備陽史探訪:83号」より

三谷 尚克

神辺町丁谷を訪ねる

変貌を遂げた神辺であるが、周辺にはまだ中世から江戸の面影が濃く残る地域がある。丁谷もそんな所である。神辺小学校が谷への入口に当るが近傍にもいくつかの史跡がある。

三界万霊碑

幅三十三cm高さ二m碑自体はどこにでもあるが、このあたりの村では慶事に若い衆を呼び馳走をしたが、呼ばれなかった者がこの碑を当家に担ぎ込み嫌がらせをしたと言うことが伝わっている。

青石地蔵

三界万霊碑の隣にあり首が無くなっている。又材質が脆く剥離が起きている。水野勝成がここで試し切りをした者の供養仏と言う話と、福島家改易の時、浪人となった堤弥惣なる者が、庄屋であった藤井広昌に神辺城の城米数百石を預けてあったのを渡す様押し掛け争いとなり、弥惣は切り付けられ相方村に逃れた。後水野日向守入城の折り、両者は勝成の前で対決し藤井広昌に理有り、褒美として太刀一振りと弥惣を受け取り、当時の川南村妙立寺脇で辻切にした。と二つの話があり、弥惣の供養墓とも思われる。

石塚半二郎解剖記念碑

明治三十三年五月片山病で死亡した石塚半三郎の解剖を記念して建立された。半三郎は生前、自分が死んだら解剖してこの風土病の原因を解明して欲しいと言っていた。そして記念の墓碑を建てて欲しいといい残し、屍体の解剖などとんでもない時勇気ある半三郎を記念して浄元寺跡に建立された。

夜泣き地蔵

昔、薩摩の大名の奥方がこの地で産気づき双子を出産したが、双子はお家騒動の元となるので泣く泣く一人をこの場に埋めたと言い、夜々その子の鳴き声が聞こえて来ると伝える。他の伝えもあるが、子供の夜泣きに効くのでそばにあった松の皮を剥ぐので枯れてしまった。その後地蔵尊が建てられ浄元寺の一角にあったが、道路改修で今は用水路の上に安置されている。

四つの史跡共に現国道の裏の山際を通る旧道に面した所にある。

丁池と向山

神辺小学校の前の池を丁池、又は豊田池と呼ぶ。水野勝成の命で豊田源右衛門が総奉行となり元和年間に完成した。尚、福山志料には周五町五十八間とある。又南に東西に伸びる山が向山。地元では専ら松茸山と呼ばれている。福山志料にも松茸山と出ています。

昔より良品の松茸を産出し、その為、水野家三代勝俊の時、御用松茸山として一般の人の人山は禁止され(丁谷八幡宮棟札)明治まで続いた。この山の高い所は点々と古墳があると聞き、西の端から峠越えで隣の丙谷に通ずる頂上付近を探すと、崩れた石郭が一つ見つかった。

廃妙立寺三体二石地蔵

松茸山の裾には西寄りと中央部に墓地が二ヶ所あるが、中央の早田墓地と呼ぶ一角に廃妙立寺三体二石地蔵が祭られている。法昌山妙立寺は日蓮宗。文明十八(一四八六)年九月、日親聖人開祖で丁谷に在ったが元禄五(一六九二)年紺屋町に移転した。

備陽六郡志にも載っている古寺で跡地から墓石等が出る事がある。

宮ガ峠

早田慕地の束の外れに丙谷に通ずる峠道があり、宮ガ峠と呼ばれている。頂上付近は後出の丁谷八幡宮の古殿地があり、又、古丸山古墳(円墳)のある所である。峠の頂上に立つと丙谷から来たと言う人に出会ったので色々と聞いて見たが、良く分からないとの事。終戦後、開拓により両方共破壊され、その後も放置され今は山林に帰っていると思われる。残念なことである。

