備陽史探訪:101号」より

塩出 基久

益田氏は平安後期の水久年間(一一一三~一一一八)石見の国司としくて都から下向した藤原鎌足の子孫「国兼(くにかね)」を始祖とする鎌倉時代以来、西石見地方に勢力をもった武家である。国兼が「上府(かみこう)・現在の浜田市」の御神本に土着した事から当初は「御神本」と名乗ったと推定されているが、四代の「兼高(かねたか)」が建久年間(一一九〇~一一九八)の頃、本拠地を益田荘に移してから「益田氏」と称するようになった。

益田氏はこのとき以来、慶長五年(一六〇〇)の「関が原」の戦いの後、毛利氏が防・長二国に削封された際に「元祥(もとなが)」は徳川家康から所領安堵があったにもかかわらず、先代の「藤兼」が毛利氏に服属していたので毛利輝元に殉じて長門国須佐(現在の山口県阿武郡須佐町)に移った。

それまでの鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土・桃山時代までの約四〇〇年間「益田氏」は益田の地を本拠地とした有力武士団として勢力を誇った。益田氏の系譜を以下に記しておきます。

始祖・国兼―兼実―兼栄―(4)兼高(益田氏)―兼季―兼時―兼久―兼胤―兼弘―(10)兼方―兼見―兼世―兼家―兼理―(15)兼尭―貞兼―宗兼―伊兼―藤兼―(20)元祥―広兼―元尭―就宣―兼長―(25)就恒―就賢―元道―広尭―就祥―(30)就恭―房清―元宣―親施―親祥・・。と維新まで連綿と家系が続いている。

益田氏は戦時の備えとして

七尾城」(四代・兼高が一一九三年ころ築いたとする説と、六代・兼時が一二〇〇年ころ築いたとする説があるが定かな資料はない)」

地域支配の拠点としての「三宅御土居」(最近の調査で十二世紀頃には建てられていたとの可能性がたかくなっている)」

さらには蒙古来襲に備えた「石見十八砦の防塁」を築いている。益田氏の中で節目の時代を過ごした当主の動きを列挙してみる。

始祖・国兼の曾孫「四代・兼高」は源義経の軍に従って軍功をあげ鎌倉御家人となり石見国の押領使(おうりょうし)に任ぜられる。さきにも述べたが、この時代に拠点を「益田」に移し益田氏と称することとなる。

南北朝期に「十一代兼見(かねはる)」が家督を継いでいるが兼見は庶子家であった。動乱の最中に庶子家は南朝方に属し、総領家の北朝方と対立が続いたが庶子家の「兼見」が総領家を継承している。貞治三年(一三六四)大内弘世が周防・長門・石見の守護となり、益田氏は周防の大内氏と結ぶ事になる。

「一五代・兼尭」は、当時山口で大内政弘の庇護をうけていた「雪舟」を益田に招いたとされ、雪舟筆になる「兼尭像(国重要文化財)」が残されている。

「応仁の乱」応仁元年(一四六七)~文明九年(一四七七)では「兼尭」とその子「貞兼」が大内政弘・陶弘護に従い、大内教幸とこれにくみした吉見氏の討伐の戦闘に参加、これを破っている。

「一九代・藤兼」の時、大内氏が減亡した。大内方に組していた益田氏は吉川元春の斡旋で毛利元就に帰属する。吉川家と益田家の間柄であるが藤兼の子「元祥」の室に吉川元春の長女(吉川広家の姉)が嫁している。この時の毛利家帰属が先に述べた益田の地を去る遠因となる。

しかし長門国須佐に移っても、益田氏は長州藩の永代国家老として一二、〇〇〇石を領している。「二十代・元祥」は理財に長じており削封による毛利氏の財政危機を救い長州藩の基礎をかためている。二一代・広兼は早世しているが、孫の「元尭」も理財に明るく、寛永末年から正保年間(一六四〇年代)の第二次・長州藩の経済危機を救済し、長州藩の中枢を担っている。

益田家はその後も存続、維新後は当主が「男爵」に任ぜられている。最後になりましたが、「益田家文書」の存在について述べておきたい。益田家文書は石見の豪族益田氏に伝来した一万点に上る「武家文書」で山陰地方の資料としては質・量ともに随一のものである。

全国的に見ても関東から西国に移住した武士でなく、この地にあってこれだけの史料が残っている武家の例はない。特徴的なことは、主人と一族・家臣の関係、「当時の武士達のあり方」などの記述が多く、当時の生活・社会のあり方の解明に注目されている。

この文書は東大史料編纂所に所蔵されており、史料編纂所の手でこの文書の刊行の準備が進められている。この刊行によって益田氏に関する研究が一層進展するものと見られており、その刊行がまたれている。