2001年06月16日

足利氏鞆に起り、鞆に滅ぶ(光厳上皇の院宣と幻の鞆幕府)

備陽史探訪:101号」より

田口 義之

鞆の町並み

”潮待ちの港”鞆ほど研究者の頭を悩ませる地名はない。伝説では神功皇后が渡守神社(現沼名前神社)に武具の”鞆”を奉納したことに由来するとも、鞆港の地形が武具の鞆に似ているためその名が付いたとも言われるが、これらの説は全て後世のこじつけであって、もとより信ずるに足りない。それよりも”とも”は邪馬台国時代(西暦3世紀)の投馬(トーマ)国の遺名だとする説に魅力を感じる。

広く瀬戸内海の北岸を見渡してみると、岡山県の玉野に始まって、玉の浦(尾道の古名)・玉祖(山口県)など”たま”の付く古い港が分布しているのに気付く。投馬国鞆説はその面積が狭院なことから否定的な見解が多いが、広く瀬戸内海の北岸(いわゆる吉備の国)をその比定地とすればどうだろう。”とも”は”たま”と共通の語源を持つと考えられるから、投馬国の名は早く失われてしまったが、たまたま周辺の港にのみその名をとどめた、こう考えれば良いのである。

それはさておき、鞆が日本史の大きな舞台となったのは、室町幕府の将軍足利氏との関わりにおいてであった。

その結び付きは、初代将軍足利尊氏に始まる。ご存じのように、室町幕府を開いた足利尊氏の悩みの種は、後醍醐天皇を敵に廻したことであった。当時の日本では天皇の権威はまだ生きていた。如何に全国の武士の期待を担った尊氏といえども”朝敵”の烙印は重荷であった。そのため建武三年(一三三六)正月、一度は京都を占領しながらも、後醍醐天皇方の反撃を受けて九州への都落ちを余儀なくされたのである。しかし、さすがに尊氏である。ただでは転ばなかった。この時、尊氏は側近の助言を得て、密かに使いを当時逼塞していた後醍醐のライバル光厳上皇のもとに遣わしていた。上皇の朝敵追討の院宣を獲得して、戦いを”君と君との軍にせばや”と画策したのである。光厳上皇の院宣は、同年二月十五日、尊氏一行が丁度備後の鞆に滞在中に届いた。”錦の御旗”の到来に尊氏軍の意気は大いに揚がった。そして、九州に下った尊氏は瞬く間に同地を平定、大軍を率いて東上し、京都に幕府を開くことになるのである。”足利氏鞆に興る”と言われる所以である。

尊氏にとって鞆は自分の生涯を決めた忘れ難い地であったようだ。現在、ここには足利氏が全国に建てた安国寺が法灯を伝えているが、鞆のような狭い場所にそれを建てるにはよほどの思い入れがあったはずである(もっとも現在の重要文化財釈迦堂は鎌倉時代に創建された金宝寺の遺構で尊氏は単に寺号を変えたに過ぎないが)。

しかし、尊氏にとって鞆は、生涯消えることの無かった実子直冬との骨肉の争いの発火点となった地としても、忘れることのできない場所であった。

尊氏には後に室町幕府の二代将軍となった義詮のほかに少なくとも二人の男子がいた。一人は義詮の同母兄で夭折したことがわかっているが、もう一人長兄にあたる人物がいた。それが後の直冬である。しかし、その母が遊女であったためか、長く父子の対面を許されることなく、少年時代は不遇の境涯にあった。この直冬に温かい手を差し伸べたのが、尊氏の弟で直冬には叔父にあたる直義であった。実子に恵まれなかった直義は、直冬を自分の養子として晴れ舞台に立たせた。養父の後押しで長門探題に任命された直冬は、貞和五年(一三四九)四月、備後の鞆にやって来た。だが、直冬の立身は、長く続く実父尊氏との戦いの始まりでもあった。その直後、尊氏と直義の全国を二分した争い、”観応の擾乱”が勃発、養父直義に味方した直冬は実父と地獄の闘争を繰り広げることになるのである。

直冬が本拠を置いたのが、現在は円福寺の境内となっている大可島である。ここは当時、鞆港の出口を押さえる要害で、直冬が去った後も南朝方と北朝方の争奪の巷となり、幾多の悲話を伝えている。

鞆は、古くから開けた港町である。最近、遺跡としての鞆が注目を集めているが、発掘してみると、鎌倉・室町時代の遺構は勿論、平安・奈良時代から、更には弥生や縄文の遺物に出くわすと言う。