丁谷八幡宮

東西に長い丁谷の中央のカカラ山に鎮座。棟札によると建立由来は次の如くである。

嘉吉三(一四四三)年(神辺村誌では嘉吉元年)十月、神辺城主山名近江守が鶴ヶ岡八幡宮を勧請し城の鎮守としたが、幾星霜を経て破壊された小社のみ宮ガ峠に残っていた。寛永八(一六三一)年、主だった者が相談し丁谷には氏神が無いので由緒ある八幡宮をカカラ山に移したいと水野勝成に願い許された。社家は長迫玄蕃季久(備陽六郡志)。その後、讃岐国塩飽の大工小森弥左衛門なる者、鞆津に居候を呼寄棟梁とし社殿を建立した。時に寛文四(一六六四)年八月。参道の石灯篭は川南庄屋八代藤井治郎左衛門昭房寄進で安永二(一七七三)年。鳥居は安永六年の銘がある。又、石段は一五一段。継ぎ目の無い立派なものである。尚境内から出た古瓦には「火」の字が入っており、以前は神辺城の裏鬼門に建てられたのに違いない。福山城の場合も裏鬼門に当る明王院裏山に火伏せの神たる愛宕神社がある。

丁谷梅林

現在もある梅林も江戸時代には下・中・上と山麓にあった様で、幕末の皇学の権威者で歌人でもあり、又天別豊姫神社の神官でもあった鈴鹿秀満は「分け入れば袖も袂も香るなり丁の谷の梅の中道」とこの梅林を詠んでいる。現在もある梅林の真中には、文政七年廉塾に五日間滞在した頼山陽が管茶山と別離の情を七言絶句で詠み酒を酌み交した「茶山山陽餞飲の跡の碑」が建っている。山陽はこの後京に向かったのである。この梅林の賑わいの様子は大正後期の写真にも写され残っている。又付近には広川の清水と呼ばれる泉が湧いていて先年の渇水時は重宝したそうです。

廃龍興寺跡の単体六地蔵

梅林の奥に往古龍興寺があったが福山城が出来た時、福山吉津に移されこの六地蔵が残った。又鐘楼は茅葺きで丁谷の四ッ堂として残されたが、昭和初期の台風で壊れてしまいました。

