備陽史探訪:77号」より

小林 定市

縄文時代後期の、中津式土器や津雲上層土器などと無文土器が出土する層から、四ツに割れた土器の低部が発見され、水洗いしてみると甑(こしき)と推定出来る形をしていた。(甑は穀類を蒸すのに用いる底に蒸気を通す穴がある土器)場所は洗谷貝塚に程近い近辺の畑の耕作地。

正確な年月は記憶していないが昭和四十六年頃、福山市水呑町の洗谷随入地区では土地区画整理が進められ、区画整理の土地換地のため、私の家の前の畑に肥壷を掘った時、土中よりかなりの量の土器片が出土した事があった。

当時は歴史に全く関心が無かったので、別段気にも留めていなかったが、最近になって畑の底に眠る土器が何時の時代の物か知りたくなり、本年二月二十四日から、肥壷を破却して其の周辺部を数日間かけて発掘したところ、畑の表土より約一m下の地層から、貝殻の出土は見られなかったが、縄文式土器(約一〇kg)・敲石・石錘・石鏃・石刃・サヌカイト剥片・大分県姫島産黒曜石(灰白色)の石鏃等の地層から、甑と推定できる土器の底部のみが出土したのである。底部の直径は九cmで穴数は十六ケあり下部横面にも穴跡が見られ、穴は棒状のものを内側から外側に向けて押してあけられ、土器の胴部と口縁部は繋がっていなかったため形状と文様は共に不明であった。また、発掘場所は春の野菜を植えるため間もなく埋め戻した。
土器底部

一般的な日本に於ける最初の甑文化は、古墳時代の須恵器・土師器に依る甑と龕が一組になった土器の出土が見られ、文献史学でも『日本書記』に大化二年(六四六)三月甲申の詔に

有百姓、就他借甑炊飯、其甑触物而覆、於是、甑主乃使祓除、

と当時は甑が普及していた。

しかし、福山地方の遺跡からは縄文土器と共に甑は発見されていたのであるが、深く追求されていなかったためその土器片が甑であるとの推定判断は下されていなかった。

大田貝塚では「底部に混炉のごとき小孔を無数にあけたもの」が出土しているし、木之庄貝塚でも「底部が上げ底の規炉のように無数の小穴を有するもの」との記録と図形が見られる事から、三遺跡から同じ甑土器の出土が見られたのである。

最初は土器に依って食物の煮炊きを行っていた縄文人が、いつの間にか間接熱を伝えて穀類等を蒸す技術を身に付け、日々の生活に利用して醸造用にも用いていたとも考えられる。こうした縄文人の知恵の高さは驚くばかりで、従来からの縄文文化の常識に就いての通説は、当然見直しを受けるべきであろう。
土器片