邪馬台国時代の投馬国云々は別にして、この地が港町として古くから栄えたのには理由がある。鞆の沖合は、瀬戸内海の東西から入り込んで来る”潮”が丁度ぶつかるところである。東から来る船はここまで満ち潮に乗ってやって来て、鞆港で一休みした後、こんどは逆に引き潮に乗って西に進めば楽である。西から来る船も同様に、鞆を中継地として”潮”に乗って東に航海した。これが鞆が”潮待ちの港”と呼ばれる理由である。

古来、この地で、船出を待った人は多い。万葉歌人大伴旅人も任地への往復の途中、ここで歌を詠んでいるし、初めに述べた室町幕府の創始者足利尊氏もそうである。

しかし、鞆が船旅の中継地であっただけに、ここに足を止めた旅人の中には、中央の権力闘争に敗れ、都への望郷の念に燃えながら、空しく”船出”を待つ者も多かった。天正四年(一五七六)二月から、天正十年(一五人三)までの六年間、この地に本拠を置き、都への帰還の夢を、この”潮待ちの港”に託した室町幕府最後の将軍、足利義昭もその一人である。

義昭が備後の鞆にやって来たのは、言うまでもなく織田信長によって京都を追われたためである。すなわち、永禄十一年(一五六八)九月、信長に擁せられて室町幕府十五代将軍となった彼は、初めのうちは信長に恩を感じ、両者の仲は親密であったが、自己の地位が信長の”愧儡”に過ぎないのを悟った義昭は、次第に信長の存在を疎ましく思うようになった。そして、元亀三年(一五七二)、ついに信長打倒の旗を挙げたのである。結果は、義昭の敗北であった。山城槙島城に三千八百余人で籠った彼は、信長の攻撃に一たまりもなく降伏、ここに二五〇年続いた室町幕府は幕を下ろすことになるのである。

歴史家は、信長の義昭追放をもって室町幕府の滅亡としているが、栄光の室町幕府の看板を自分が下したとは、彼自身は全く思っていなかったらしい。義昭自身は紛れもなく現職の征夷大将軍であるし(ここで誤解があるようだが、この時義昭は将軍職を首になったわけではない)、京都を離れたのは、単に反逆者信長の難を避けただけである。プライドの高い彼は、こう考えた。そして、あくまで自分は天下を治めるべき現職の将軍であるとして、各地を放浪しながら、全国の大名に信長打倒の檄を飛ばしたのである。

義昭が一番頼りにした大名は、安芸の毛利氏であった。当時毛利氏では英雄元就が世を去ったとは言え、毛利両川と呼ばれた小早川隆景・吉川元春は健在で、その勢力は大坂の石山本願寺と結んで摂津・播磨(兵庫県)に及んでいた。義昭が毛利氏こそ、と思ったのも無理はない。そして、毛利を動かすべく、先に述べたように、天正四年二月八日、備後の鞆に”動座(どうざ)”したのである。

彼が、居を構えたと伝えられるのが、現在鞆の浦歴史民俗資料館の建つ”鞆城跡”である。鞆鉄バス終点で下車し、港沿いの道から町中に入ると、左手に小高い丘が見えて来る。これが鞆城跡である。駐車場から登って行くと、左右に刻印を打った石垣が目につくが、この石垣は義昭当時は無かったものである。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦の後、福島正則が芸備の大名として広島城に入って来るが、この石垣はその正則によって築かれた鞆城の遺構である。義昭時代の古い石垣は、丘の下に民家に隠れるように低く対潮楼の方角に続いている。

義昭が鞆にやって来たのは、前号で述べた先祖尊氏の吉例に倣ってのことであることは間違いない。天正六年(一五七八)正月、彼は浄土寺の古文書を一覧して証判を加えているが、浄土寺は初代尊氏が上洛途上立ち寄り、戦勝を祈願した足利氏縁の寺である。先祖の筆跡を見た彼は、室町幕府の再興に熱き血をたぎらせたことであろう。

だが、彼の夢は叶わなかった。天正十年六月、宿敵信長が本能寺で倒れ、彼の前途に光明が射したかと思ったのもつかの間、信長の天下統一事業は秀吉によって引き継がれ、義昭は歴史の流れに取り残されて行くのである。

鞆城跡の東に接して”神明亭”と呼ばれる安土桃山時代の庭園の跡が残っている。義昭の居館の一部ではないかと言われるこの庭園跡に立つと、枯山水の石組もなんとなくみやびて、戦乱の中でも将軍たる品格を失うまいとした彼の執念が伝わって来そうである。

”鞆幕府”は、幻に終わり、足利氏はついに”鞆に滅んだ”。義昭に関しては「陰謀将軍」だの「流れ公方」だの負のイメージが強い。しかし、信長・秀吉といった英雄を相手に一歩も引かなかったところなど、彼もやはり一個の英雄と言えるのではなかろうか。