帰り際吉野公園で花見をして秀満先生を真似て詠んだ一首、「武士の猛き魂も愛でるべし吉野古城趾かおる桜花を」。

管理人近世近代史「備陽史探訪:83号」より 三谷 尚克 神辺町丁谷を訪ねる 変貌を遂げた神辺であるが、周辺にはまだ中世から江戸の面影が濃く残る地域がある。丁谷もそんな所である。神辺小学校が谷への入口に当るが近傍にもいくつかの史跡がある。 三界万霊碑 幅三十三cm高さ二m碑自体はどこにでもあるが、このあたりの村では慶事に若い衆を呼び馳走をしたが、呼ばれなかった者がこの碑を当家に担ぎ込み嫌がらせをしたと言うことが伝わっている。 青石地蔵 三界万霊碑の隣にあり首が無くなっている。又材質が脆く剥離が起きている。水野勝成がここで試し切りをした者の供養仏と言う話と、福島家改易の時、浪人となった堤弥惣なる者が、庄屋であった藤井広昌に神辺城の城米数百石を預けてあったのを渡す様押し掛け争いとなり、弥惣は切り付けられ相方村に逃れた。後水野日向守入城の折り、両者は勝成の前で対決し藤井広昌に理有り、褒美として太刀一振りと弥惣を受け取り、当時の川南村妙立寺脇で辻切にした。と二つの話があり、弥惣の供養墓とも思われる。 石塚半二郎解剖記念碑 明治三十三年五月片山病で死亡した石塚半三郎の解剖を記念して建立された。半三郎は生前、自分が死んだら解剖してこの風土病の原因を解明して欲しいと言っていた。そして記念の墓碑を建てて欲しいといい残し、屍体の解剖などとんでもない時勇気ある半三郎を記念して浄元寺跡に建立された。 夜泣き地蔵 昔、薩摩の大名の奥方がこの地で産気づき双子を出産したが、双子はお家騒動の元となるので泣く泣く一人をこの場に埋めたと言い、夜々その子の鳴き声が聞こえて来ると伝える。他の伝えもあるが、子供の夜泣きに効くのでそばにあった松の皮を剥ぐので枯れてしまった。その後地蔵尊が建てられ浄元寺の一角にあったが、道路改修で今は用水路の上に安置されている。 四つの史跡共に現国道の裏の山際を通る旧道に面した所にある。 丁池と向山 神辺小学校の前の池を丁池、又は豊田池と呼ぶ。水野勝成の命で豊田源右衛門が総奉行となり元和年間に完成した。尚、福山志料には周五町五十八間とある。又南に東西に伸びる山が向山。地元では専ら松茸山と呼ばれている。福山志料にも松茸山と出ています。 昔より良品の松茸を産出し、その為、水野家三代勝俊の時、御用松茸山として一般の人の人山は禁止され(丁谷八幡宮棟札)明治まで続いた。この山の高い所は点々と古墳があると聞き、西の端から峠越えで隣の丙谷に通ずる頂上付近を探すと、崩れた石郭が一つ見つかった。 廃妙立寺三体二石地蔵 松茸山の裾には西寄りと中央部に墓地が二ヶ所あるが、中央の早田墓地と呼ぶ一角に廃妙立寺三体二石地蔵が祭られている。法昌山妙立寺は日蓮宗。文明十八(一四八六)年九月、日親聖人開祖で丁谷に在ったが元禄五(一六九二)年紺屋町に移転した。 備陽六郡志にも載っている古寺で跡地から墓石等が出る事がある。 宮ガ峠 早田慕地の束の外れに丙谷に通ずる峠道があり、宮ガ峠と呼ばれている。頂上付近は後出の丁谷八幡宮の古殿地があり、又、古丸山古墳(円墳)のある所である。峠の頂上に立つと丙谷から来たと言う人に出会ったので色々と聞いて見たが、良く分からないとの事。終戦後、開拓により両方共破壊され、その後も放置され今は山林に帰っていると思われる。残念なことである。 丁谷八幡宮 東西に長い丁谷の中央のカカラ山に鎮座。棟札によると建立由来は次の如くである。 嘉吉三(一四四三)年(神辺村誌では嘉吉元年)十月、神辺城主山名近江守が鶴ヶ岡八幡宮を勧請し城の鎮守としたが、幾星霜を経て破壊された小社のみ宮ガ峠に残っていた。寛永八(一六三一)年、主だった者が相談し丁谷には氏神が無いので由緒ある八幡宮をカカラ山に移したいと水野勝成に願い許された。社家は長迫玄蕃季久(備陽六郡志)。その後、讃岐国塩飽の大工小森弥左衛門なる者、鞆津に居候を呼寄棟梁とし社殿を建立した。時に寛文四(一六六四)年八月。参道の石灯篭は川南庄屋八代藤井治郎左衛門昭房寄進で安永二(一七七三)年。鳥居は安永六年の銘がある。又、石段は一五一段。継ぎ目の無い立派なものである。尚境内から出た古瓦には「火」の字が入っており、以前は神辺城の裏鬼門に建てられたのに違いない。福山城の場合も裏鬼門に当る明王院裏山に火伏せの神たる愛宕神社がある。 丁谷梅林 現在もある梅林も江戸時代には下・中・上と山麓にあった様で、幕末の皇学の権威者で歌人でもあり、又天別豊姫神社の神官でもあった鈴鹿秀満は「分け入れば袖も袂も香るなり丁の谷の梅の中道」とこの梅林を詠んでいる。現在もある梅林の真中には、文政七年廉塾に五日間滞在した頼山陽が管茶山と別離の情を七言絶句で詠み酒を酌み交した「茶山山陽餞飲の跡の碑」が建っている。山陽はこの後京に向かったのである。この梅林の賑わいの様子は大正後期の写真にも写され残っている。又付近には広川の清水と呼ばれる泉が湧いていて先年の渇水時は重宝したそうです。 廃龍興寺跡の単体六地蔵 梅林の奥に往古龍興寺があったが福山城が出来た時、福山吉津に移されこの六地蔵が残った。又鐘楼は茅葺きで丁谷の四ッ堂として残されたが、昭和初期の台風で壊れてしまいました。 帰り際吉野公園で花見をして秀満先生を真似て詠んだ一首、「武士の猛き魂も愛でるべし吉野古城趾かおる桜花を」。備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです