城内の福山の地名を愛(め)でて福山城と名付けたのであろうか。常興寺山の地名の由来は、鎌倉時代末に法燈国師の高弟無伴智洞が臨済宗諸山の松蓋山成興禅寺を開創した事に依るもので、本尊の釈迦三尊仏は北吉津町の真言宗胎蔵寺に伝えられている。

また隣の吉津庄にも、中国で参禅して後帰国した寂室元光が当地に止錫し、建武元年(一三三四)に吉津平居士の乞いにより臨済宗諸山の威凰山永徳禅寺を開基している。臨済宗の二大寺院は何れも室町幕府が厚く保護を加えた寺で、草戸千軒の繁栄に大きな影響を与えていた。

沼隈町周辺

長和庄

「明王台入ロバス停」から沼隈方面行きバスで約三キロメートル進み「瀬戸農協前バス停」で下車すると、中世の庄園名を伝える瀬戸町長和である。長和庄関係史料は福山地方の庄園内で最も豊富に県内外に残存し、東地頭の『田総家文書』や西地頭の『福原家文書』『毛利家文書』がある。領家と地頭代官を務めた渡辺氏の『先祖覚書』と『譜録』は長和庄研究の絶好の史料であるが解明されていない。

小高い福井山には、長和・佐波・草戸・小水呑等の氏神福居八幡宮が鎮座している。同社の社殿を十五代将軍足利義昭が寄進したとする伝承が伝えられているが、義昭が福居八幡宮の社殿を寄進した事由は、同地を毛利氏が義昭に提供していたからである。義昭が上京した後も毛利氏は義昭に対して経済的援助を続け、沼隈郡の長和庄と津本郷の地を割いて一三五〇石の支援を行っていた。

地頭分村の村名由来は、長和庄の地頭が支配した為に地頭分村の村名が付けられたとする説は有力であった。しかし、渡辺氏四代目の渡辺越中守兼が書き残した『先祖覚書』に依ると、領家悲田院の長和領所を分割し一部を「山北渡辺分」と称し、残りの半分は「長和寺家半済」と呼称する守護領となっていた。同書には「長和寺家半済」の田中名が瀬戸池下流域に存在したと記してある事から、地頭分村・長和村・山北村一帯の地は従来の伝承と異なり、領家悲田院が支配していた地域であった。

越中守兼は小土豪ではあったが、毛利元就が多治比の猿掛城に住まいした頃、元就と共に過ごした関係もあって、元就から備後で最も厚い信頼を寄せられた武将で、元就と同様文武に優れ和歌を三首書き残している。

地頭分村の真言宗福成寺は、応永中期(一四一〇)の頃から寺名を伝える古寺で、室町時代中期の木造十一面観音立像(市重文)と室町時代後期の木造阿弥陀如来立像(市重文)を伝えている。又伝来不詳の木造阿弥陀如来坐像(県重文)は平安時代後期の優作である。

山南(さんな)郷

バスで南に熊野町を越えると、道は下り坂となり緩やかな下り道を「天神山バス停」で下車すると、同地は沼隈町上山南で中世山南郷の文化中心地である。縄文時代の遺物等は明らかにされていないが、弥生時代になると土器や石斧に平形銅剣が出土している事から、同時代以降人々の営みは次第に発展した事であろう。時代は移り平安時代末期、伝承の通り平家方が山南郷で源氏の軍勢を相手に激戦を展開していたのであれば、鎌倉幕府は平家減亡後に山南郷を幕府領とし、地頭を派遣すると同時に幕府が編纂した『吾妻鏡』に平家没官領との記録を残したり領家も存在した筈で、江戸時代後期の幕府の正史を反映しない伝承は疑間である。

ところで、鎌倉時代末の領主が大仏(おさらぎ)氏であった事実をどの様に解釈するかであるが、関東武士が源平合戦後に西国進出を果たした事件に承久の乱があり、承久の乱後に、北条時政の三男時房が山南郷を領有したとすると筋が通る。以後時房から四男の大仏朝直に伝領され、続いて曾孫の大仏維貞(一二八六~一三二七・六波羅探題南方・関東評定衆・連署・従四位下)が領主の時、山南郷の代官職を家臣の比留左衛門太郎維広(祖父の代より代官)に任せており、鎌倉幕府存続中は大仏一族が支配権を保持したものと思われる。

