2013年04月01日

尾道の山根(屋)系石工と石造物について(狛犬を中心に)

備陽史探訪:171号」より

岡田 宏一郎

狛犬について調査・研究し、強い関心を持たれている人が会員の中にかなりおられると思うが、狛犬についての見方やとらえ方はそれぞれ違っていると思っている。

たとえば狛犬の形にこだわり「玉乗り型」「おすわり型」「かまえ型」「子連れ型」「玉持ち型」など形に注目している人や「地域タイプに注目」して「江戸」「京タイプ」「獅子山」などと名前を付けたり、狛犬の向き、尾や耳の形、さらに顔の表情に面白さを感じ、関心を寄せている人など様々であろう。

狛犬については学問的に定着していないため自由に考えることが出来るのがいいのかもしれない。

小生も石造狛犬、とりわけ尾道型と言われる「玉乗り狛犬」については関心を持っている。さらに、その「製作年代と尾道石工」については、詳しく確認し調査している人は少ないように感じている。そうしたことから尾道石工についての研究成果の資料や文献を引用・参考にしながら紹介してみたいと思ったのである。

尾道石工の手による「鳥居・常夜燈・水盤・狛犬」などの石造物は、備後各地の神社などでよく見かける。花崗岩製の尾道石造物は江戸期から幕末・明治期にかけて北前船によって運ばれ、山陰・北陸・佐渡島からさらに北海道まで及んでいる。

尾道型と言われる「玉乗り型狛犬」は「明治時代にブームとなり北九州から瀬戸内海沿岸にかけて分布している」ので、見かけることがある。

これらの石造物は尾道市久保町常称寺下に「石屋町」の町名があり、ここに石工集団が住んでいた。昭和20年代初めごろまでは石屋が15~16軒連ねていたので、子どものころ石屋で加工されていく様子を眺めていたことを思い出す。昭和初期には石屋が40軒くらい、職人が70~80人ほどいた、という。

「文政四年尾道町の町割地図」を見ると「石屋町」が書かれていて「石屋源三郎、石屋五郎兵ヱ、石屋助四郎、石屋嘉右ヱ門、石屋友八、石屋清三郎、石屋勘十郎」などの名前が見える。

ただ、この町割地図には山根源四郎の名前が見当たらないのが不思議である。

「尾道浦御加子地子銀控御帳」によると「宮崎上新町一、同下町一、今市下町二、今市上町二、渡し場上町一」など数軒の石屋がある。

さて尾道石工の優れた技を示すものとして、尾道型と呼ばれている「玉乗り型狛犬」のうち、大きな狛犬として「八坂神社の玉乗り型狛犬」がすごいのである。だからこれらの狛犬を製作した「尾道石工集団とその系統」が気になる。

八坂神社の狛犬(右)

右。台座に天保八年丁酉五月(1837)

八坂神社の狛犬(左)

尾道石工による古い石造物としては松山市道後湯釜薬師に「享禄四年(1531)」の年号と「備州尾道住石工□阿」銘の水盤がある。

また府中市の常福寺の石造香炉には「天正十二年」(1585)の銘と「尾道住大工左右衛門」の銘文がある。(大工とは石工の棟梁の事である)

廿日市市宮島町の弥山の水盤には「天正三十年」(1592)の年号と「尾道長江」の銘がある。こうしたことから中世において尾道石工が活躍していたことがわかるし、広島城築城の時、尾道石工が広島に移住して尾道町を作っていたことがわかる。

尾道石工の活躍は、北前船が尾道に寄港し、バラストの役目も兼ねながら「石燈籠、石鳥居、狛犬」などの石造物が日本海沿岸から佐渡島、遠く北海道まで運ばれていったことから佐渡の宿根木白山神社には「尾道石工与三郎」の銘の鳥居がある。

北海道では、尾道から来たと思われる狛犬に「熊野神社(松前町)に嘉永元年の狛犬」、「厳島神社(函館市)には慶応四年」、「水天宮(小樽市)大正九年」(これには尾道市寄井弥七の銘がある)、「利尻山神社(利尻富士町)大正十一年」などの狛犬は外観上の印象は互いにきわめて似ているし、外観のみならず各部の細かい点でもほぼ同じ彫がなされており、尾道でも造形上のおおよその規範があり、代々受け継がれてきたことをうかがわせてくれる。

また「尾道式を手本にして道内の石工によって造られたものも二・三の地に見受けられ姿が独特であるだけに道内の職人にも影響を及ぼしたものであろう」

さて、尾道石工にはどのような集団や系列があったのであろうか。これについては自分にとって気になり、知りたいことであった。

石工集団の中で比較的よく見かけるのが「山根(屋)系の石工」であろう。

尾道市因島重井町八幡神社の鳥居(右側)に「貞享五戊辰年」(1688)、左側の柱の表には「十月大吉祥 尾道石工大工源四郎」とあり、右側柱の裏面には「尾道住人石工新茂作」とある。山根系石工に「源四郎」、「山根源四郎富重」、「山根源四郎登徳」、「山根平三郎安利」」

