山名是豊の備後守護補任時期を廻って

備陽史探訪:174号」より

木下 和司

個人的な好みの問題であるが、どうも歴史上の勝者よりも敗者に惹かれる。足利直冬、山名是豊、山名俊豊、何れも都での家督争いに敗れて、備後に下って波乱を起こした人物である。この内、今回は山名是豊を取上げてみたい。備後守護であり、備後での応仁。文明の乱の一方の主役でありながら、あまり研究された形跡がない(①)。

山名是豊の備後守護補任時期については、『広島県史2 中世』(P444~P445、以下『県史2』と略す)が、享徳三(一四五四)年の山名宗全隠居時に任じられたとする。しかし、これは誤りである。享徳三年十二月に播州平井要害合戦に関する感状を、田総豊里に発給しているのは、是豊の兄・教豊であり(②)、宗全の隠居時に備後守護職を継承したのは嫡子・教豊であったと考えられる。『県史2』が、是豊の備後守護職の初見とする史料を以下に挙げて、是豊の備後守護補任時期を検証してみたい。

【史料I】
「足利義政御教書」(③)

備後国重永本庄事、早任還補御判之旨、可被沙汰摂津掃部頭之親代之由、所被仰下也、仍執達如件、
 康正元年十二月廿三日
    右京大夫(花押)
  山名弾正少弼殿

【史料Ⅱ】
「備後守護山名教豊遵行状」(④)

備後国重永本庄 除領家職 事、任去廿三日御施行之旨、可被沙汰摂津掃部頭之親代之状如件、
 康正元年十二月十九日  (花押)
   弾正忠殿

『県史2』では史料Iの「山名弾正少弼」を是豊として、康正元(一四五五)年時点で管領・細川勝元から将軍家御教書を発給されていることから、是豊を備後守護だとしている。この御教書に現れる「山名弾正少弼」は次に挙げる史料により是豊の兄・教豊だと考えられる。更に、史料Ⅱは『県史2』では「備後守護山名是豊遵行状」とされているが、発給者は教豊である。以下の史料により、宛所の「弾正忠」が是豊であり、是豊は備後守護・教豊から遵行命令を受けており、備後守護代であったと考えられる(⑤)。

【史料Ⅲ】
「東寺廿一口方評定引付」(⑥)

享徳四年間四月二日
(前略)、
一巻数事、山名殿(持豊) 不動護摩一合 少弼殿(教豊) 八幡本地供一合 弾正殿(是豊) 不動供一合 垣屋(熈続)、(後略)、

【史料Ⅳ】
『長禄四年記』(⑦)
長禄四(一四六〇)年間九月廿日の条

一山名弾正少弼教豊伊予守御免同次郎政豊弾正少弼御免。(後略)、

【史料V】
『親元日記』
寛正六(一四六五)年正月十七日の条

山名弾正忠殿為城州守護職、御判御程、太刀黒千疋即納云々、

史料Ⅲ・Ⅳにより享徳四(一四五五)年には、弾正少弼が教豊であったことが分る。更に、史料Vは、山名是豊が山城守護職に補任された時の礼銭に関するものであり、「弾正忠」は是豊を指している。これにより史料Ⅲの「弾正殿」は「弾正忠」を意味し、是豊のことを指していることが分る。以上から、史料Iの「山名弾正少弼」、史料Ⅱの「弾正忠」は教豊と是豊であることが明らかとなり、享徳三年の山名宗全隠居時には教豊が備後守護職を継承しており、是豊が備後守護に任じられたという説は否定される。

更に『県史2』が備後守護・山名是豊の発給文書とする史料を挙げて、是豊が備後守護ではなく、守護代であったことを検証する。

【史料Ⅵ】
「備後守護山名是豊遵行状」(⑧)

梅津長福寺同蔵龍院并大禅院領金丸 上山田総庄等段銭諸公事臨時課役等事、御免許之由、以御書被仰下候、此趣可有存知之状如件、
長禄四年     (山名是豊)
 正月十三日    弾正忠(花押)
  山本若狭守殿

史料Ⅵは、本来「備後守護代山名是豊遵行状」とすべきものである。その根拠となる史料を以下に挙げる。

【史料Ⅶ】
「山名宗全書下」(⑨)

梅津長福寺同蔵龍院府中金丸名。同蔵竜院領上山村并大祥院領田総庄領家職預所南禅寺源知院知行等段銭己下諸公事臨時課役等事、久令免除候、其段被存知、可被停止使者入部候也、恐々謹言、
(長禄三年)
 十二月十七日    宗全(花押)
  大橋下野(源意)入道殿

【史料Ⅷ】
「備後守護代源意遵行状」(⑩)

梅津長福寺同蔵龍院并大祥院領金丸 上山田総庄等段銭諸公事臨時課役等事、御免許候由、以御書被仰下候、此趣可有存知之状如件、
長禄四年
 正月十三日    源意(花押)
  山本若狭守殿

史料Ⅶ。Ⅷは一対の史料で、史料Ⅷの、「以御書被仰下候」の御書が史料Ⅶに当たる。備後守護家の惣領であった山名宗全が、備後守護代大橋源意に、備後国の梅津長福寺領の段銭・諸公事等の免除を命じたものである。これを受けて源意が守護使・山本若狭守に発給した遵行状が史料Ⅶである。