大仏氏の支配も元弘の変で終わり、建武の新政府から元弘の変に活躍した渋川義季に与えられた様である。足利尊氏恩賞を参考にすると、尊氏やその一族に与えられた恩賞地は、元弘三年(一三三三)七月頃に北条一族からの没収地が支給されており、備後鞆に一番近く瀬戸内海上交通の要衝で北条一族の所領という事を考慮に入れると、渋川氏の領有時期は元弘三年七月頃からが妥当であろう。

浄土宗悟真寺

九州探題の渋川氏が保護を加えた寺で、開基を『備陽六郡志』は勝運社清譽上人としているが、『水野記』は、「関東の光明寺より、正蓮祐清上人が上山南村に来って初めて此寺を建立する也」と記している。悟真寺の本山は鎌倉の、天照山蓮華院光明寺と号した関東総本山で、浄土宗の第三祖然阿良忠に帰依した大仏朝直が、正嘉二年(一二五八)鎌倉の佐介ヶ谷に悟真寺を建てて良忠を迎えている。その後悟真寺は蓮華寺から更に光明寺と寺名を改めている。

山南郷の領主大仏朝直が鎌倉に悟真寺を創建し、備後の大仏氏所領にも本山と同寺号の寺が建立された事は、偶然の出来事でなく共通する寺号が物語る様に大仏氏が本末両寺の建立に深く関与していたものと考えられる。悟真寺の本尊は室町時代初期頃の作で、木造阿弥陀如来坐像(像高六七センチ)は県指定の重要文化財である。室町時代には渋川氏が保護を加え、渋川氏の代官桑田氏も旦那となり伽藍の整備を進めている。悟真寺前東方の土居形式の丸山城と、約六百メートル南の山城何鹿(いかずか)城は共に桑田氏の城であったと伝えている。

浄土真宗光照寺

山南光照寺

山南光照寺

最初の本山は鎌倉弁ヶ谷にあった最宝寺で、最宝寺の明光(甘縄了圓)の門弟達が西日本で最初に布教拠点とした寺で安芸門徒の総本山である。現在まで本末両寺とも寺伝の縁起と残存史料に矛盾が多く、山南進出の動機と時期が論理的に解明されていない。光照寺には、嘉暦元年(一三二六)五月から始まる絵系図が伝えられているが、京都の仏光寺にも元徳元年(一三二九)十一月の絵系図が伝えられていて、仏光寺創建後の推移を参考にして光照寺開創の参考とする。

仏光寺を開創したのは明光の門弟了源で、了源は比留維広の中間(ちゅうげん)として働いていたが、比留維広の主大仏維貞が鎌倉の引付頭から京都六波羅探題に補任されると、主人に随従して勤務地の京都に上京しており、了源が鎌倉から上京した動機は主人の勤務地変動に伴うもので、仏光寺が京都に建立されるに至った契機は大仏維貞の六波羅探題就任に依るものであった。また、仏光寺が創建された年は元亨三年(一三二三)であったが、創建当時は絵系図は作成されておらず、絵系図が作成されるのは創建より六年も後の年で、仏光寺の創立と絵系図の作成年月は直接関係していなかった。

関東の最宝寺門徒が山南に進出した最大の事由は、最宝寺の維持と布教が非常に困難となった時期と考えられる。元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の軍勢は鎌倉に進攻し最宝寺があった弁ヶ谷は戦場となった。同地には北条高時が創建した臨済宗崇寿禅寺が建っており、この地は長崎高重が目覚ましい奮戦を見せた場所で、激戦地となった最宝寺一帯は戦火のため焼失したと考えられる。幕府倒壊後に焦土と化した鎌倉で、大仏氏や比留維広の中間(最宝寺の門徒)達は没落した様で、苦境打開の為に関係者を頼って山南郷に進出したのであろう。

沼隈町に伝えられている一流相承絵系図は、光照寺の他に外常石の宝田院・下山南の宝光寺の三幅がある。また文化財も多く、山門・鐘楼が(町重文)に、絹本着色親鸞上人絵伝。法然上人絵伝・聖徳太子絵伝等の画八幅(県重文)の他に、多くの古文書も所蔵されている。以後教線は次第に広がり、戦国時代には中国地方の末寺は三七一ヶ寺に及んだという。天文年間(一五三二~一五五四)に光照寺は神辺城主の山名理興に攻撃放火され、堂塔はことごとく灰儘となり、渋川氏が再興したためか戦国時代以前の建物は伝えられていない。

日蓮宗本光寺

下山南の沼南高校の裏側にある寺で、創建当時は天台宗の寺院で法花寺と称していた様であるが、寛正三年(一四六二)四月渋川氏の代官田中河内守が日蓮宗に帰依し、京都妙顕寺の住職日言に依頼して日蓮宗本光寺に改め開基した。当時田中氏は下山南の高城の城主であった。その後渋川氏の代官を八五年務めたが、何かの事情で桑田氏と交替した。

