百五十年前のおもしろ紀行文 笠岡遊覧恋浮雲

備陽史探訪:91号」より

網本 善光

岡山ぶらりスケッチ紀行

最近、ひょんな縁から、とある新聞紙上に笠岡の町に関する文章を書いています。

テーマは「旧街道」。城下町岡山の町を出発点に、岡山県の西部を走る「鴨方往来」がそれ。その名のとおり、鴨方藩と岡山藩とを結ぶ街道として、江戸時代に整備されたものです。

ところがこの道は、名前の鴨方を過ぎてなお進み、笠岡の町を越えて福山藩へと続いていました。ですから、「鴨方往来」といいながらも、実質は笠岡までの旧街道です。

この「鴨方往来」の連載は、地元笠岡に住んでおられる漫画家の方との二人三脚です。もともとは、この漫画家の方が、古き笠岡の町の様子が消え去っていくのを残念に思い、ならば、その”ふるさとの風景”をスケッチで残しておこうと考えられたのがキッカケ。それを、新聞記者の方が連載企画として取り上げたというわけです。

「鴨方往来」というのは、地元笠岡では「浜街道」とか「旧国道」と呼んでいるものです。現在の笠岡の市街地のほぼ中心部を東西に走る道路で、JR山陽本線が並行して走ってもいます。

その名のとおりに、街道が開かれた当時は海岸線付近の道であったといわれています。現在、JRの車窓より見える風景からはとても想像できませんが、笠岡の市街地の南半分というのは、それこそ水野家による「吉浜新田」(寛文年間といいますから十七世紀の半ばのものですが)に始まり、そのほとんどが干拓によるものです。

さて、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」には及びませんが、絵を描く方といっしょに”旅”をするというのは、とても刺激的な体験です。旧街道を歩きながら、私が史跡などを紹介する。一方で、漫画家の方は、その感性から、道端のふとした光景の中に、見落としていた笠岡の魅力を再発見する。そんな共同作業の連続です。

こうして旧街道を歩いていると、神社仏閣、名所旧跡にとどまらず、地名や家並みの様子、道端に咲く花や街道筋からの風景といったものにまで、興味や観察は広がってゆきます。

そうしたわたしたちのよき参考書となるのが、先人の記録や研究書であることはいうまでもありません。それら参考図書の中で、近年、興味深い文献が復刻されましたので、ご紹介しようと思います(と、ここまで、実に長い前置きとなってしまいました)。その題名は「笠岡遊覧恋浮雲(かさおかゆうらんこいのうきぐも)」といいます。笠岡の住人の山本尹口(いこう)という人物が、天保十四年(一八四三)に書いたもので、当時の笠岡の町を描いた随筆です。その冒頭はこうです。

さなきだに もの思う身は 憂きものに
まして五月の時雨空 思ひも晴れぬ つれづれに
思ひつづけし恋の路 あるじが下駄の緒をしめて
さしてや行かん笠岡の 神や仏のご冥助で

このように、随筆といっても、その文章は実に凝っており、七五調・語呂合わせ・掛け詞に押韻などがふんだんに用いられています。最初にこの書物を見た、当時の市史編纂室委員は、浄瑠璃の道行文に近い、とその感想を述べているほどです。

ちょうど、現在の笠岡市笠岡、JR笠岡駅周辺の中心市街地を、西から歩きながら、道々の神社仏閣や名所を紹介しているのですが、軽妙洒脱なその語り回は、作者の並々ならぬ教養を偲ばせるものです。

さて、この書物が現在の私たちにとって有益なのは、すでに消滅した地名や社寺名を伝えているにとどまらず、代官支配の港町笠岡の様子を実に生き生きと描写しているということです。

もともと、天領笠岡の歴史を伝える文献が少ない中で、市井の人間が自らの町を描いてくれているこの資料は、大変に貴重だと考えます。実際に鴨方往来を歩く中で、この本に紹介されている場所のいくつかを通りました。様子のすっかり変わっている所が多いものの、たまに、記述どおりの風景に出くわすと、それはうれしいものです。