ここで史料Ⅵと史料Ⅷは、発給日付と宛所が同一で、同一文言の書状となっている。史料Ⅵにも「以御書被仰下候」との文言があり、史料Ⅶと同文の「山名宗全書下」が是豊にも発給されていたはずである。従って、備後の守護職の実質的な保有者からの指示を受けて守護使に遵行状を発給していることから、山名是豊は、長禄四年段階では備後守護代であったと考えられる(⑪)。

では山名是豊の備後守護補任時期は何時なのだろうか。「室町幕府守護一覧」(⑫)によれば、是豊は寛正三年から文明七(一四七五)年四月頃まで備後守護であったとしている(⑬)。寛正三(一四六三)年の根拠としては、是豊を宛所とする備後に関する将軍家御教書が認められればよいのだが、これは管見には入っていない。間接的に山名是豊の寛正三年の備後守護補任を示している史料が、「渡辺先祖覚書」である。関連部分を以下に抜粋する。

【史料Ⅸ】「渡辺先祖覚書」(⑭)

二代目 兼
渡辺、若名三郎太郎、官ハ三郎左衛門尉、受領ハ信濃守 実名ハ兼也、河内國たけ山御進発ニ付而従上意山名是豊様惣大将被仰下によって備後之面々悉罷上候也、

この史料は、「河内國たけ山御進発」という文言から寛正三年から同四年に渡って行われた畠山義就征伐に関するものであることが分る。この合戦に備後国人達が山名是豊を総大将として出陣しており、国人の軍事指揮権を有していることから、是豊が備後守護に補任されていた可能性が高い。実際に高須元忠はこの戦いに参陣していたことが確認される(⑮)。また、安芸国人として毛利氏。吉川氏、石見国人として益田氏・出羽氏が山名是豊の指揮下で参陣している(⑯)。更に石見国に関しては、寛正三年頃に山名是豊が、山名宗全の意向を受けて畠山義就討伐に消極的だった同族・山名政清に替って石見守護となったことを示す史料が残されている。以下に史料を示す。

【史料X】「細川勝元書状」(⑰)

石見国之儀、政清於千御方ニ不参之上ハ、守護職事是豊ニ可令申沙汰候、随彼下知、可被致忠節候、若難渋之輩者、一段可被處罪科候、此等之趣各可被存知也、恐々謹言、
 十月二日       勝元 判
  出羽左馬助殿

これと同様に、幕府管領。細川勝元の意思により、備後についても、山名教豊から是豊に守護職が交替したと思われる。しかしながら、是豊が単独で備後の守護権を有したわけではないと考えられる史料が存在する。それは、応仁の乱が始まる前の文正三(一四六七)年に、山名宗全が守護領と思われる所領を給分として山内泰通に宛て行っており、是豊の守護権は、山名氏惣領・宗全の掣肘を受けるものだったと考えられる(⑱)。

以上見てきたように、山名是豊は寛正三年頃、管領・細川勝元の強い吹挙を受けて備後守護職に補任されたと思われる。しかし、その根拠は、河内嶽山合戦に於いて備後の国人の軍事指揮権を是豊が有していたことだけである。永享年間(一四二九〜四一)に筑前・豊後国で行われた大内。大友の合戦に、大内方として参陣した安十云・備後の国人の指揮権は、備後守護代。犬橋満泰が有していた(⑲)。このため、寛正年間の是豊の立場も、守護代であった可能性が残る。このことに就いては、今後の課題としたいと考えている。

【補注】
①山名是豊に関する論文は管見の範囲では、渡邊大門「山名是豊関係文書について」(『中世後期山名氏の研究』)しか確認していない。
②享徳三年十二月廿六日付「山名教豊感状」(『萩藩閥閲録』巻八九)
③「士林証文」(『広島県史 古代中世資料V』)
④補注③参照
⑤この時の是豊の立場には分郡守護であった可能性が残る。
康正三年の播磨守護は山名宗全であるが、赤穂・揖西郡については山名是豊が分郡守護であったとの指摘がある(高田星司「播磨守護山名氏の分郡支配について」『年報日本史叢』所収)。備後の場合も是豊に分郡守護の可能性がある。
③『東寺百合文書 ち』
⑦設楽薫「室町幕府評定衆摂津之親の日記「長禄四年記」の研究(『東京大学史料編纂所研究紀要第3号』)③「長福寺文書」(『広島県史 古代中世資料V』)
⑨「日下家文書」(『長福寺文書の研究』)
⑩「長福寺文書」(『長福寺文書の研究』)
⑪補注⑤
⑫小西四郎他監修『日本史総覧』
⑬文明七年四月、安芸国の沼田小早川氏の本城。高山城の開城により、是豊は備後より没落する。
⑭田口義之《史料紹介》「渡辺先祖覚書」(『山城志』第七集)
⑮(年欠)十二月廿四日付「山名是豊書状」(『萩藩閥閲録』巻六七)
⑯寛正三年八月十二日付「足利義政御内書案」
・『吉川家文書』三二五号
・『吉川家文書』一一五号等
⑰『萩藩閥閲録』巻四三
⑱文正三年二月三日付「山名持豊判物」(『山内家文書』一一一号)
⑲『満済准后日記』
・永享四年十月十日の条
・永享五年八月廿九日の条
・永享五年九月五日の条

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