臨済宗磐台寺観音堂

阿伏兎観音

阿伏兎観音

沼隈半島の西南端、瀬戸内の隧灘に突出した阿伏兎岬の先端にあって、阿伏兎ロバス停から南に海岸沿いに進むと道の正面に、磐台寺の禅宗方丈建築の客殿(県重文)がある。本尊は木造の薬師如来である。寺伝によると、暦応年中(一三三八~一三四一)に覚叟建智の開創としているが、実際に覚雙建智が活躍した時代は、戦国時代の天文末年から天正初年(一五五〇~一五七五)頃にかけての年代であった。客殿の南の断崖上(高さ二〇メートル)に建てられた、朱塗りで和様の観音堂(国重文)の本尊は石造の十一面観音菩薩である。観音堂は元亀元年(一五七〇)に毛利輝元が創建したもので、輝元は永代灯明料を寄進している。大悲観世音の信仰と海路の安全を祈願して、領主の水野・阿部氏は堂と石垣を修復し、九州の諸大名も祈祷札を献上している。また船乗りに商人や漁師も安全と大漁を願い海から賽銭を投げたが、いつとはなく慈母観音にちなんでか、子授け・安産・母乳が出ない人などの願いをこめた多くの絵馬が並べられ参詣客は絶えない。

平家谷

中山南(なかさんな)の東南、山南川上流の横倉が平家落人伝説の平家谷である。屋島から逃れ能登原合戦で敗れた、平通盛主従が八日間隠れ住んだために名付けられたという八日谷から、谷をさかのぼると平家の赤旗が祀られている赤旗神社があり、更に進むと境内に平通盛の妻小宰相の墓がある浄十真宗福泉坊である。一番奥が通盛神社で通盛と小宰相の木像(御影)を祀った平家谷の氏神である。

草深の唐樋門

草深村に最初に完成した新涯が磯新涯で、『延藤家文書』に依ると、磯新涯は寛文六年(一六六六)に地詰が行われ石高は二八二石であった。干拓地が造成される際に築かれた唐樋門が県指定の重要文化財となっている。延宝二年(一六二四)の大雨で堤防が決壊し、元禄九年(一六九六)と安永三年(一七七四)に改修を加え、木製のため不具合な部材を石製に改良した。

5万分の1 福山2

水香と鞆

福山駅前西側の鞆鉄バスの『鞆行』に乗車して、バスが芦田川の草戸大橋を渡り出すと右側前方の中州が中世遺跡で有名な草戸千軒町遺跡だ。後方山麓の緑に朱の堂塔の明王院と草戸稲荷の赤い建物が見える。大橋を渡るとバスは左折し堤防上を南の河下に向かって進む、周辺の農地はいずれも江戸時代初期に造成された新涯である。

洗谷貝塚

次の「水呑大橋バス停」で下車して、南方の山裾に向かって進み谷を越えた所が貝塚で、出土品に未公開保存された多くの押型文(四つ目格子)土器があることから、今から約八千年前の縄文時代早期より縄文前・中・後期と縄文人が定住しており、福山湾岸文化発祥の足跡を知る事ができる貴重な貝塚である。貝塚の範囲は確認されておらず、貝塚想定地外の筆者の畑にも縄文包含土層があり、平成九年春、筆者は農作業中、甑(こしき)形土器をはじめとする多くの縄文土器やハイガイ・カキ・ニシ等の貝類、石鏃・石刃等を発見した。洗谷貝塚には備後地方の周辺貝塚で発見されていない安山岩の集石遺構(四五キログラム)がある。集石遺構は、この地が縄文海上交易の拠点として利用されていた要所であったことを示すものと考えられる。

浜貝塚

浜貝塚 縄文土器と石器

浜貝塚 縄文土器と石器

洗谷貝塚の南約三キロメートルの「JA水呑支店バス停」の北側一帯の地である。昭和八年に水呑小学校の橘高武夫訓導によって洗谷貝塚と共に発見された貝塚で、続いて橘高訓導は木之庄貝塚も発見されている。

残念なことに同地は早くから宅地化が進んだ為に、小規模の発掘調査で終わっていたが、平成十年二月筆者は偶然同所を通行中に、宅地造成中の廃土の山に縄文土層を発見し確認したところ、縄文時代の羽状縄文・条痕文・磨消文土器にカキ・ハイガイ・アカニシ・ハマグリの貝類に鹿の歯付の顎骨と獣骨に石棒・石包丁・安山岩石刃等が混在し、貝殻まじり赤茶色の土の山から種々縄文文化資料を採取した。