ぜひ、皆さんにも”岡歩き”の際に参考にしてほしい一冊です。残念ながら品切れ状態ですが、図書館などにはあるはずです。

笠岡スケッチ紀行

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1318959219.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/1318959219-150x150.jpg管理人紀行・随筆「備陽史探訪:91号」より 網本 善光 最近、ひょんな縁から、とある新聞紙上に笠岡の町に関する文章を書いています。 テーマは「旧街道」。城下町岡山の町を出発点に、岡山県の西部を走る「鴨方往来」がそれ。その名のとおり、鴨方藩と岡山藩とを結ぶ街道として、江戸時代に整備されたものです。 ところがこの道は、名前の鴨方を過ぎてなお進み、笠岡の町を越えて福山藩へと続いていました。ですから、「鴨方往来」といいながらも、実質は笠岡までの旧街道です。 この「鴨方往来」の連載は、地元笠岡に住んでおられる漫画家の方との二人三脚です。もともとは、この漫画家の方が、古き笠岡の町の様子が消え去っていくのを残念に思い、ならば、その”ふるさとの風景”をスケッチで残しておこうと考えられたのがキッカケ。それを、新聞記者の方が連載企画として取り上げたというわけです。 「鴨方往来」というのは、地元笠岡では「浜街道」とか「旧国道」と呼んでいるものです。現在の笠岡の市街地のほぼ中心部を東西に走る道路で、JR山陽本線が並行して走ってもいます。 その名のとおりに、街道が開かれた当時は海岸線付近の道であったといわれています。現在、JRの車窓より見える風景からはとても想像できませんが、笠岡の市街地の南半分というのは、それこそ水野家による「吉浜新田」(寛文年間といいますから十七世紀の半ばのものですが)に始まり、そのほとんどが干拓によるものです。 さて、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」には及びませんが、絵を描く方といっしょに”旅”をするというのは、とても刺激的な体験です。旧街道を歩きながら、私が史跡などを紹介する。一方で、漫画家の方は、その感性から、道端のふとした光景の中に、見落としていた笠岡の魅力を再発見する。そんな共同作業の連続です。 こうして旧街道を歩いていると、神社仏閣、名所旧跡にとどまらず、地名や家並みの様子、道端に咲く花や街道筋からの風景といったものにまで、興味や観察は広がってゆきます。 そうしたわたしたちのよき参考書となるのが、先人の記録や研究書であることはいうまでもありません。それら参考図書の中で、近年、興味深い文献が復刻されましたので、ご紹介しようと思います(と、ここまで、実に長い前置きとなってしまいました)。その題名は「笠岡遊覧恋浮雲(かさおかゆうらんこいのうきぐも)」といいます。笠岡の住人の山本尹口(いこう)という人物が、天保十四年(一八四三)に書いたもので、当時の笠岡の町を描いた随筆です。その冒頭はこうです。 さなきだに もの思う身は 憂きものに まして五月の時雨空 思ひも晴れぬ つれづれに 思ひつづけし恋の路 あるじが下駄の緒をしめて さしてや行かん笠岡の 神や仏のご冥助で このように、随筆といっても、その文章は実に凝っており、七五調・語呂合わせ・掛け詞に押韻などがふんだんに用いられています。最初にこの書物を見た、当時の市史編纂室委員は、浄瑠璃の道行文に近い、とその感想を述べているほどです。 ちょうど、現在の笠岡市笠岡、JR笠岡駅周辺の中心市街地を、西から歩きながら、道々の神社仏閣や名所を紹介しているのですが、軽妙洒脱なその語り回は、作者の並々ならぬ教養を偲ばせるものです。 さて、この書物が現在の私たちにとって有益なのは、すでに消滅した地名や社寺名を伝えているにとどまらず、代官支配の港町笠岡の様子を実に生き生きと描写しているということです。 もともと、天領笠岡の歴史を伝える文献が少ない中で、市井の人間が自らの町を描いてくれているこの資料は、大変に貴重だと考えます。実際に鴨方往来を歩く中で、この本に紹介されている場所のいくつかを通りました。様子のすっかり変わっている所が多いものの、たまに、記述どおりの風景に出くわすと、それはうれしいものです。 ぜひ、皆さんにも”岡歩き”の際に参考にしてほしい一冊です。残念ながら品切れ状態ですが、図書館などにはあるはずです。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い