この平三郎銘の石造物に、福山市鞆町福寿院境内の宝篋印塔の基壇に「石工山根源四郎 山根平三郎」の連名がある。

「山根源四郎傳駕」については「宮島の〈かんざし燈籠〉に銘がある」「山根源四郎傳馬」については、福山市鞆町沼名前神社の石燈籠に「天明五年六月日」〈1785〉石工尾道山根源四郎傳馬の銘がある。また福山市今津町高諸神社の石鳥居に「寛政十年(1798)の年号と石工尾道山根傳馬作」の銘があると「備後国尾道石工の研究 是光吉基」の中に書かれている。地元なので、確認のため調べに行ったが鳥居に彫られた文字は風化していてかすかに「寛政十年十歳年」の年号は読めるが「石工山根傳馬」銘については読み取れなかった。

また境内入口に鎮座している狛犬の台座に、大きく「尾道」と彫られているが、「奉献者の住んでいる町名を彫っているのか」それとも「石工の住んでいる町の名を刻んだのか」不明であるため、今後の調査課題である。

「山根源四郎好孝」は「尾道市土堂町吉備津彦神社の石鳥居右側柱の表側に「安政三年亥龍集吉祥日」とあり、裏側には「石工山根源四郎好孝」の銘がある。

福山市津之郷町の田辺寺の宝篋印塔には「安政五年」の年号と「尾道石工 山根源蔵作」とある。その他「山根重三郎」は豊田郡本郷町(現三原市)木々津神社に「文化元年十二月吉日 尾道石工山根重三郎作」の鳥居がある。

「山根源四郎傳篤」製作の石造物は山根(屋)系の中で最も多くよく見かける。

傳篤作の水盤や石燈籠は多くあるが、ここでは安芸、備後の狛犬についてふれてみたい。

安芸津町榊山神社の狛犬に「文化十二年歳在乙亥八月吉日 石工尾道住山根屋源四郎傳篤彫造」とある。尾道の吉備津彦神社の狛犬には「文化十三年丙子十月吉日 石工棟梁山根源四郎傳篤彫造」の銘がある。また、竹原市竹原町住吉大神宮には「乙酉文政八年極月吉日 棟梁石工山根屋源四郎藤原傳篤作」の狛犬が鎮座している。竹原市吉名町光海神社の狛犬には「天保四年尾道住棟梁石大工山根屋源四郎藤原傳篤」の銘が見られる。

鞆町の小鳥神社の狛犬には「天保十四年癸卯年 棟梁石工尾道住山根源四郎傳篤作」と彫られていて、藤原の姓がつけられている。これは文化年間から見られるようになる。

「山根源四郎」との銘だけ刻まれた狛犬は、安芸津町祝詞山神社の狛犬に「嘉永七年歳次甲寅尊春穀旦尾道石工山根源四郎作」とある。

福山市草戸稲荷社の石造狐(狛狐)には「文久四年」の年号と「尾道山源作」の銘があり、また東広島市西条町御建神社の狛犬にも「慶応丙寅石工山源作」、福山市瀬戸町熊野神社の狛犬に「慶応三年 尾道山源作」とある。これは山根(屋)源四郎を略して「山源」として用いたと考えられる。

山根(屋)系の石工について「寛永十五年尾道町御地詰帳」(新修尾道市史 第二巻)の中に「屋敷 かやたう大門 いしや源四郎」(かやたう大門とは時宗の常称寺の門である)の名があり、「尾道宗門改帳」(新修尾道市史 第二巻)にも「びしゃもん(西郷寺)いしや源四郎」の名がある。その他、時宗びしゃもん(西郷寺)に「いしや与七」、真宗の常泉寺「いしや正五郎」などの名があり、時宗や真宗の寺を檀那寺としている。

尾道には時宗の寺が多いのが福山などと違うのである。山根(屋)系の中でも「傳篤」は多くの石造物を残しているが「尾道石工棟梁」として、尾道石工の第一人者である。傳篤より以前の尾道石工による石造物は「宝篋印塔、石燈籠、石鳥居」などである。だが傳篤は、新たに玉乗り狛犬を製作し、他の石工の追随を許さなかったので「棟梁」を名乗ったのではなかろうか、と言われている。

幕末期には山根(屋)系の石造物より山城屋系、川崎屋系の石造物が多く存在してくる。

いずれにしても山根(屋)系は近世初頭から石工としての地位を確保し、「文化・文政期にもっとも隆盛を極め」たが「慶応三年の銘がある狛犬を最後」に確認が出来なくなる。

明治時代に発刊された「芸備日々新聞」の広告に「酢醸業山根源四郎」の名を見かけるが、幕末には職業を変えたことも考えられると思われる。

以上、山根(屋)系尾道石工の銘がある狛犬を、芸備地方を中心に紹介してきたが、近世の石造狛犬について「製作年代や石工の銘、石工の系統」について調べていくことは、さらなる発見があり、狛犬の形だけでなくより面白さが増すのではないだろうとか、思う次第である。注意深く探索されている会員の皆さん!新しい発見と報告を待っています。

文政四年 尾道町町割図

文政四年 尾道町町割図


《引用及び参考文献》
『備後国尾道石工の研究』(特に山根〈系〉の石工について 是光吉基)
『新修尾道市史 第二巻』
『ほっかいどうの狛犬』丸浦正弘中西出版
『THE狛犬コレクタンョン』(参道狛犬大図鑑)三遊亭円丈 立風書一房
『文政四年尾道町町割地図』
『尾道商業会議所記念館 第9回企画展示バンフ』など