日蓮宗妙顕寺

曼荼羅本尊二つ御判

曼荼羅本尊二つ御判
元享3年 日像筆 妙顕寺蔵

浜貝塚の南山際にあり、妙性山と号する京都大本山妙顕寺の末寺で、寺格は中本山。鎌倉時代の元亨二年頃(一三二二)に刀鍛冶法華一乗妙性上人が開創。昨年初公開された同寺伝存の十界曼陀羅本尊の端書きに、「備後国西国妙顕寺建立本願、三原一乗妙性授与之、元亨三年三月十八日日像(花押)同四月八日日像(花押)」と、日像上人が二ヶ所に花押を据えた二つ判の曼陀羅本尊があり、備後の妙顕寺を建立した法華一乗妙性上人に日像上人が授与した曼陀羅本尊である事が判明した。次いで暦応二年(一三三九)三月に日像上人が書かれた、紺絹地金泥曼陀羅本尊の二幅が伝えられている。

前記の曼陀羅本尊は、いずれも県内日蓮宗寺院最古の史料と推定される貴重な文化財で、福山湾では鎌倉時代から刀の需要供給があった事を物語るものである。水呑は早くから繁栄し刀鍛冶は鞆や草戸千軒に先行していた。

従来の寺伝縁起では、「日像上人の弟子大覚大僧正が中国地方を弘通した際、法華一乗妙性の宅に立ち寄った際に妙性を教化し、延文元年(一三五六)四月に創立した寺」とされてきた。しかし、焼失したと伝えられていた二つ判の曼陀羅本尊(二つ妙判の曼陀羅本尊)が新たに発見され、開創は一挙に約三四年も古くなった珍しい寺である。末寺は室町時代から次第に増加し十数ヶ寺を数え、江戸時代水呑の寺は日蓮宗寺院が栄え、水呑法華王国の基礎となった寺で俗に「水呑千軒まる法華」と呼称されてきた。

日蓮宗重顕寺

妙顕寺の南方の地にあり、清光山と号する京都大本山妙顕寺の末寺。元は開創不詳の真言宗の寺で戒善院と称していた。戒善院日行上人が兄弟子山城国真経寺実賢上人から教えられた事を記した寺蔵の『諸宗問答口作集』の中に「諸宗問答集一巻、実賢日入依拝写奉者也・千時應長元(一三一一)大才辛亥仲陽良日」と、転宗の経緯と年月を記した古文書(準日蓮宗宗宝指定)を伝えている。

日蓮上人が没してから二九年、備後に於いて最初の創立された日蓮宗の寺院であったが、寺の開基を『沼隈郡誌』が慶長元年(一五九六)と應の文字を慶の文字に誤植したためか、一般的には二八五年も新しく開創された寺として不当に評価されてきた寺で、重顕寺にも南北朝時代の日像上人筆の曼陀羅本尊が伝えられている。

水呑八幡神社

瀬戸町長和の福井八幡神社に於いて、元亀元年(一五七〇)八月十五日の祭礼に御神体を巡って争いとなり、御神体を奪い取り洗谷に持ち帰った。その後同地に分霊を観請していたが、水呑の北部で不便であったため、慶安四年(一六五一)八月水呑中央部の現在地に社殿を造営して遷宮し現在に到る。

鞆周辺

鞆浦

鞆の地名が最初に見られる『万葉集』には、大伴旅人が天平二年(七三〇)に筑紫よりの帰途歌三首を残している。以後中世の鞆浦の史料は多く見られ、江戸時代の初期以降も他の町村より多くの史料が多く残されており、歴史的事実を出来るだけ正確に反映させるため、この稿では古史料を年代順に優先し採用する。採用順位は一番に中世文書、次いで寛永十六年(一六三九)三月に領内の寺社が旧記を福山奉行所に提出した『水野記』、三番目は鞆奉行の荻野重富が正保二年(一六四五)八月に著作した『鞆記』、四番目は天和元年(一六八一)に書かれた『安久太川(あくたがわ)』の順である。寛延元年(一七四八)の『鞆浦志』以降の寺院資料は権威付けの為か、縁起に有名僧による寺院開基の伝承が見られる。

福嶋氏の入部に伴う慶長検地で、町方の鞆町と村方の後地村に分割され、更に元禄十三年(一七〇〇)の検地で原村と平村の二村に分けられた。沼隈半島の東南鞆周辺の大小の島々は、古くからとりわけの美しい事から鞆公園(国名勝)は瀬戸内海国立公園の内にある。

魚の王様桜鯛を一網打尽にする、三百数十年の伝統を誇る漁法が鞆の観光鯛網で、毎年五月一日~三一日迄一ヶ月間開催され、その勇壮華麗さは見る人々を堪能させている。

臨済宗安国寺

江戸時代の本釈迦三尊像

江戸時代の本釈迦三尊像
鞆安国寺釈堂 『備陽六郡志』

創建当時の本山は紀州由良の興国寺である。同寺を開山した法燈国師は中国の普化宗(虚無僧)を目本に伝えた僧で、弟子達は近畿地方を中心に多くの興国寺系の寺を発展させている。鞆でも室町時代に安国寺の禅僧は新たに寺を起こしており、江戸時代初期には慈徳院・正法庵・小松寺・善正庵・常観寺の末寺があった。

安国寺は鎌倉時代の文永卜年(一三七三)の頃、法燈派の僧侶によって臨済宗金宝寺が開創されるが、寺の規模は明らかにされていない。南北朝時代、足利氏は安国寺利生塔の建立推進を各国守護に命じており、当時の備後守護細川頼春が金宝寺を安国寺に変え拡張を加えたと考えられるが、確かな史料は残されていない。当時細川頼春は阿波守護を兼帯しており、阿波安国寺を開創している。その後慶長四年(一五九九)に毛利輝元を大壇越として大修理が加えられ、続いて江戸時代に三度の修理と昭和七年に釈迦堂の修理が行われた。

明和二年(一七六五)の修理以前であろうか、宮原直倁は安国寺釈迦堂(国重文)の本尊(釈迦に脇士文殊普賢)は「他の所にて拝せさる尊像故ここに図す」と、釈迦三尊像を『備陽六郡志』に書写していることから、江戸時代中期迄は釈迦堂の本尊は釈迦三尊であったが、その後何らかの事由で善光寺式阿弥陀三尊像(国重文)が釈迦堂の本尊に入れ替わった様である。

大正九年の失火で本堂を失っているが、釈迦三尊像が伝存していない事を考慮すると、焼失記録は残されていないが、釈迦三尊像も一緒に焼失したものと考えられる。現在釈迦堂の本尊に阿弥陀三尊像が祀られているが、配置換えされた時期やその目的は今後の研究課題である。釈迦堂の裏手にある枯山水は、室町時代の禅宗寺院様式に作庭された雄大で豪快な石組や、恵瓊(えけい)遺愛と伝える蘇鉄(県天然記念物)の根株が往時を偲ばせてくれる。また釈迦堂前方広場の地蔵堂に、石造地蔵書薩坐像(総高二一九センチ)国の重要美術品が祀られ、背面に元徳二年(一三三〇)の銘がある。

室の木

伝承を聞書きした『安久太川』は「磯の天木香樹(むろのき)は、関町旗の崎の磯に在りしと云博へたり、抱へ三人(みたり)余りして梢は東、向江(むかへ)嶋に横たはり反り橋を架けたらんやうに見ゆる木なれ共、帆持たる舟の往来(ききき)に障らず風を凌ぎ潮時を告ぐる使りなりければにや、遠近(おちこち)人も心を止め妹を恋ひ友を慕ひつゝ、四方に名高き室の木(杜松(ねず))の何時しか枯れ倒れ、今は唯名のみ残る」と記している。室の本は関町の旗の崎に孤立した大木で、大人三人が手を延ばしても届かない大樹と記している事から、目通り五メートル前後(幹周)の巨木であろう。枝を反橋の様に向江嶋(仙酔島)に向かって伸ばしていたことから、旗の崎の磯は今の福山市役所鞆支所付近が有力である。江戸時代の向江嶋は鞆の浦の東方三町余り(三百メートル余)の対岸にあった島で、南の向江(こうご)嶋(皇后嶋)と北の向江嶋(仙酔嶋)の二嶋を一緒に向江嶋と呼称していた。

沼名前神社

延喜式の神名張に記されていた沼隈郡の式内社は、沼名前神・高諸(たかもろ)神・比古佐須伎(ひこさすき)神の三座であったが、約七百年経過した江戸時代初期になると、沼名前神の神名は何時しか忘れられ、沼名前神は渡守大明神と呼称される神に変化していた。神社は関町の渡守札の辻(福禅寺の北方三叉路)にあって、『水野記』は「渡守大明神祠は鞆津の氏神(産土神・鎮守神)也、神功皇后西征の時渡海を祈り給ふ」「古来社領拾五貫、正和三己亥年(一三一三)国守長岡但馬守より社領を寄すの證文今社家に在る也、毛利家に到って之を没収す」「今に此祠に碇を祝ひ奉るとそ、社家秘して云、石の碇を神と崇め奉る」と記している。

伝承に依る鞆の古来からの神は渡守大明神で、大明神の神宝は船を止めておく重りの「石の碇」であった。ところが江戸時代中期になると、鞆の地名にちなんでか神宝は武具の鞆に変化して現在に到っている。渡守大明神は慶長四年(一五九九)の類焼で麻谷に移し、貞享二年(一六八五)に現在地の草谷に遷座して祇園官と共に並べて再興したが、先年の火災で焼失し、昭和五五年に近代的な社殿に再建された。

相殿に祀られていた祇園宮の方は、「保元年中(一一五六~一一五八)に勧請奉る也、その後延慶三年(一三一〇)に修補(以下略)」と、『水野記』は従来の通説と異なり、祇園宮は今から八四〇余年前に他所から鞆に勧請された神と記録しており、勧請場所は関町の福禅寺北方崖下で、当時は海岸の磯と推定される場所であった。

摂社鞆八幡宮に伝えられた「お弓神事」と、祇園宮の「お手火神事」はともに市の無形民俗文化財の指定を受けている。参道脇の能舞台は、三代水野勝貞が祇園官に寄進したと伝え、一重切妻造り柿葺(こけらぶき)で現在は固定されているが、もとは組立式の移動出来る架設式の初期能舞台の特徴を持つ貴重なもので、国指定の重要文化財。

臨済宗静観寺

伝教大師(七六七~八三二)に依って大同元年(八〇六)に創建され、往古より七堂伽藍を具備した鞆の古刹と伝えられた寺で、寺名は常観寺から浄観寺さらに静観寺と変わっている。最古の寺歴を記した『安久太川』には、「浄観寺は禅寺なり。開山は彦覚禅師とやらん、云ひける人も有れと其の印無けれは知らす。ただ四百餘年に及ふ寺と云ひ傳へて、昔は七堂伽藍なるをかの暦應年中(一三三八~四一)の兵燹に遭ひ、由由しかり(神聖)ける佛殿賓塔等の、朝来一片の霞と焼け昇りぬるを(後略)」とあり、確証の無い寺伝であった。

開山の彦覚禅師は、正和四年(一三一五)に入寂したと伝えられた禅僧であった。禅師とは智徳の高い禅僧に与えられた称号である。創建年代に付いて、四百余年遡ると弘安元年頃(一二七八)の鎌倉時代となり、静観寺は安国寺の末寺であった事を考慮すると妥当な記録である。寺の開創年代に変化が見られるのは、寛延元年(一七四八)の『鞆浦志』で、「大同年中(八〇六~八〇九)云々」と、静観寺の草創は一挙に四百数十年も古くなった。

臨済宗小松寺

俗に正三位内大臣左近衛大将が創建した寺として有名であるが、荻野重富は小松寺の伝承が無かったのか『鞆記』に何も記していなかった。『安久太川』は、「小松寺は禅寺なり。開山は曇臾花禅師(安国寺六世)にて、内大臣平重盛公の草闢となり。昔の名残とて清き池の水際に、歪んでくねりて片枝は池に覆ひ、その根は何処と定かに知られぬこまつ有りけり。(中略)重盛は、治承三己亥年(一一七九)壽四十二歳にて身まかり給ふ、西国に下り給ふ事も諸伝定かならす、又此禅宗なる曇史花禅師は重盛公より遥か後の人(約二五〇年後に活躍)と見えたるに、開山と云もかれこれおほつかなしとなり(後略)」と矛盾する口唱伝承に困惑している。寺の伝承の通り、平重盛が創建し鞆を重要な拠点としていたのか、安国寺系の禅宗寺院としての曇臾花禅師が創建したのか歴史の真実は微妙である。

真言宗福禅寺観音堂

明治時代の対潮楼

明治時代の対潮楼

『水野記』には「海吟山福禅寺観音堂は、天慶年中(九二八~九四七)空也が来り天下七ヶ所の霊地則ち当寺は其の随一の真言寺也、本尊は海中より出現の千手観音也、永禄元年(一五五八)鞆浦炎上し当寺の堂塔悉く類焼して本堂一宇残るなり」と寺僧の栄親上人は寺伝を提出し、続いて荻野重富も開創について前記と同様の文章を残しているが定かでない。それから十六年経過した、寛文元年(一六六一)の野々口立圃(りゅうほ)の俳諧文では「沼隈郡の長者新庄太郎の娘明子姫が村上天皇の后となり、皇子が誕生すると天皇は空也を召し勅願で観音堂を建立し本尊の千手観音を安置した」といった内容の「鞆之浦観音堂縁起」新縁起の社伝に変わり、また本尊は「海中湧出の千手観音から、勅願の本堂に千手観音を安置する様に」と、村上天皇の権威が付け加えられ、本尊の由来は大きく変化している。

寺伝では永禄元年の火災で本堂一宇が残り、慶長十五年(一六一〇)に寺を建立したと『安久太川』に記しているが、『天正記』に依ると、天正十七年(一五八九)七月十一日、毛利輝元は舟での上洛に際し鞆の宿を観音堂とし、大阪城を見物して帰国する。同年九月十七日にも観音堂を宿としている。

このように、福禅寺の前身観音堂は毛利時代から鞆で一番立派な宿泊設備を整えていた寺で、慶長元年(一五九六)六月に明使沈惟敬が、伏見で豊臣秀吉に謁見した際も福禅寺を宿としていた様で、江戸時代になると朝鮮通信使の正使副使等の宿所に当てられた。元禄年間に建てられた、対潮楼から眺めた鞆の海に浮かぶ弁天島や仙酔島の景色は素晴らしく、正徳元年(一七一一)の使節団は「日東第一景勝」と賞詞し、従事官李邦彦の書が額にして保存されている様に、日朝文化交流の史跡として平成六年春、国の史跡に指定された。

弁天島

仙酔島との間にある島で、近世初頭迄は百貫島と呼んでいたが、島に古くから祀られていた弁才天の社が大破したため、正保元年(一六四四)に浄財を募り建立してからは弁天島と呼称が変わった様である。島名の由来は、他国の船が来て百貫島の付近で重宝の大刀を海に沈めたことから、百貫で漁師に引揚げを依頼すると、漁師は鞆の名誉を守るため海底の大刀を担ぎ揚げたが鰐(わに)(鮫や鱶(ふか))に足を喰われて死没した。その代価をもって建立した供養塔が十一層(現在九層)の弁天島石塔婆という伝説がある。初重に文永八年(一二七一)六月十五日の刻銘があって、県内在銘の石塔中最古の塔で県指定の重要文化財となっている。

仙酔島

鞆の東にある島で、周囲は五千メートル余り標高は一五九メートルある。仙酔島には波浪の浸食作用によってできた約二百個の海食洞窟洞と、今から一億数千万年前の中生代白亜紀に、火山より噴出した流紋岩や凝灰岩によって形成された仙酔層と岩脈がある。地質学上の貴重な資料であることから両者とも県指定の天然記念物に指定されている。

鞆周辺には他に、皇后島・つつじ島・玉津島・津軽島等の島があって岩礁も多かった様である。平魚港防波堤の先端部には、元治元年(一八六四)銘の高さ三メートルの角柱法界石の悼が海中に据えられ、正面に南無妙法蓮華経と日像筆法の波揺り題目が刻まれている。また船乗りの安全航海を祈願した和歌二首を刻んだ暗礁標識が建っている。

鞆城跡

渡辺出雲守守房 井原市河合家所蔵

渡辺出雲守守房 井原市河合家所蔵

鞆港の北方に位置する、標高三四メートルの独立丘陵を利用した水軍城である。築城の歴史は足利義昭を鞆に迎えた天正四年(一五七六)とされてきたが、大文二二年(一五五三)五月十日、鞆を重視していた毛利元就隆元父子は、江ノ川の萩の瀬で尼子軍と交戦中、山田郷の一乗山城を本拠としていた渡辺出雲守房に、「御折紙拝見候、鞆要害を取り誘かれ相調えらるの由に候、即時に仰せ付けられ候事、誠に御入魂比類無く申し尽し難く候、番衆等の事承り候、油断の儀有る間敷候く、(以下略)」と書状を出しており、鞆城は毛利氏の命で渡辺出雲守房が築いたことがわかる。続いて五月二四日にも築城を感謝し、六月九日には城の兵糧に配慮した隆元と連署の返報を出雲守房に送っている。

足利義昭は鞆城に六年間滞在していたようで、その当時の建物に用いられていたと推定される足利氏の家紋桐紋入りの棟瓦(鞆城瓦)が発見されており、毛利時代に城館が整備されていた事は確かである。続いて福嶋正則が領主になると更に天守閣等も築き大崎玄蕃が在城した。一国一城令で主要な建造物や石垣は破却されたが、水野時代も軍事的拠点として重要視されていた。昭和六三年、旧城山の一角に鞆の浦歴史民俗資料館が建設された。鞆と瀬戸内の原始から現代までの考古・歴史資料や鯛網漁・鍛冶・保命酒・祭礼・神事に関する資料を展示紹介し、三階は作曲家で筆曲家宮城道雄の特別コーナーや学習室や研修室も併設されている。

大可島(たいがしま)城跡

鞆港の東に突出した標高一〇メートルの城で、江戸時代になって陸続きとなり、城跡に真言宗円福寺が建てられている。鎌倉時代末には独立した島となっていた様だ。康永元年(一三四二)伊予の南朝方と備後の北朝方が隧灘で遭遇し合戦中、折からの強風で両軍共に鞆に吹き寄せられた。南朝方は大可島を詰城として拠点を構えると、小松寺一帯(約六百メートル北)を陣所とした北朝方は十数日猛攻を加えた。貞和五年(一三四九)中国探題として鞆に来住した足利直冬も大可島を居所としていた。

天文十三年(一五四四)大内氏より、鞆浦十八貫文の地を宛行(あてが)われた村上古充も本拠としていたという。近世には南端崖上に要害番所が設置され、鞆港出入りの船舶や沖を航行する船の監視に当たっていた。

真言宗医王寺

通説では天長年間(八二八~八三四)に弘法大師の草創と伝えられるが、寛永十六年(一六三九)以前は薬師堂と呼称された寺である。本尊は木造薬師如来立像(室町中期の作)で県の重文に指定されている。『鞆記』に依れば、「醫王寺 薬師如来は誰が建立し、誰が勧請奉るも其の印も絶て無し。されども七百余歳の事かとなん、語り傳ヘしなり。(中略)爰に見え渡りし平の里は、磯辺近く殊に物淋しき所也。しかるに彼所に仁右衛門という者有りし、かれつくくと思ふに、醫王寺は七百歳以来爰に坂をよち登り、後ろは山前は海麓に軒を並へ皆人渇仰怠る事なし」と荻野重富は地元で聞いた医王寺の伝承を書き残している。伝承から創建年代を計算すると、正保二年(一六四五)から七百年余り湖ると天慶初年頃(九二八)が適当な年代となる。弘法大師が高野山で入寂した年は天長五年(八二八)である事から、開基年代は弘法大師の没後百年以上経過した年代となるが、開基を証明する資料はない。その後三五年経過して書かれた『安久太川』は、寺の権威を増す為か「天長年中に空海和尚の卓創となん云伝へたり」と記している。

本尊の木造薬師如来立像(像高七九センチ)は室町時代中期の作とされ、県指定重要文化財。他に木造阿弥陀如来坐像(像高四八センチ)があり、同じ室町時代中期の作で市指定重要文化財がある。境内に立ち眺望すると、四国の連山や瀬戸内の島々に仙酔島や鞆港等の絶景が見られる。

日蓮宗法宣寺

『安久太川』は「後光嚴院の御宇、貞治年中(一三六二~一三六四)に龍花樹院大覚大僧正の草闢となり」と記している。南北朝時代に開創された寺で、現在は枯死したが本堂前庭の草創時に大覚大僧正が植えたと伝えられる、黒松の天蓋松(国指定天然記念物)という目通り三、二メートルの巨木があった。

以上の他に、静観寺の門前に自然石の墓塔が立派な石垣に囲まれ立っている。戦国武将山中鹿之助の首塚である。山中鹿之助は尼子勝久に仕えていたが、毛利氏との戦いに敗れて備中で殺され、首級だけが首実検に供するため足利義昭と毛利輝元がいた本営に送られた。

鞆港は石造文化財の宝庫で、大常夜燈。大雁木(石段の船着き場)・焚場(たでば)・波上場・船番所跡と、江戸時代の港湾施設が完備して現存するのは鞆だけのようである。

港回の大常夜燈の近くに鞆名産保命酒醸造元の中村家があった。幕末の文久三年(一八六三)八月、尊皇攘夷を唱え倒幕を策した七人の公家が宿泊した建物で、往時のまま本宅・朝宗亭・保命酒倉が保存され、この建物は鞆七卿落遺跡と名付けられ目指定の重要文化財になっている。

明治時代の鞆港 中央鞆城跡 沼名前神社由来記

明治時代の鞆港 中央鞆城跡 沼名前神社由来記